随談第366回 ささやかな傑作たち・今月の舞台から

傑作篇その1・『国姓爺合戦』序幕「大明御殿」における家橘の大明国皇帝が、いかにも滅び行く老大国の最後の皇帝らしい。さらば江戸の地よ、江戸の人々よ、などと気取っていないで、暗愚の君主は暗愚の君主らしく滅びてゆくところが、いかにも実利本位のCHINESEらしくていい。思うに、人間には暗愚の君主という存在に対する、憧れというと妙だが、少なくとも生半可でない興味があって、それゆえに、一条大蔵卿のような、暗君と賢君が斑状に現れる、作り阿呆の殿様や王様の物語を考え出したりするのに違いない。アヌイの『ひばり』やシェイクスピアの『ヘンリー六世』にも登場する、ジャンヌ・ダルクが仕えたフランス王も、英仏戦争中、フランスを史上最も窮地に立たせた暗君だったが、トランプの発明者として後世の人々に恩恵を残した。なまじな賢君よりはるかに、人類の幸福のために貢献したわけだ。

家橘は、愚かであっても品格のある皇帝にぴったりの仁といい、余人をもって代え難いところ、さすがに殿様役者故吉五郎の子である。吉五郎はその昔、いまの菊五郎がやったNHKの大河ドラマの『源義経』で、凱旋将軍義経にすり寄ったかと思うと不利とおもえば手の平を返すように見捨てる殿上人を演じて、唖然とするほどさまになっていた。こういうあたりが、歌舞伎役者ならではの値打ちであって、腐っても鯛とはこういうことを言うのだと思わされた。そういえば吉五郎は、当時は大河ドラマの常連で、緒方拳が秀吉になった『太閤記』では、それこそ足利最後の将軍義昭をやってぴったりだったし、『竜馬が行く』では山内容堂だったのだから、嘘のような本当の話である。山内容堂はもちろん暗君ではないが、しかし、いかにも殿様らしい殿様という意味で、歌舞伎役者ならではの値打を示した。歌舞伎役者以外の何物でもないという意味で、市村吉五郎は、私の密かな贔屓役者だった。これはこの春の訃報の折、追悼の文章を他事にかまけて書かなかったせめてものつぐないのつもりでもある。ともあれ今月の家橘は、知る人ぞ知る、といった体の傑作である。

傑作篇その2・芝喜松の『上野初花』大口楼の遣手おくまと『都鳥廓白浪』按摩宿の女按摩お市。いまや芝喜松は吉之丞の後をゆく婆役の名手であり、今度の二役が彼として格別の傑作というわけではないが、しかしそれだけに、その安定した実力を証明して余りあるというもので、つまり「ちょっとしたってこんなもの」なのである。芝居の寸法、役の寸法を心得ている、というより、生理となって身についている。仮に舞台の上ですべって転んだとしても、やり手婆ァならやり手婆ァとして、按摩なら按摩として転ぶにちがいない。国立劇場の研修生も、四十年経ってこういう名手を生んだのだ。芝喜松のいいところは、あくまで真摯でありながら、おのずからなるユーモアがあるところである。登場するだけで、オッ、出てきたな、と思わせる。どんな小さな役の役者であろうと、役者はこうでなくってはいけない。

つい先月には、これは既に書いたが、『将軍江戸を去る』の黒門前で、彰義隊幹部の天野八郎を由次郎がやったのがじつに面白かったし、その前の秀山祭の『沼津』では、幕開きの立場の棒鼻での点景人物、茶店の床机にかけてお茶を飲んでいるうちに産気づいて慌て出す、歌江の妊産婦と、桂三のその夫がなかなかの秀逸だった。今年のベストスリーに選ぼうかと追ったほどだった。

夏の『四谷怪談』では小山三もまだまだ元気だったが、あの人、雀右衛門と同年、誕生日まで同じ日なそうだ。このところの気掛かりは、山崎権一のあの鼻にかかった声音を、しばらく聞かないことである。

