随談第337回 記憶で切り取った光景=昭和20年代(その1)

つい先週、前川八郎という名前を新聞の訃報欄で見つけた。「巨人の最高齢OB」という見出しのついた小さな記事だった。沢村栄治だのスタルヒンだのというビッグネームの影に隠れてしまったのは余儀ないことだが、プロ野球草創期の記事を読むと、ちょいちょいその名前が出てくるので、子供の頃から名前は知っていた。戦後も一年間だけ、阪急ブレーブズでプレーをした(ということは、今度はじめて知った)というから、それとは知らずに見ていた可能性はあるが、なにせ小学校入学前のことだから雲をつかむような話でしかない。つい去年、巨人の復刻ユニフォームを着て東京ドームで始球式をしたのはテレビのニュースで見たし、何年か前、孫だかひ孫だかが甲子園に出場したとかでテレビに出たのも見た記憶がある。歴史上の人物が出てきたような、不思議な感じだった。97歳という。つまり、プロ野球の最も古い選手の上限が、ほぼ一世紀だということでもある。

偶然というものの不思議は、まったく同じ日の東京新聞の地方版に、上井草球場の記事が載っていて、昭和十一年、結成当時の「東京セネタース」の選手たちの写真が添えてある。前列の選手が片膝を立てて座り、後列の選手が横一列に立つという、見るだに昔なつかしい団体写真である。(以前は、試合開始前などに、グラウンドでそういう写真を撮っている光景をよく見かけたものだが、近頃ははやらないらしい。)そこにまだ若い顔で写っている当時の主力だった浅岡投手も、現在96歳だという。つまり、前川と浅岡が投げ合う巨人―セネタース戦というのも、おそらくあったことになる。そんなふたりのことが、同じ日の同じ新聞に載るという不思議!

この二つの記事を読んでいる内に、俄かに、上井草球場の情景が記憶の中から甦った。上井草球場は、一度だけ、見に行った記憶がある。戦後、神宮球場が進駐軍に接収されていたために、六大学リーグ戦を上井草でやっていた一時期があり、そのほんの短い期間の貴重な体験なわけだ。東明戦と慶立戦だったかを見て、東大が明治に勝ったということだけ覚えている。たぶん、東大がリーグ戦史上一度だけ二位になったことがある、そのシーズンであるはずだ。大人たちは、まだ「東大」という言葉が口になじまず、「帝大」といっていたことも覚えている。(そういえばいまのJRのことも、大人たちは「国電」ではなく「省線」と言っていた。鉄道省の省線、というわけだ。)

最近は、映画も新しい作品を見るより、神保町シアターや池袋の新文芸座などで、昭和二十年代・三十年代の映画を見ることが多い。懐旧趣味ももちろんあるが、それ以上に、そこに写し取られている情景を見るのが実に面白いからでもある。もちろん、作品としても見るけれども、しかしいわゆる名画だけが面白いのではない。また、そういう観点からは、時代劇(ももちろん、それはそれとして面白いが)よりも現代劇のほうがはるかにインタレスチングである。つまり、好奇心を刺激される度合いがはるかに強い。

数行の記事。一枚の写真。ひとながれの映像。それらが私の中に眠っていた記憶を目覚めさせる時、数限りないものが、甦り、私を刺激する。記憶で切り取ったさまざまな光景が立ち上がる。これは、ただ見過ごすにはあまりにも惜しい。

というわけで、これから時々、その種のことを書きとめていこうと思い立った。「その1」としたのは、詠んでくださる方々をダシにしての宣言のつもり。もちろん、勝手気ままの、断続的な連載である。

随談第336回 蕃空婆五輪異聞

浅田真央なんぞすっ転んじまえ、と思っていた。浅田選手には何の恨みもない。むしろ好印象をもっている。しかし浅田真央と上村愛子しかいないかのようなオリンピック前からの報道の姿勢には、反吐が出そうだった。直前に行なわれた四大陸選手権とかいう大会で、初日のショートプログラムで浅田は三位だった。翌日のニュースショーを見ていたら、女性のキャスターが、ぜひ浅田選手の逆転を期待したいですね、とやっている。だがその時点で首位にいたのは外国の選手ではなく、鈴木明子選手だった。あたしが勝ってはいけないんでしょうか、ともし本人が知ったら言うだろう。私は心から、鈴木選手に同情したくなった。一寸の虫にも五分の魂とはこのことである。こんな理不尽な報道があるだろうか? 金メダルなんかクソ喰らえだ。

まあしかし、あの結果は順当なところだったろう。素人の勘で見ているだけだから、聞いた風な技術評だの、採点法がどうのと言う気はないが、スピードスケートのメダリストだった清水宏保氏が、キムヨナは登場した一瞬にして場内を自分のものにしてしまう力がある、と新聞のコラムに書いていたのは、その通りだろうとテレビを通しても得心できた。(それにしてもこの清水という人は、ついこの間まで現役選手だったとは思われないような、冴えのある文章を書く。)私の好みからすれば、シャ-プで切れ味がいい中に清楚な色気のある浅田の方が、見ていて快感があるが、しかし全体としてキムの方が一枚上なのは確かだろう。存外に大きかった得点差は、技術上のミスだけのことではない。勝負の場、という現実を、浅田自身も周囲も、マスコミも、顧みようとしなかったことの反映だろう。

浅田にとっては、追っても追っても一枚上に向こうがいる、というのは辛いことに違いない。むかしメルボルンからローマ大会のころ、水泳の山中という選手が、新記録をどんなに出しても、一枚上にローズというオーストラリアの選手がいて、勝負ということになるとどうしても敵わなかったのを思い出す。キムヨナvs浅田と同じ図式だが、総合的な戦略を構想するしたたかさにかけて、日本人というのはかなり致命的に音痴なのかもしれない。(日米戦争を見たって、よくもあんな程度の作戦でアメリカと戦争をしたものだとしか思えないではないか。)

