随談第355回 ささやかな収穫、二十年代回顧のための

池袋の新文芸座と神保町シアターに折がかなえば見に行くようにしているのは何度も書いた通りでが、この夏はささやかながら予期せぬ収穫があった。

八月の初旬に新文芸座で内田吐夢の特集があったので初見・再見ともに幾つか見た中に、『大菩薩峠』の第二部をこれは封切りの時以来五十二年ぶりの再会だったが、映画そのものよりも、お玉の役をやっている星美智子が幕間のトークショウに登場して、これが実に面白かった。じつは密かに期するところあって、他の都合を差し繰って出かけたのだがこれが予期以上の大当りだったわけだ。現役時代はちょっとべちゃべちゃした感じがあってさほど好きという感じはなかったのだが、案外、ああいう人の方がいい婆さんになっているのではないかと読んだのが、当ったのだ。八十歳というが、なかなかチャーミングな銀髪の老女になっていた。このお玉に限っては、入神といってもいい好演だったのを、今度改めて再確認した。

劇中、相の山節というのを弾き語りする場面がある。映画でもいいが、トークショウでも、三味線なしで唄ってみせたが嫋々として相当なものである。良き耳の保養であった。もともと、たしなみとして祇園で常磐津を教えている人に習っていた、と語るのを聞いて思い当たった。一昨年の夏、縁あって祇園の一力で半日、常磐津を聴く機会に恵まれたことがあった。祇園で常磐津といえば、元は新橋の芸者で関東大震災の折、京都へ移ってそのまま居ついたという常磐津都師の都流に違いない。新橋時代は、六代目菊五郎の地方をつとめたという名手であったという。ご本人は既に亡いが、一門はいまも栄えている。(興味のある方はこのブログの2008年7月29日の項をご参照下さい。)つまり星美智子はちゃんと本格の芸を学んでいたのだ。むかしの時代劇女優のたしなみというものか。

なかなかの話し上手で他の話も面白かったが、ちょうどお豊役で共演している長谷川裕見子死去の報があったばかりだったので、その話も出るのではないかという期待もあった。ビッグスターの逸話は伝わるが、こういうクラスの女優の話というのはあまり知る機会がない。だが実は、映画好きが一番繁くスクリーンで接し、親しむのは、むしろこのクラスの俳優たちなのだ。

もうひとつは、神保町シアターで『エノケンのとび助冒険旅行』に巡り会ったことで、昭和二十四年のこの映画は、当時小学校の映画見学として行列をつくって映画館まで見に行った以来の再会である。いつか巡り会いたいと思っていたのを果したわけだが、お福ちゃんという女の子が見世物小屋でロクロ首の見世物にされてしまうところと、一ツ家の鬼女の場面と、小学校低学年で見たこのふたつの場面は、その後の私の人生に大きな影響を与えている。早い話が、歌舞伎の批評など書くようになったのも、このことと決して無関係ではないと自覚している。

というわけで『とび助冒険旅行』ももちろん結構だったが、ついでに同時上映の『三太と千代の山』を見たのが思わぬ余禄以上の収穫だった。20年代から30年代にかけて人気のあった「三太物語」というラジオドラマの映画化だが、私はあまり熱心な聞き手ではなかったから、昭和二十七年製作というこの映画も未見だった。ただ題名から、たぶん千代の山も出るだろうから、というだけの興味で見たのだが、何とこれが、日本相撲協会の協賛で、千代の山だけでなく出羽ノ海部屋一門の総出演だったのだ。芝居をするのは千代の山だけだが、結構セリフもある。封切は二十七年となっているが、おそらく撮影は二十六年の秋ごろと思しく、そうだとすれば、千代の山は新横綱に昇進間もないころで、だからこそこういう映画があり得たのだ。今日の常識的な名横綱列伝には数えられない千代の山だが、実は戦後の大相撲で最初に脚光を浴びた新スターは千代の山だったのだ。