随談第365回 やけたトタン屋根の上の猫

新国立劇場の演劇芸術監督が替わってから始まったJAPAN MEETS・・・というシリーズがなかなか悪くないスタートを切っている。そのIの『ヘッダ・ガーブレル』は面白いながらもちょっと飲み込みにくい(呑みこみ、ではない)ところもままあったが、今度の『やけたトタン屋根の上の猫』はかなり気に入った。『ヘッダ』の方は、現代の俳優が現代の演出家の手で、手馴れた(?)手を使って、軽く運ぶところはそれなりの諧調があるのだが、何といっても一世紀昔の、それも北欧という社会の話であることからは避けがたく逃れられないのは、そういう部分でのギクシャクは、やっている側はどうか知らないが、見ているこちらは気になることになる。石造の建材にプラスチックやセラミックの部品を取り付けたような、軽い違和感として、意の腑にしこりが残ることになる。新しいかと思っていると、やっぱり百年前の芝居なんだというところが混在するからだ。(これがいっそシェイクスピアなら、そんなことはたいして気にならなくなるのだが、イプセンではそうは行かない。)

が、まあ、いまは『ヘッダ』の話をするつもりではなかった。『トタン屋根』がかなり気に入ったというのは、テネシイ・ウィリアムズにせよ誰にせよ、アメリカ演劇というものが私はどうも苦手で、あまり面白いとか、いいなあとか、思った記憶がほとんどないのだが、その意味では、こんどはじめて面白い、簡単に言えば、よくわかると思った。こちらがそれだけ齢をとって、理解が練れて来たせいもあるかもしれないが、芸術監督の宮田慶子氏も筋書(歌舞伎風にいえば)に書いているように、アメリカ南部の風土というか、喉が乾きそうな感じに「距離感に茫然とし、挫折感に捉われる」ことがあまりなくてすんだのは幸せだった。学生だった昔、杉村春子の『欲望という名の電車』とか、滝沢修の『セールスマンの死』とかいった、新劇の極め付物を見て、劇の内容そのものよりも、新劇流名人芸というものの、ある種のアクの強さに、正直なところ、いささか辟易した記憶が、いまも結構後遺症として残っている。新劇歌舞伎、と言う言い方もできるだろうが、それは少し面白がりが過ぎかもしれない。要するにそこにあったのは、杉村とか滝沢という名優たちの一代芸であったのだというのが、いま振り返って、一番正直なところなのではないかと思う。(名優の芸というのは、そういうものなのかもしれないが。)

いまはそういう「名優」たちはいない時代である。今度だって、Big Daddyをやった木場勝巳などという人はじつにうまいけれども、すくなくとも杉村だの滝沢だのがそうであったような意味では、名優ではない。そうしてそれ故にこそ、このBig Daddyはとてもいいし、ランクは少し違うが北村有起哉のBrickもなかなかのものだし、ひいては今度の『トタン屋根』という芝居の舞台そのものもとてもいい、という結果になったのだ。

それに、平凡なことをいうようだが、一九五〇年代のアメリカの家庭のここに描かれているような形とかあり方とかが、現代の日本人としてのわれわれに、大した違和感も距離感もそれほど気にせずに、受け入れられるように、いつのまにかなっている、ということなのだろう。

とはいえ、テネシイ・ウィリアムズというのはどうしてああ言葉が多いのだろう。ことに第一幕は、あれほどまでに長い必要があるのだろうか。寺嶋しのぶのマ-ガレットは、あんなに長時間、のべつ幕無しに(この言葉、歌舞伎から出た演劇用語である。『忠臣蔵』の口上人形の言う「幕あり幕なしにご覧に入れますれば」という、あれだ)がなりたてる必要があるのだろうか。その寺嶋も、二幕目のカマトトぶりはなかなかチャーミングだった。その他の役々も概していいが、広岡由里子のMaeの演じ方は、あまりにも現代の日本人の日常にひきつけ過ぎているように見える。昔はああいうのは、我でやっている、といったものだが、じっさいにそうなのかどうかは私にはわからない。

随談第364回 大沢啓二とコロンビア・ライト(十月の死亡記事から)