長洲という十六歳のアメリカ国籍の日本人の少女が、怖いもの知らずで、呆れるほどのびのびと屈託なくプレイをする。オリンピックで楽しくやるにはあれに限る。四年間、苦労に苦労を重ねた安藤よりも上位に入って、安藤さんに勝っちゃった、という一言は、可愛くもあれば、これほど残酷な言葉もない。

オリンピックを見るたびに思うのは、人間というものは何だってこんなにまでして人と争うことを愉しむのだろう、ということだ。そもそもスポーツというものがそうなのだが、オリンピックがとりわけそれを考えさせるのは、四年ごとに(この四年という、長くも短くもない皮肉な時間が曲者なのだ。これを考えた奴は、もしかしたサタンかもしれない)世界中から、いろいろな競技の選手が集まってくるということが、こんなことを考えさせるのだろう。オリンピックとは、グローバリズムによる寛永御前試合である。

浅田よりもはるかに僅差で金メダルを逃したのは、女子のスケートの追い越しナントカという競技だった。だがその日は、チリで起きた大地震が原因の津波騒ぎが日本中を襲って、NHKは終日そのニュースを繰り返して、折角の銀メダルもおちおち放送してもらえなかった。津波がもう二日早く来ていたら女子フィギュアの決戦の日だったわけだが、もしそうなっていたらNHKはどうしただろう?(これは、なかなか興味深い問題である。)

昔の冬季大会といえば、日本人選手は「惜しくも予選失格」とか、参加40名中三十何位とかいうのがほとんどだったから、妙な愛国心などに煩わされずに外国の一流選手の超絶技巧(としか思われなかった)を堪能したものだった。種目も少なかったから、スキーならアルペン種目とか、スケートなら長距離種目がいやでも目についたが、いまや、終日テレビに貼りついてでもいないかぎり、日本選手のいない、いてもいないが如きその手の種目は、どこでやっているのかという有様である。種目のふえるのもいいが、たとえばフィギュアスケートのペアのフリーとアイスダンスの違いって、どこでどう線引きをするのだろう? 腰パン王子などというのが登場したりするのも、つまりはオリンピック商法の蒔いた種であって、開会式で入場行進よりアトラクションに手間隙を掛けるのも、トッピングとやらで客を釣るカレーライス屋やラーメン屋みたいに見えてくる。世界中から大小さまざまな国の選手が寄り集う入場行進こそが、オリンピックの神髄だろうに。

オリンピックに見る善きものふたつ。カーリングの女子選手の三白眼と、月光仮面みたいなユニホームで疾走したスピードスケートの女子選手が、ゴールと同時に頭巾を脱ぐ一瞬にこぼれ出る、やまとなでしこの風情。

随談第335回 相撲騒動(その4)

相撲談義がずいぶん長々と続いてしまった。世の中はもう朝青龍のことなど忘れたように、オリンピックで明け暮れている。出遅れているうちに丑三つ時はおろか、夜が明けてしまった幽霊のような気分だが、ここまで続けた以上、もう一回だけ書くことにする。

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ところで相撲協会のことだが、江戸の勧進相撲の昔はともかく、明治この方だけを考えても、全員が引退したOBだけでひとつの組織をつくり、運営してきた集団というのは、考えてみればきわめてユニークといわねばなるまい。ギルド制度が今なお存続しているようなものかもしれないが、プロ野球は、選手出身者で球団やプロ野球機構にたずさわる者は、ほんの例外でしかない。(だから、たかが選手の癖に、などという経営者が現われたりすることにもなる。)プロ野球の欠点を研究して結成したJリーグは、その点うまくやっているようにも見えるが、往年の人気力士がいまは木戸係りになって切符もぎりをしてくれる、などというユーモラスでほほえましい光景は、大相撲だけだろう。

このところの不祥事に対して、することなすことが裏目裏目に出るものだから、中には愚者の集団のような言い方をする向きもあるが、明治維新この方百数十年という激動の時代を現代まで乗り切ってきたのだから、考えればただごとではない。(本当に愚者の集団だったら、とっくの昔につぶれていた筈ではなかろうか?)面白いといえば、朝青龍のサッカー事件のときだったか、当時の北の湖理事長が二言目には、協会より先に各部屋の責任ということを言ったが、協会と各部屋の関係というのは、徳川幕府と各藩の関係に似ているように見える。理事長というのは、連邦共和国の大統領みたいでもある。それはそれで、経験から割り出された方式なのだろうから、うまく機能しさえすれば、味のあるやり方のような気もするが、どうなのだろう? 少なくとも、高校・大学・実業団とアマチュア界で相当レベル以上の上澄みを掬い取って成立しているプロ野球やJリーグに対し、基本的には無から修行を始める大相撲は、おのずから組織の構造が違うのだということである。つまり擬似家庭であり学校でもあるわけで、だからこそ言葉本来の字義通り「親方」が存在するのだ。

もっとも、やれ大麻汚染だ外国人横綱の暴力事件だと、これまで経験しなかった「外患」に次々に見舞われると、黒船渡来の折の徳川幕府みたいに、内向きの姿勢が目立って外への対応がいかにも拙い。しかし民主党だって某有名自動車メーカーだって、いざ外憂に見舞われるとつい内側にばかり気が回るという構図は、相撲協会と大して変わるところはない。その目で見れば、相撲協会のあり方は日本社会の縮図なのであって、ワイドショーでもっともらしく相撲協会批判をしているテレビ文化人諸氏だって、夫子自身が勤めている大学だの何だの、ご自分の職場に戻ったら、協会の理事たちとあまり違わないことを言ったりやったりしているのではないだろうか?