さて、この出羽の海一門の一行が、相模川の上流の道志川のほとりと設定されている三太たちの村に巡業にやってくる。広場に土俵を作り、見物は草の上に座って見るという光景だ。栃錦が(当時関脇であろう)若い者に稽古をつける光景が相当な迫力で映し出される。土俵を囲んで、大起がいる、鳴門海がいる、出羽錦がいる羽島山がいる信夫山がいる。千代の山から三太に秋場所の切符が送られてくる。(ストーリイ上では三太は行けないでしまうのだが)本場所の、これは実写が映し出される。何と千代の山と照国の一戦ではないか。勝負がつくところは(照国の名誉のために)出てこないが、表彰式の場面があって、当時の(元常ノ花の)出羽の海理事長が優勝杯を千代の山に渡し、元双葉山の時津風が優勝旗を渡す。元栃木山の春日野理事や元清瀬川の伊勢ケ浜も映っている・・・というわけで、もっとも、今回のブログを読んで共感してくださる向きは十人にひとりもいないだろうが、その回の場内も、観客は十人いるかいないかという閑散としたものだった。

随談第354回 中村橋之助への提言

この月、新橋演舞場の「花形歌舞伎」で橋之助が、念願の役と言って『暗闇の丑松』をやっている。ところが新聞評に、私は、この作へのあこがれはわかるが橋之助の目指すべきは他にある筈、挑戦は結構だが己を知ることもまた大切だと書いた。来月早々に出る『演劇界』の十月号にももうすこし詳しく書く機会に恵まれたが、発売日まではまだ日があるし、劇評とはまた別な形で、この場でもう少し書いておくことにしたい。

橋之助が念願だというのには、『暗闇の丑松』という作品そのものに対するものと、この作を演じてきた先人たち、とりわけ先代辰之助の演じた丑松に対する思いと、両面があるように思われる。作品そのものというのにも、長谷川伸の書いた脚本としての面と、初演した六代目菊五郎がつくり上げた演出の巧みさ・面白さを通じての舞台としての面と、両面があるに違いない。それをまた、多士済々の先人たちが演じてすぐれた舞台を作り出してきたのだから、橋之助ならずとも、一度はやってみたいと思うのは少しも不思議なことではない。私も、そこまでのことなら、何も言うつもりはない。また『暗闇の丑松』という作品についての議論も、ここではやめておこう。それよりも私が危惧するのは、そうした橋之助の思い入れの、あまりに過度な純粋さであり、ひいては彼の、歌舞伎に対する思いの無防備さである。

思うに橋之助という人は、幼いときから先輩諸氏の舞台を良く知り、憧れ、且つ崇拝し、大人になったら自分もあんな風に演じてみたいと思い暮らしてきたような役が、無数にあるに違いない。紛うことない名子役であった彼の幼き日の舞台ぶりを思うにつけ、その感じは私にもよくわかる気がする。誰の宗五郎のときだったか、当時の幸二少年が、お使い物の酒樽を宗五郎のところへ届けに来る酒屋の小僧の役をやった。するとこの芸熱心な名子役は、酒樽に一杯酒の詰まった重さを知っているかのように、重そうに、しかし妙にそれを強調するわけでもなく、つまり芝居の流れの中でいかにも自然に、酒樽を魚宗宅へ届けに来るのだった。桶一杯なら桶一杯、水を張ったらどのぐらいの重さになるか量ってみろという六代目菊五郎の芸談を私はゆくりなく思い出し、深夜、芝翫家の風呂場で、皆が寝静まったころ、水道の蛇口をひねって酒樽に水を張っている幸二少年の姿が思い浮かぶような気がした。

つまり橋之助は、幼にしてそういう役者だったのだ。頭の中は150パーセント歌舞伎のことで充満しており、自分のことだけでなく、敬愛する諸先輩の芸を熱心に見、憧れ、尊敬し、自分もああいう風にやってみたい、亡くなってしまった諸先達の素晴らしい芸をそうやって再現し、世に知らしめたい、等々々、といった思いで満ち満ちているのに違いない。つい先達ても、五右衛門の葛籠抜けを演じるに当って、幼時に見た「延若のおじさんの五右衛門」への憧れと崇拝の念を語っていた。延若を愛惜する上で人後に落ちないつもりの私にとっては涙が出るほど嬉しい言葉だが、しかし筋書の談話で橋之助のこの言葉を呼んだ時、私は、人間橋之助に対して、その心根の純粋さに胸が痛むと同時に、役者橋之助に対して、ある種の危惧を覚えずにはいられなかった。

この人は、こんなにも歌舞伎を信じてしまっていいのだろうか? 現代というこの時代の中で? という疑問がひとつ。それともうひとつ、あまりにも多くの、こうした憧れや敬愛の念の充満している中で、橋之助は、自身を客観的に、時にはある意味で冷徹に、見切ることが出来ないのではなかろうか、という疑いである。