戦後65年という年月を思えば当然なのだろうが、このところ、その死が何らかの戦後史を語ることになる人物の訃報が目につく。

親分としての大沢啓二氏については、多すぎるほど多くの人が物を言っているから、改めてここに書くほどのものは何も持ち合わせていない。ただ思うのは、あの人がはじめからあれだけの存在になるとはおそらく誰も思っていなかったであろうということで、その意味では意外性の人であり、その意味で、興味のある人物だったということになる。どこかに、人の見ていないものを見ていた人の視線を感じさせた。

現役時代は、守備の巧い外野手ということは野球好きなら知っていたが、打撃はたいして当らないし、人相もややヒールっぽいし、つまり全国区規模の有名選手というわけには行かなかった。一躍名を挙げたのは、昭和三十四年の、南海が巨人に4タテを喰わせた日本シリーズで、ヒットかと思うと落下点に大沢がいて難なく捕ってしまう、というプレイがしばしばあった。一番有名なのは、三塁に広岡がいて、森(のちに西武の監督になったあの森)がやや浅いフライを打った。タッチアップして広岡が生還、と思うとあっさりアウトとなって、ああこれも大沢だ、というので皆を唸らせた。(反対に、広岡はなぜ滑り込まないのだ、と物議をかもした。)当時の野球は、ベンチから外野手に守備位置の指示などしないから、自分ひとりの読みと判断で、予め移動していたというのだが、思えば、この種の「俺流」が後の野球人としての人生を貫いていたのに違いない。

コロンビア・ライトの死は、半ば忘れていた名前だけに、感慨は大沢よりはるかに深い。コロンビアというネーミングは、レコード会社のコロンビアが由来で、テレビ出現以前、ラジオの「コロンビア・アワー」というコロンビア提供の歌謡番組の司会役をトップと一緒にやっていたのが、私にとっての一番古い記憶である。やがてテレビ草創時代にやった『おトボケ新聞』というのがじつに面白かった。昭和三十四、五年ごろ、つまりクレージー・キャッツの『おとなの漫画』と同時期だが、こっちの方が面白かった。三国一朗が編集長でトップ・ライトが記者、松任谷国子というのがマア賑やかしの女子社員、社員四人だけの小さな新聞社という設定で、ときのニュースをぼんぼん取り上げる。もちろん生放送で、たぶん毎日の放送だったのではなかったか。草創期のテレビでなければあり得ない番組だった。ゲストのコーナーがあって、社に来てもらうという設定で渦中の人物に生出演してもらう。安保騒動だか何の時だったか忘れたが、椎名悦三郎とか河野一郎などという超大物の政治家が登場したのをおぼえている。思えばこの頃が、トップ・ライトの花の季節だったろう。

ライトの悲劇は、これに味をしめたトップがどんどん政治づいて、ついに参院選に出馬して当選、本当の議員になってしまうというところまでエスカレートし、もう漫才なんかやっていられるかという態度を露骨に見せるようになったことで、つまりライトの存在はあってなきが如くになってしまった。歌謡番組の司会をしていても、「お年寄には青春の思い出を」までを普通ならトップが言い、「若人には永遠の喜びを」までを普通ならライトが言い、「ではまた来週」というのを一緒に言うべきところを、トップがひとりで全部言ってしまうようになったのだ。(昔式の亭主関白で、酒の気の絶えない父の暴君ぶりにトップの横暴を重ね、結局我慢するしかないライトにわが身を重ねて、わが母がおかしがりつつ同情していたのを、今度の訃報は思い出させてくれた!)

つまりあのストレスは胃にいい筈がないのであって、癌にかかり克服し、晩年は癌撲滅運動に専念していたという報道は、思えばなにやら物悲しい。漫才師になる前は落語家だったというが、きれいに髪をリーゼント・スタイルにし、スーツを身ぎれいに着こなした姿は、ちょっぴりだが、大川橋蔵に似ていないこともなかった。たぶん、同世代であろう。つまり、そういう世代の人間の匂いを色濃く持っていた芸人だった。