こう言ったからといって、昨今の協会のすることしたことをそのまま、支持するわけでも弁護するわけでもない。やはり改革は必要なのであって、時津風部屋の事件にひきつづいての大麻事件の時、外部理事制度を導入したが、もしあのとき外部理事を参画させていなかったら、今度の一件も、切り抜けられたかどうか疑わしい。しかし、民間企業だったら、とテレビ文化人がよく言うように、何でも民間企業と同じにするばかりが能でもないだろう。そもそも日本の民間企業って、そんなによく出来た組織なのだろうか? まして大学が?

それにしても、本場所休場中に戦後初のアメリカの野球チームの来日だったサンフランシスコ・シールズ(日本の野球が全然歯が立たず随分強いと思ったが、あれはじつはメジャーではなかったのだ!)の試合を見に行って(しかもオドール監督と握手までしたのだから、大胆不敵といおうか能天気と言おうか)、それが問題となって引退に追い込まれた前田山といい、横綱をやめてプロレスラーになった東富士といい、朝汐二代といい、高見山や小錦といい、そして朝青龍といい、高砂部屋というのは、良くも悪くも、ユニークな人材を輩出する部屋ではある。しかし良い方に働けば、それは進取の精神にもつながるのであって、かの前田山は理事になってから、協会として初のアメリカ遠征を企画し、それが高見山を発掘し外人力士を導入する契機を作ったのだった。また千代の山が九重部屋を起して出羽ノ海一門を破門になったとき、高砂一門へ迎え入れるという男気を見せたのもこの人だった。この人の全盛は戦前の大関時代で、猛烈な張り手で恐れられ、双葉山と羽黒山の二大強豪を同じ場所のうちに張り倒して物議を醸したという人である。誰かさんと似ていませんかね。

と、大分長話になったので、相撲談義はこのぐらいで打出しとしましょう。

随談第334回 相撲騒動(その3)

朝青龍騒動を伝える一連のテレビ報道の中で、女性記者に品格とはと訊かれた朝青龍が、ウームと少し考え込んでから、イヤよくわかんないんですよと答えている映像があった。今度の事件後ではなく、しばらく前のものであるらしく、食事をしながらの朝青龍の態度には、相手との信頼関係がある程度保たれている雰囲気が感じられ、それだけに朝青龍の神妙な顔つきが印象的な映像だった。(前にも書いたが、一連の朝青龍問題のかなりの要素は、報道関係とのねじれがしこりになっていたに違いないと私は見ている。少なくともそれが、世人の朝青龍批判を増幅していたことは間違いない。(それにしても、報道陣に対する朝青龍の態度や応答ぶりを見ていると、かの小沢一郎氏と共通するものをかなり発見するが(いや、逆か?)、人物観察の上から、これはなかなか興味深いテーマである。)

朝青龍でなくとも、(われわれだって)品格とは何ですかと訊かれてすらすら答えられないのは当然である。答えられたところで、そんな想定問答集の模範回答例みたいな答は屁にもなるまい。昔、西鉄ライオンズ全盛のころ、稲尾だ大下だ中西だといった猛者たちが、大酒に酔って海に飛び込んだり、大暴れをした翌日の試合にちゃんと勝ってしまったという話がある。すげえなあ、と誰しも微笑したくなるだろう。つまり、泥酔して翌日の勝負に勝つことは、ある条件さえ満たしていれば、非難の対象どころか、英雄伝説になるのである。ある条件とは、笑って許し、許されるだけの雅量と愛を、世人と当人と、双方がもつことができるかどうかだ。

野球の選手にしてその通り、いわんや天下の相撲取りに於いておや。お相撲さん、といういい言葉がある。お野球さんともおサッカーさんとも言わない。(最近は、力士さん、などという妙な言葉ができているらしいが。)常人とは違う、桁外れに大いなる者への愛と親しみ、そしてユーモア。国技とは何か、品格とは何かなどと御託を並べる隙に、思うべきはそれではないのか? 朝青龍にも、間違いなく、そうした愛すべきお相撲さんとしての要素はあったはずだ。相撲が国技というなら、野見宿禰や手力男の命以来の、日本人にとっての愛すべき英雄伝説をよしとするこころが、時を変え形をかえても、現代のわれわれの胸の奥に生きて棲み続けているからこその国技なのであって、後から作った格式や儀礼やなにやかやより、まずそのおおらかさこそが先にあるべきものだろう。

手力男の命といえば、『日本誕生』という映画に、当時の横綱の朝汐が手力男の役で特別出演したことがあったっけ。もちろん、朝青龍の親方のあの朝汐ではなく、そのもうひとつ前の、栃若と覇を争った、つまりほんとの朝汐である。その朝汐が、まさしく手力男の命の再来のような雄大なガカイに太い眉、堂々たる男ぶりにテンガロンハットだか何だかをかぶって街を行くのを、進駐軍の米兵が唖然として見上げているのを見て、ザマアミヤガレと溜飲を下げたと書いていたのは、野坂昭如だったか小沢昭一だったか。これぞ国技大相撲ではないか?