○○にいさんのやったあの役、あれを一度はやってみたい。△△おじさんが素敵だったあの役はボクにとって念願の役なのです・・・・そういうものをたくさん持っていることは、もちろん、役者として素晴らしいことである。それだけの知識と技量と、そして何よりも熱い志がなければ、そういう思いを常に胸に抱えていることは出来っこない。だが、いつまでも単なる「花形」でいることは、客観的にも、また年齢その他、自身の問題としても、もうそろそろ卒業しなければならないところに、橋之助は立っていると私は思う。憧れや敬愛や追慕の思いは思いとして、自分を見極め、己を知ることが、いまこそ大事のときだと、私は思う。あきらめろ、というのではない。己を知って、その中で何を採り、何を生かしていくべきかを考えるべきだというのだ。

父。伯父。兄。女方の家に育ち、二枚目役者として成長してきた橋之助は、自分でも、また周囲からも、そのように見られ、扱われてきた。それはそれでいいし、間違っていたわけでもないだろう。しかし、いよいよ成熟の時を迎えようとしている今、役者としての自分はどこに立つべきか、それを考える時だと私は思う。

ヒントになるかどうか。私の思っているところを最後に書こう。ついこの春、国立劇場でやった『金門五三桐』の此村大炊助に私は目を瞠った。一昨秋、平成中村座の『忠臣蔵』の通しでつとめた七段目の大星や平右衛門も、未成品ではあったが、骨格の大きい、時代物役者としての存在を示すものだった。実事役者。何もそういう役だけをやれというのではない。まず、自身の立つ位置を自覚せよということである。その上で、何をやったって、それはちっとも構うことではない。

随談第353回 『尾上多賀之丞の日記』を読む

正確なタイトルは『人間国宝・尾上多賀之丞の日記-ビタと呼ばれて-』というのだが、A6版で380ページという嵩のある本だから、持ち歩いて電車の中で読むにはちと大きい。幸い、八月冒頭の三日間、終日家にいられる日がぽっかりと空いたので、炎暑の午後の楽しみにはもって来いと決め込むことにした。

元来夏が好きなせいもあるが、盛夏の午後、クーラーはかけず扇風機だけ、ベッドの上に花茣蓙を敷いて、マーラーだのブルックナーだのといった敢えて暑苦しい大曲をかけながら、寝転んで大部の本を読むというのが、私の最も好む至福のひとときの過ごし方である。原稿を書くなら涼しい方がいいが、読書というのは、物を書くよりは受動的な要素が強いためだろうか、あまり安楽でない方が却って集中ができるのである。それに、開け放した窓から、真夏の空気が、都会といえどもなつかしい自然の感覚を肌えにもたらしてくれる。この感覚には遠い日の思い出のような、ふしぎな郷愁が潜んでいて、その感覚こそが、私にとって最も快適と感じられるものなのだ。

夕暮れてきたら、庭というほどでもない家のまわりの草木に水など撒いて、ひと風呂浴びてからはもう汗は掻きたくないから、クーラーをつける。仕事をするにしても物を書くか、調べ物をするかで、楽しみのための読書はもうしない。それは午後の至福のひとときのためだけのものだからだ。この至福の時は、だから、終日どこにも出かける用事もなく、完全に我が物とできる一日か、せめて早めに用事をすませて帰宅できる日でないと、むずかしい。もちろん、そんな日は、ひと夏の内にそう何日もあるわけではない。もうひとつ大事なことは、そうやって読む本が、当然ながら面白いものでなければならない。本がつまらなければ、せっかく整った舞台装置も、台無しになってしまう。

さて、多賀之丞日記である。おもしろかった。八月の猛暑の午後の、至福のひとときを過ごすに足りた。日記は、昭和三十年から、亡くなる五十三年までの二十年余のもので、当初は手帳に、のちには当用の日記帳に書いた基本的にはメモで、処々に感想風の記述があるといった体のものだから、当然だが誰が読んでも面白いというものではない。役者同士や幕内に関わる人たちとの関係がわからないと、記述の裏に潜む意味を読み取れない。もっともそれは逆に、これによって役者の世界の人間関係や日常を知るおもしろさでもある。役を振られ、それを引き受けるか断わるかにも、いろいろな思惑がからむ。幹部以上か以下かを問わず、役について教わりに来た役者が、他日そのお礼をする。それが金であったり、物品であったりするのだが、そこにもその役者と多賀之丞との関係や、その役者の人となりが何となく窺えたりする。