懸賞金の受取り方がどうのという非難があった。手刀を切るという仕種は、戦後しばらく中断されていた懸賞が復活したとき、忘れていたり、そもそも知らない戦後派力士が多かった中で、名寄岩という昔かたぎの力士が範を示して見せたのが、まもなく始まったテレビ中継を通じて知られるようになったのだった。しかしたとえば横綱の柏戸などは、厚さ十センチもあるような束をむんずと鷲掴みにしていたと思う。

千秋楽に是より三役となって、小結に叶う勝ち名乗りを上げる力士が弓の矢を受ける。栃錦だったか、正式のやり方を親方(当時の春日野親方、つまり、大正時代の名横綱栃木山である)に教わったのだが、間違うとみっともないからよしちゃった、と言っていたっけ。つまり、正式の作法というものがあるにせよ、それをきちんと知っていて、実行している者は、ごくわずかな一部の者なのだ。それでも、いいのである。

手刀の切り方の範を垂れた名寄岩という力士は、双葉山・羽黒山と立浪三羽烏と呼ばれた戦前派で、若いころ「怒り金時」という仇名があった。金太郎が顔を真っ赤にして怒っているような、真っ正直な頑固者だったのでついた仇名だった。れっきとした関取になってから、あるとき門限に遅れそのまま朝まで門外に立ち尽して開門を待ったという逸話の持主で、大関から数度陥落して平幕に落ちても四〇歳近くまで取り続けた一徹者として人気があった力士だが、見習うべきだと言ったってこんな人物は滅多にいるものではない。当時まだ劇作家だった池波正太郎が一代記を芝居に書いて、新国劇で上演したことがあった。つまり芝居になるほど、お相撲さんの中のお相撲さんだったのだ。(まだ続く)

随談第333回 相撲騒動(その2)

初代若乃花の話をもう少し続けよう。若乃花というとよく語られるのが、土俵の鬼と呼ばれた異名と、土俵の中に金が埋まっていると若い者に教えたという逸話だが、どちらも、この人がどんな相撲取りであったかを明快に語っている。朝青龍が引退会見で、土俵上のマナーのことに質問が向けられると、土俵に上がったら鬼になると答えたのと、土俵外での行状に何かと金の噂がつきまとうのとを、もちろん、短絡させるわけには行かないが、しかし両者の土俵人生を語る上でのキーワードが「鬼」と「金」であるというのは、おもしろい符合ではある。

初代若乃花が土俵の鬼と呼ばれるようになったのは、初優勝を目前にした大関時代、ぐらぐら煮立ったちゃんこ鍋の熱湯を全身に浴びるという悲惨な事故で幼い長男を亡くしながらなお、土俵を勤めたことからだったし、土俵に金が埋まっているという若い者への教えはもちろん比喩であって、その心を現代語訳するならハングリー精神と訳すべきだろう。

しかしその土俵上の闘魂と出世への意欲とを、土俵に金が埋まっていると表現する実に端的で明快な精神に、若乃花という人間像が鮮やかに浮かび上がる。巷間噂される朝青龍にまつわるマネーの問題とて、つきつめれば、ハングリーという一語に還元され得るに違いない。つまりそれは、相撲という「伝統芸能」の根底を支える根元に触れているのだ。

太宰治に、まだ戦前、国技館で大相撲を見物したときの小文があったはずだが、相撲を稚拙で貧しい民芸品だか何かになぞらえていたのではなかったか。当時は双葉山の全盛時代で、不敗の横綱が敗れて「我、いまだ木鶏たり得ず」と語ったのを、太宰は、横綱の語る箴言は哀しいと評している。当時、ようやく作家として遇されるようになった太宰が、新聞社かなにかから招待されて、往時の両国国技館の桟敷に座ったときの言である。太宰一流の気取ったポーズの陰に、鋭く本質を射抜く目が感じ取れる。

相撲を国技と呼んだのは板垣退助だと聞いたが、この言葉には、歌舞伎座を国劇の殿堂と呼ぶのと同じで、いかにも明治という時代の匂いが芬々とまつわりついている。太宰が直感的に感じ取ったのは、もっと土俗的な、それだけもっと古い民俗の層につらなる何かだろう。

横綱の品格というイメージを最初に作ったのは、明治の角聖といわれた常陸山という大横綱である。好敵手の二代目梅ヶ谷と「梅常陸」と呼ばれた相撲人気が、明治末という時代に国技館という巨大な建造物を建てさせたのだから、ここに今日の相撲につながるひとつの原点がある。つまり、「国技」とか「国技館」という言葉と、常陸山の示した横綱の「品格」とは、この時点で、二にして一なるものとして確立されたのだと見ていい。行司の装束が、足利時代の武家の風俗になったのもそれ以降で、つまり国技としての格式を整えたのだろう。梅常陸の時代までは、紋付に裃袴という江戸の勧進相撲以来の服装である。いまも神社やお寺の豆まきで見るあの姿だが、あれはつまり江戸時代の町人の正装である。

常陸山は、常に相手を受けて立ち、相手に充分に組ませてからおもむろに料理するのが横綱相撲だという、横綱の理想像を作り上げた。ところがこの常陸山が、あるとき大敵を破った誇らしさに、土俵の廻りを勝ち誇って一周したと言う話を、むかし何かの本で読んだ記憶がある。いまとなっては確証できないのが残念だが、事実としたら朝青龍のガッツポーズどころの話ではない。

その次に横綱の品格というイメージを作ったのは、双葉山である。写真で見ても剛勇という感じの常陸山に対し、静的で、一種宗教的で(いまここで蒸し返す必要はなかろうが、双葉山にある種の宗教への志向があったことは隠れもない戦後史の一事件に関わっている)、フィルムに残る土俵入りの様子を見ても、神々しくさえある。まさしくそこには「品格」があるかのようである。相撲ぶりも、後の先という、受けて立ちながら一合するときには既に自分の方が先んじているという、常陸山の打ち立てた横綱像に沿いながら、より洗練された横綱像に塗り替えた。これが、いまもって理想の力士像であり、「品格」なるものの本尊である。

ところで、白鵬が双葉山の土俵入りを真似ようとして、頭がお留守になり、肝心のセリ上がりを忘れてしまったというお笑いぐさが、朝青龍引退騒動と同じ今場所に起ったという偶然は、もしかすると、相撲の神様の悪戯かもしれないし、天の示した暗示かもしれない。品格を言うのはいいが、あまり持って回って振りかざすと、かえって滑稽にもなる。近代の相撲が作り上げてきた「品格」という陽の面と、太宰が直感したような、一種物哀しくさえある土俗や芸能としての陰の面と、その両面があってこその国技大相撲なのではないかというのが、私の考えなのだが・・・。(まだ続く)

随談第332回 相撲騒動 その1・品格って何だ?

朝青龍の引退はたしかに衝撃的だったが、一言で言えば、本人も相撲協会も、ぎりぎりのところで正常な判断が出来たということだろう。朝青龍の引退記者会見はなかなか立派だったと思う。わずか数時間の間に事態が大転回して、そのほとんど直後にあれだけの会見が出来るということは、頭脳と胆力の優秀さを物語っている。会見という建前を語る場ではあっても、語るべき自分はちゃんと前に出している。自分を客観的に捕える目も理性も持っている。運命という言葉をたしか使っていたが、達観する目を持っている人間なのだ。そこがいい。(それにしても、この日一日の急転直下ぶりは、松の廊下の刃傷の日の浅野内匠頭なみといっていい。)

引退はきわめて残念だが、今度のことは対一般人、つまり社会に対する問題だから、やむを得ない。品格とか何とかいうよりもっと直截的な、弁解の仕様のない問題である。(それにしても、ふた言目には示談示談と繰り返すばかりの高砂の対応は、ちと醜態だったといわざるを得ない。)しかし毎度のことだが、テレビのニュース解説者やワイドショーのゲスト発言者のしたり顔ともっともらしい言い種には、いい加減いらいらさせられた。相撲のことをよく知らないなら知らないで仕方がないが、それにしても半可通がよくもああ聞いた風なことを言えたものだ。わけても聞き捨てならないのは、朝青龍で相撲を知ったファンは相撲の本質を知らないといった論をなす向きである。それなら、若貴兄弟で相撲を知った者は相撲の本質を知っているのだろうか? ちゃんちゃらおかしい、と私は思う。

前に何度も書いたが、私は横綱二場所目の朝青龍の姿を本場所で見て、しばらく眠りかけていた相撲への興味を回復した人間である。これは、この頃しきりに言われる、品格という問題と絡まりあっている。私は、ちかごろしきりに言われる「品格」という物言いに、ちょっと疑問を持っている。

相撲取りに、とりわけ横綱に品格を期待するのは、もちろん間違っていない。相撲が単なる格闘技ではないことも、むしろ私は人一倍主張したい人間である。しかしこのところ、マスコミ(とそれに引きずられる社会一般人)の言い立てる品格なるものは、随分と硬直して画一的でお題目化しているように、私には見える。

横綱の品格ということが、ことさらのように言われるようになったのは、私の見るに、小錦の横綱昇進問題と絡めてのことだったと思う。このときは、外人力士が横綱になってしまいそうだという未曾有(みぞうゆう?)の事態に、昇進に否定的な向きから言い出されたのではなかったか? むしろ世論は、品格をうるさく言い立てることに懐疑的だったのである。外人横綱は、この後、曙がなり武蔵丸がなって平常化したが、品格というテーマは翻って貴乃花という、仮面をつけたかのような態度を貫き通す横綱を生むことになる。(サイボーグ、とマスコミは当時批判したのだったっけ。)つまりこの頃から、「品格」は必要以上にご大層なものになったのだ。相撲が「文化」だとか「伝統」だとか、やたらに言うようになったのも、このことと無縁ではない。それは一面、相撲に対する認識のあり方が変わってきたことの反映でもあるから、一概に否定はできないが(だからこの問題は厄介なのだ)、それがまた、事を必要以上にご大層なものにしてしまう。

朝青龍は、綺麗ごとに傾いていた大相撲に、荒ぶる魂を回復させた存在として、私は評価する。もちろん、物議を醸した土俵上のさまざまな振舞いを、そのまますべて容認するわけではない。しかし、はじめて目の当たりにした当時横綱二場所目の朝青龍に、私が連想したのは初代若乃花だった。その荒々しいすまい(相撲)ぶり、その不敵な土俵態度。栃若といわれた初代若乃花より、私は栃錦の方が好きだったが、(だって、栃錦は何と言ったってお江戸の相撲だったもの)、しかし異能力士と呼ばれた若乃花の、伝統という名の正統からやや逸脱しかねない危うさをはらんだ、荒ぶる魂が顕現したような、それでいてどこかトッポイような、投げやりなものを潜ませているような、放胆な感覚は、当時の角界にあって屹立する魅力を放っていた。その意味で、同時代のもうひとりの異能スポーツ人(アスリートなどという言葉は、当時、誰も知らなかった)として、野球の金田正一にも、どこか似ていた。それは一面で、戦後(アプレゲール)という時代の空気を反映するものでもあった。(続く)

随談第331回 一月の芝居ひと束

公私ともに目前の雑事が多くて、一月の舞台についての話をいくらもしていない。しかし月が変わろうという今頃、あれこれ言うのも気が利かないから、これだけはというのを二点、つまんでおくことにしよう。

話題ということから言えば、今月の話題はなんといっても海老蔵だろう。『伊達の十役』はとにかく目ざましかった。おもしろいという一点に限れば、猿之助より面白かった。これは別に、猿之助の不名誉になることを言っているつもりはない。ただ、猿之助が「創造」したこの芝居を、猿之助の影というものをまったく感じさせずに、まったく我が物として演じきってしまった海老蔵というものを、あらためて、異才として認めないわけにはいかないということである。海老蔵論の種としても、面白い材料がふんだんにあった。