何といっても面白いのは、稽古中や、初日が開いてからの舞台の感想を、ずけりと書いているその凄みである。世にときめく大幹部であろうと、多賀之丞の目に容赦はない。××は稽古に入ってもセリフも覚えず何の工夫もしてこない、ダメな奴、と書く。その××は、人も知る超大物俳優である。正月の芝居に多賀之丞の役がないのを気遣って、○○が役をふってくれる。さて稽古に入ると、肝心のその○○の科白がいくら教えても気分が出ない。義太夫を稽古しない役者は時代物は所詮は無理、と多賀之丞は日記に書く。後の十一代目団十郎の海老蔵が、大仏次郎が海老蔵のために書いた新作を稽古の段階で拒否して、以後疎遠になった有名な事件の顛末なども、簡潔な記述のなかに冷徹ともいえる眼差しで的確に捉えている。例の通り成駒屋の長い舞台には閉口なり、などという記述も見える。東横ホールの若手の芝居を、中途半端で見るに耐えず、と書く。

そうした中で、孫の清一が誕生し、やがて初舞台を踏み尾上菊丸を名乗り、学校へ通い出し、さらにやがて、東京大学の入試に合格する。長男の尾上菊蔵が本名の太郎として登場し、常に身辺近くあって孝養を尽している姿や、ウタ夫人が絶えず影身に添うように行動を共にしている様子が、記述から窺われる。映画好きでしゅっ中映画を見ているが、『青空娘』などというのまで見ているのには驚く。(若き日の若尾文子の主演映画である。)

日記に書き記されている昭和三十年代この方は、私にとってはちょうど歌舞伎を知り、次第に深入りをして行った時期に当る。私にとってのなつかしい舞台を、多賀之丞は幕内からこういう目で見ていたのか、という個人的な興味もある。編著者の大槻茂氏は、読売の社会部の記者として、菊丸の歌舞伎界初の東大入学という記事を書いたことから多賀之丞・菊蔵の知遇を得た人との由だが、第二部の「日記編」に対する第一部として、多賀之丞と菊蔵の簡潔な評伝を執筆している。小芝居から六代目菊五郎に女房役として迎えられて大歌舞伎の人となった多賀之丞の役者人生の浮沈を、社会部記者らしい視点から、同情と共感をもって切り取っている。「ビタ」と呼ばれて、という副題は、役者としてのそうした出自が、人間国宝となってもなお終生ついて回ったことに対する、著者の訴えるところだろう。

それで思い出すのは、昭和四十六年五月、六代目菊五郎二十三回忌の追善興行の「口上」の席次である。(このときは、映画に行った大川橋蔵が久しぶりに列座するというのが話題だった。)多賀之丞の席は、舞台前面に横一文字に並んだ歴々と別に、下手斜め後ろに心持ち離れて敷かれた、菊蔵と二人だけの小さな緋毛氈だった。ア、そういうものか、とある衝撃を覚えながら見たのが忘れがたい。(日記には当然、その興行のことも出てくるが、席次については一言も触れていない。)

随談第352回 七月の忌辰録より

梅雨明けの猛暑のせいばかりでもあるまいが、この月の最後の十日間に、思い出深い名前が次々と訃報欄に載った。

まず石井好子。別にファンというわけではないが、戦後という歳月の中でひとつのなつかしい時代を背負っていた人という意味で、ある感慨がある。シャンソンというものが、俄かに愛好者を拡大して歌謡界にひとつのジャンルを確立したのが、ちょうど私にとっては、大人の世界の出来事に興味を覚え始めるイニシエーションの年頃と重なり合ったからでもあるが、昭和三十年前後という時代そのものが、戦後を生きた日本人にとってのあるエポックだったからでもある。牝馬みたいな顔をした高英男などという人が、ある典型を示していた。それにしても、パリ祭というものの存在すら、いまの若い世代はろくに知らないらしい。