まず、「序幕」が見ていてしんどかった。もちろん、めまぐるしい早替りの連続に客席はやんやと沸いている。そういう風に出来ているのだし、いまの海老蔵のチャームのあり様からいって、それはそれで当然である。私も、それは認めないのではい。しかし忌憚なく言うと、見ていていささか飽きた。実際の時間以上に長く感じた。疲労を覚えた。理由は明らかである。めまぐるしく変転する男女・敵味方・身分の上下、さまざまな役々を、猿之助は、変わる瞬間瞬間にそれぞれその役になろうとしていたのに反し、海老蔵にはその意識も工夫もないからである。だから単調になる。しかもおそらく、海老蔵にとってこの「批判」は、誰かさんの言い種ではないが「想定内」に違いない。つまり海老蔵は、その役になることなど、はじめから考えてもいないからである。この人は常に「確信犯」なのであって、そこが、役者としての海老蔵の面白いところでもある。つまり「批評」を「批評」しているのだ。猿之助も批評を批評していたが、しかしそれはインテリとしての頭脳がそうさせていたのに反し、海老蔵の場合はもっと直感的・本能的な頭脳プレイであるところが違う。

しかし政岡、仁木、男之助、勝元といった個々の立った役になると、俄然面白くなる。どれもが好成績というわけではないにも拘らず、どの役も面白い。どれひとつとして平凡ではないからだ。政岡を技術的に批判することはたやすいことだろう。だってあの政岡はどう見ても男でしかない。しかしまぎれもなく政岡になってもいる。そこが、なんとも魅力的な政岡ではある。(昼の部で踊った『鏡獅子』の弥生にしても!)

海老蔵というと、口跡の難が誰に言わせても最大の弱点ということになっている。私もそう思う。だがこの勝元の言語明晰ぶりは、どう説明すればいいのだろう? 裁決にせよ、山名をやりこめる狐と虎のイソップ話にせよ、あれほど明晰に聞かせた勝元が、ほかにどれだけいただろう? 仁木の鷺見得にしても、あんなに間を充分もたせてゆるぎもしない仁木がいただろうか?

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予期に反してスペースが早々に乏しくなったので、最後にぜひとも、曽祖父・祖父・父と三代の三津五郎の追善の会で当代の踊った『喜撰』のことを書いておきたい。昼の部の『靭猿』は残念ながら見られなかったが、この『喜撰』は、本興行でも何度か見ているが、今度はとりわけ傑出した出来であった。言葉で言えば決まっている。端正で規矩正しく、それでいてとろりとやわらかく、陶酔感がある。何度同じことを書いたか知れない。だがこんどほど、それを如実に実感したことはなかった。偉とすべきは、単に今回の出来がよかったということではなくて、それがそのまま、まさしく大和屋の踊りであったところにある。実際に見たことのある九代目も、八代目も、そうして見たことのない七代目すらもが、いま目の前で踊っている当代十代目三津五郎を通して髣髴とされるかのように思われた。これこそまさに追善の本意ではあるまいか。

狂言半ばの挨拶で、父祖三代の人となりを一筆書きに述べた中で、八代目のエピソードが秀逸であった。小学生だった当代と、八代目とが、口三味線で『連獅子』を口ずさみながらふぐりを振ったというのである。笑いながらも、八代目の俤が瞼に浮かんで、覚えず目が潤むのをとめられなかった。

もうひとつ、当代の伯母に当る坂東寿子の『猩々』が、こんな折にでもないと見る機会はなかなかないが、まさしく眼福であった。

随談第330回 『麦秋』あれこれ

三越劇場の新派で『麦秋』をやっているのが予想以上の好評のようで喜ばしい。二、三の新聞評を読んでも、新派の今後の路線としての可能性という観点からの評が目につく。それもわが意を得たことで、明治から昭和三十年代ごろまでの日本人、すくなくとも東京エリアに生活していた人間を演じて、最も実在感のあるのは新派であることは確かだろう。つまりテレビと洗濯機が普及し、国電中央線の車体がオレンジ色に変わったころ、卒業式で「蛍の光」や「仰げば貴し」を歌うのがまだ当たり前だった頃までの日本人の感性は、新派の演技術がカバーしてきたものとほぼ重なり合うのである。

林芙美子の絶筆となった小説を(夕刊を見て、母や姉や兄が林芙美子が死んだ、と話し合っている夏の夕暮れどきの気配を、いまもありありと思い出すことができる。新聞連載中に急死したのだった)、成瀬巳喜男監督で映画にした『めし』は、小津安二郎の『麦秋』とともに、日本映画の現代劇のなかで私が一番好きな作品だが、これが昭和26年の作である。東京を駆落ちして大阪の場末に長屋住まいをしている上原謙と原節子の夫婦の家の台所が再三出てくるのを見ると、竈があって鍋や笊を伏せたり吊るしたりしてある様子が、日本人の暮らしの様式が、基本的には黙阿弥の世話狂言とほとんど変っていないことを物語っている。つまりそれが、いまとなっては新派の領分なのである。

『麦秋』もまた、小津安二郎の映画は昭和26年の作品である。あそこに子役が二人出てくるが、小学校高学年とおぼしき年かさの方が、思うに私と同年配であろう。あの半袖シャツに半ズボン、丸坊主の頭に野球帽というスタイルが、当時の小学生の平均的な夏の身なりで、野球帽のまま学校に行く者もあれば、学帽をかぶって行く者もあった。(『サザヱさん』のカツヲは、『サザヱさん』初出の年代をベースにおいて考証すると、やや年上だろうが、彼は野球帽をかぶらない。思うに彼は運動音痴、すなわちウンチなのであろう。)