数学者の森毅が歌舞伎通だということは知られているが、前に『時代(とき)のなかの歌舞伎』を出したとき、書評風のエッセイにかなりのスペースを割いて書いてくれたことがある。書評というものは、大概、当の本人にしてみると、どこか隔靴痛痒の思いに駆られるものだが、森氏の批評にはそういうずれがなかった。あの融通無碍を支えていたのは勘のよさであったろう。

立教の監督として鳴らした砂押の訃報には、国鉄スワローズの監督時代のことはほとんど触れられなかった。昭和三十年代ごろのプロ野球の弱小球団には、砂押の他にも田丸とか濃人とか、アマやノンプロ球界の名監督をそのまま監督に据えるのが一種の流行現象だった。不見識といえば不見識な話だが、プロ野球を頂点とするようなヒエラルキーが今ほど確立していなかったのだともいえる。

北葉山は、前褌を鷲掴みにしての柏戸の寄りを、土俵を四分の三周か三分の二周か、俵の上を爪先だったまま伝って逃げて、ついにうっちゃって勝ったのと、大鵬に低く食いつくとがっちりと腰を割って、さあ打っ棄るぞと大鵬も分っていたに違いないのに、それでも見事に打っ棄って勝ったのと、この二番が記憶に鮮やかである。絶対に横綱にはなりっこない大関だったが、それにも拘わらず、その個性味ゆえに立派な大関だった。

ところで、長谷川裕見子の訃報にはある感慨なしにはいられない。中学から高校時代の何年間か、私は彼女の出演映画は洩れなく見るという追っかけだった。いわゆるお色気派ではないが目の使い方にある大人っぽいムードがあって、それが、女房役とか、たとえ娘役であっても、単なる可憐や貞淑に終らない色香となって現われる。たぶんもう見ることはできない作品だと思うが、角田喜久雄の怪奇小説が原作の『髑髏銭』など、娘役の中での傑作だろう。(昭和31年の松田定次監督の再映画化の方である。)有名作では、内田吐夢監督の『大菩薩峠』で、第一部でのお浜はやや固くなっていていまひとつだが、第二部でのお豊はおそらくこの役での最上のものだろう。千恵蔵の『国定忠治』で、赤城山を下りて信州へ落ちてゆく先で忠治が巡り会う、いまは湯治宿の女あるじになっている昔なじみのお仙という役などは、大人の女のそこはかとない情感が逸品だった。この場の千恵蔵の忠治もなかなかのものだったが、しかし当時も今も、世の時代劇論なるもののパターンが皆お定まりで、こういう作品のこういう場面に目を向けた時代劇論というものがまず皆無に等しいのは、映画論中の不毛地帯といえるだろう。(ついでだが、昭和20年代の長谷川一夫の映画における山根寿子なども、不当に軽視されている好例だろう。長谷川というと山田五十鈴ばかりが持ち出される紋切り型のために、理不尽に割を食っているのだ。)

長谷川裕見子は、寂びしみが勝った芸風なので、若いころにはもうひとつぱっとした人気が出なかったのが、大映から東映に移った頃から芸も明るくなり、同時に熟してきて、昭和三十年代の一時期、東映の女優陣のなかでトップの地位にいた。柄があるので、おすべらかしの髪の役が似合うところから、『妖蛇の魔殿』という、千恵蔵の自来也、月形龍之介の大蛇丸に対する綱手姫という大時代な芝居での傑作もある。隠れた当り役として、時に前髪立ちの美少年に男装する役もあった。大きな賞の受賞はなかったが、これはこのブログの時代劇50選にも書いたが、『白扇』という、邦枝完ニの新聞小説の映画化で、四谷怪談成立秘話という趣向のちょいとひねった映画でお岩を演じ、ブルーリボン賞の候補に挙がったことがある。(この映画に、後の八代目三津五郎の蓑助が鶴屋南北の役で出ている。)いよいよこれからというところで、船越英二夫人になってしまい、それはそれで幸福な人生であったらしいからいいのだが、女優人生としてはちょっと残念でないこともない。

それにしても、この前千原しのぶが死んだ時にも書いたことだが、当節の新聞社の人たちが知らないのだから言っても詮無いこととはいえ、訃報の記事に女優としての業績をもう少し書いてくれてもいい筈だ。千原しのぶといい長谷川裕見子といい、タイプはそれぞれだが、ああいう時代劇女優はもう出ないだろう。(それにつけても、中断したままの時代劇映画50選、再開しなくては。)