しかし今度の山田洋二脚色・演出では、時代設定を三年ずらして昭和29年に直している。思うに、テレビや電気洗濯機のはしりを登場させ、時代色を端的にわからせるための措置であろう。昭和26年九月がサンフランシスコ講和条約調印、翌27年四月に発効となって進駐軍(GHQ)が帰る。NHKがテレビ放送を始めるのがそのまた翌年だから、昭和26年では、エポックとしての時代を端的に表わせる小道具が家庭の中にないのである。つまり、『めし』も『麦秋』も、日本人の暮らしの根幹は黙阿弥の世話狂言とひと続きなのだ。

山田脚本は、終戦から九年目という時代を強く打ち出すことによって、映画ではよほど注意して(それも二度、三度とたび重ねて)見ないと気がつかない、戦争の翳が一家に落としているものを抉り出してみせる。映画では東山千栄子だった祖母の役を今度は水谷八重子がやっていて、ラジオの「尋ね人」をいつも聴いている。「尋ね人」は三十年代まで放送していたそうだが、子供だったわれわれにも強く印象に残っているのは、もう少し前である。ソ連からの最後の大量引揚げがあったのが昭和28年で、新聞が引揚者の名簿で埋め尽くされていたのを覚えている。

映画では菅井一郎だった祖父を安井昌二がやっていて、菅井とはキャラが違うが実にいいムードである。(この前の『女の一生』でもそうだった。)籐椅子に腰掛けてラジオの寄席中継で柳好の『野ざらし』を聴いている。志ん生や文楽にしたって(あるいは三代目金馬にする手もある)時代考証(!)としてはいいのだが、柳好の『野ざらし』にしたところが、山田監督の薀蓄から来るミソというものだろう。映画の『麦秋』では、原節子と淡島千景が、ラジオで歌舞伎座からの中継を聴いている場面があって、初代吉右衛門の『河内山』が聞こえてくる。(声は吉右衛門ではなく、悠玄亭玉介の声色だと聞いたが。)

別に映画と同じでなくともかまわないが、今度の瀬戸摩純もよくやっているけれども、女学校時代の友達役もふくめて、原・淡島に比べると少し幼い感じがする。が、これは仕方がないか。つまり、当時の二十代の女性の漂わせていたムードというものは、現代の若い女性にはまったくと言っていいほど、後を絶ってしまっているからだ。もしかすると、昭和20年代と昭和80年代(!)の今日、何が変わったといって、若い女性の漂わせるムードほど、変わってしまったものはないかもしれない。

随談第329回 歌舞伎座初春芝居三絶つまみ食い

ラストイヤーの正月、歌舞伎座を見ながら心に浮かんだよしなしごとを書きつければ・・・

その一。團十郎の弁慶。これぞまさしく歌舞伎十八番の弁慶である。すぐれた弁慶は他にもあるが、歌舞伎十八番の弁慶、という意味では、今回の團十郎をもって極めをつけてもいい。荒事を踏まえた弁慶であること。計算作意を感じさせない弁慶であること。ただただひたすらに弁慶であることだけを念じて努めた弁慶であること。

昨秋の吉右衛門の弁慶も当代ですぐれた弁慶であったが、その仁、その芸質芸風からいって、どうしても実事役者の弁慶である。つまりそれだけ近代的であり、現代人のイメージに最も近い弁慶であるといえる。智勇兼備の理想的リーダーとしての弁慶。すなわちそれは、大星由良之助のイメージと重なり合う。そういう意味で、現代の観客にもっとも納得しやすい弁慶であるといえる。もちろん、それはそれでよろしい。

だがやはり、歌舞伎十八番としての弁慶には歌舞伎の原初的なものを求めたい気持が、私のどこかにある。團十郎といえども、これまでそれほど、強くそのことを思わせたことはなかった。思うに、あの業病を乗り越えての何かが、そうさせたのに違いない。それと、読み上げといい、問答といい、セリフの明快なこと。これほど言っていることの意味がくっきりと伝わってくる弁慶も、一、二の例外をのぞいてかつて知らない。若き日、團十郎といえばセリフの難を指摘するのが劇評の常だった。今昔の感などというものではない。

過不足ない本寸法の梅玉の富樫、能楽の子方の味のする義経の勘三郎、またよかった。去年の吉右衛門のときの菊五郎の富樫もよかったが、あれは吉右衛門との均衡が理想的だったので、今度の團十郎には、今回の両名がベストであろう。

團十郎のもうひと役。勘三郎の『娘道成寺』につきあっての押戻しの荒事の見事さ。あれこそ、現代見ることの出来る限りの、荒事の神髄の顕現した姿であろう。即ち、今月の團十郎は、歌舞伎十八番の原初と到達点をふたつながら演じていることになる。

その二。吉右衛門演じる『松浦の太鼓』の何とも楽しかったこと。まさに文字どおりウェル・メイド・プレイである。これを愚劇と言う人は、よほど偏狭に凝り固まった者に違いない。三幕仕立てで起承転結が見事に備わっている作劇の巧さ。

ふと思ったのは、これはかの森繁の社長シリーズの歌舞伎版だということである。晩年の森繁はなぜかあの社長シリーズのことを語るのを好まなかったそうだが、もし事実とすれば、森繁も案外な人物だと思いたくなる。あのシリーズがあれほど受けたのは、あそこにはほとんど万古不易かとすら思われる人物たちが登場し、万古不易の人間模様が展開されるからである。それは既に「型」の域に達している。つまりあれは「現代歌舞伎」だったのだ。あの松浦侯の愛すべき暴君ぶりを見よ。森繁社長そのままではないか。宝井基角を三木のり平、大高源吾を小林桂樹、お縫を司葉子、近習頭を藤木悠にでもさせれば、見事に現代歌舞伎が現出する。

それにしても、名君と馬鹿殿様が相乗りしたような松浦侯を大乗り気、上機嫌でつとめる吉右衛門も、大人の役者になったものである。ちょっとでも照れくさがったりしたら、それこそたちまち愚劇と化してしまう。しかも保つべき品格を見事に保っている。ここらが歌舞伎役者の値打ちである。こういう芝居こそ脇が大事で(社長シリーズもそうであった如く)、梅玉の大高、芝雀のお縫、歌六の基角と適材が適所をつとめている。(もっとも、『勧進帳』のすぐ後で、ついさっき富樫だった梅玉が、頬冠りをして笹竹を担いで出てきた時は、鎌倉殿をしくじった関守が素浪人に落ちぶれて登場したようでおかしかったが。)

その三、芝翫の桜丸。何と聞いたか桜丸、で編笠を取った一瞬にすべてがある。あの瓜実顔にむきみの隈のよく映えること。おそらく絶後の桜丸であろう。即ち今生の見納め。それにしても時平の富十郎ともども初役とは! 第一の殊勲は、この企画を立案し、役を収めた製作部にあるといってもいい。聞くところに拠ると、芝翫も大張り切りとの由。流石、役者の血は眠っていなかったのだ。松王丸に幸四郎、梅王丸に吉右衛門と揃ったところはまさに超弩級、これでこそさよなら公演である。

雀右衛門休演は残念、勘三郎の『娘道成寺』はちと割を喰った形だが、当節彼ひとり孤塁を守る形となった、加役の踊る「娘」道成寺として珍重に値する。と、まずはめでたい春であったことになる。

随談第328回 浅草歌舞伎のお噂から

あけましておめでとうございます。昨年は3月と11月から12月にかけてと二度も長期休載が出来、申し訳ありません。そればかりでなく、時代劇映画50選とか1950年代年代記とか、永らく中断したままのテーマ別の連続物なども多々あり、これらは続行の意志はありながら目前の多忙にかまけているわけで、これまた、申し訳なく存じております。折を見て、少しずつ再開するつもりながら、やはり何と言っても芝居の話が基盤にあってのこと。というわけで、新年最初の話題はまずは各座の噂から。

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新聞の紙面の事情で今月の四座の内、浅草歌舞伎の評が載らないので、それの補いという意味も含めてその話題から始めよう。

ひと口に言えば、今度の浅草は一に勘太郎ということになる。『安達原』の袖萩と貞任、『草摺引』の朝比奈、『将門』の大宅太郎の三役、どれもいい成績だがとりわけ貞任がいい。

現在の若手花形で義太夫時代物の骨法を一番きちんと身につけていること、とりわけこういう悲愴味を帯びた骨っぽい役に仁が適っていること、芸質に写実主義一辺倒でなく一種飛躍のできるロマン性を秘めていること(もしかしたら音羽屋系より播磨屋系か?)等々、まず貞任役者としての条件を備えている。骨格の大きさを感じさせるところもいい。こういう点は親父まさりといえる。最後の詰め寄りで、刀を左手で抜く早業は見事にやってのけた代わり、紅旗を翻すはずみに客席へ放り投げてしまうというハプニングを生じたが、こういうのは物のはずみであって、いいことではないが、ことごとしく咎めるには及ばない。袖萩は、貞任に比べれば今ひと息だが、決して悪い出来ではない。むしろ、勘太郎の女形には、ちょいと現代の第一線どころにも見られないような古風な味があるのを、私はひそかに珍重している。あれでもうすこし熟してきたら面白くなるに違いない。

と、いま貞任について言ったことはそのまま、大宅太郎にも朝比奈にもいえることで、特に朝比奈は、先物買いをしておいて決して損はしない筈である。前にも言ったが、二十年後の勘太郎は面白い筈だ。

七之助は『将門』の滝夜叉を取ろう。しかしいま、この人はゆるやかな上昇カーブを描いている最中で、進歩をしていることは間違いないが、これと明確な評をすることは、正直、いまはちょっとしにくいところにいる。滝夜叉に可能性を見、『御浜御殿』のお喜世に素質のよさを見、『安達原』の義家にしつけのよさを見る、というところか。

亀治郎が、女形は一切なしのマッチョ路線なのは、偶然かそれとも自ら選んでのことか?その面白さもあれば、損の卦もある。『草摺引』も五郎は、もちろんしっかりしたものだが、あまり仕出かしたとも思えないし、『御浜御殿』の富森も、亀治郎ならもっと出来るかと思わせられる。結局、『悪太郎』が珍しさもあって一番儲かる。じつは、存外に愛嬌があるのが分って、私としては少し嬉しかった。じつは、と言ったのは、この人に役者としての愛嬌があるかどうか、ちょっと心配だったからだ。これは父の段四郎にあって、伯父の猿之助に意外にあまりないもので、天は二物を与えないという好例である。鬼才、俊才にして、これが不足のために可惜、大成し損なうという例だって時にないではない。ともかく、修行者役の亀鶴の好演もあって、久しぶりの『悪太郎』はなかなか悪くなかった。

さて愛之助だが、『御浜御殿』をどう評したらいいのだろう。決して拙いのではない。むしろ巧いのだが、それがそのまま評価に直結しないもどかしさがある。風貌も芸質も仁左衛門によく似ていて、習いも習ったりというほど上手にやっているのだが、なまじによく似、うまいために、却ってよくできたコピーのような感を与えてしまう。思うにこの辺が、こうした新しいものの難しさなのだろう。いわゆる古典の型物などだったら、よく写したとむしろほめられるところかも知れない。若手に新歌舞伎はむずかしい。