随談第348回 サッカー余燼

対パラグァイ戦はみっちり見ました。結構な試合振り、そして結構な負け振りであった。あの負け振りは、なまじに勝って浮かれ騒ぐよりも、長い目で見て、どれだけよかったか知れない。もう一つ、という欲を余韻に変えて終るのも乙なものだと思わせたのは、中身があったからで、トータルに見て、今度のワールドカップが結果として残したものは、日本のサッカーにとってだけでなく、あらゆる点から見てよいことばかりであったと思う。

最後の相手がパラグァイという、大方の日本人にとってはちょっと盲点を突かれたような、こんなことでもなければ多分意識に上ることもないような国であったのもよかった。お陰で、みんなが謙虚な気持で向かい合うことができた。そういえば予選リーグで対戦したのも、オランダは別とすれば、カメルーンだのデンマークだのといった、ややマイナーなイメージの国ばかりだったのも面白い。もちろんサッカーおたくからすれば、スペインだドイツだブラジルだといったサッカー強国と対戦させたかったということになるだろうが、サッカー音痴すなわち非・サッカーおたくの目から見ると、必ずしもそうとも限らない。前々回、日本で開催したときに、九州のどこかの山村がカメルーンの選手村に指定されたということがあったが、その村の人たちは今度も(日本でなく)カメルーンを応援したのだという。こういうのはなかなか素敵な話であって、ワールドカップに参加することがもたらす副産物中の一番良いものとは、こういうことから生まれるに違いない。

決勝リーグの最初の相手がパラグアィだと聞いたとき、マスコミの論調は、パラグァイが相当の強敵だと言いつつも、希望的観測から、まあ勝てるだろう、から、たぶん勝つであろう、へと時が経つにつれて移っていった。ところが、試合が始まって10分もしない内に、やはり相当に強い相手であることが誰の目にも明らかになった。デンマークなどより柔軟で素早くて巧者なようだ。大相撲でいえば安美錦というところか。もちろん勝負だから勝てるかもしれない。前頭5枚目だって、ときには横綱に勝てることもあるのだから。で、ほとんど互角の勝負をして、実質の勝負は分けたといってもいいだろう。PKで決着というのは大会の運営上からこしらえたルールだから、別物である。それで慰めとするか。だからこそくやしいと思うかは、人さまざまの思い様である。しかし忌憚なく見れば、これがいまの日本の実力一杯であったにちがいない。5枚目から、三役は無理でも前頭の筆頭ぐらいには昇進するだろう。

普段あまり見ていないお陰で、選手たちを先入観に捉われずに見られるのも非・サッカーおたくなればこその特権(?)で、評判の本田は、むかし日本でプレーをしていたころのわずかな記憶とは随分人相が変わってしまった。まばたきをしない人相になったのは、それだけ厳しい環境で生き抜いて来たための変貌なのだろう。しかし前回のときの中田よりはスター意識が気にならなかったのは、人柄もあろうが、それだけチームに馴染んでいたからでもあるだろう。もうひとり注目を集めたキーパーの川島という選手は、原日本人的な風貌が今様でなく、いかつい体つきといい東京オリンピックの時のマラソンの円谷選手を思い出させた。(若いころの柳家小三治師にもちょっと似ている。)闘莉王(茉莉王ではなく!)という選手はなかなか面白い人間ではないかという気がする。負けが決まった時のショットが捕えた表情がなかなか印象的だった。

見応えのあるゲームだったとはいっても、この前書いた、サッカーというゲームが「徒労」の繰り返しが生み出すイライラとハラハラの裏表であるという認識が変わったわけではない。あの絶え間なく鳴り続ける喇叭の音は、思えばサッカーの本質のある一面をよく表わしている。相撲や剣道のように静の中に動があるのとは、異質の思想が生み出したもので、草原で狩をする猫族の猛獣の呼吸である。野球やアメフトのような、アメリカ流の合理主義が考え出した攻撃と守備を区別するという方式が、結果的に、とくに野球の場合、偶然にも静と動の組み合わせという日本的な様式に似てしまったのは面白いが、さてサッカーにこれだけ現代の日本人が馴染んでしまったということは、日本人がそれだけ変質しつつあることを物語っているのだろうか?

ともあれ、戦前ボロクソに言われていた「岡田ジャパン」が、日本中のサッカーおたく諸氏の評価を豹変させたことは、近来の欣快事と言っていい。岡田という人は、風貌からいっても、団地の中をジャージー姿で歩いていたらそこらのオジサンと間違われそうだし、飲み屋のカウンターでつい隣に座っていてもご本人とは気がつかないかもしれない感じだから(その意味では福田元首相と一脈相通じる)、つい叩きやすいのかもしれないが、どうしてなかなかのサムライであることに気づくには、私のような非・サッカーおたくの方がなまじな情報が少ないので遠目が利くのかも知れない。それにしてもあれだけ無能者・愚物扱いしておいて、岡チャンごめんねだけですむのだろうか。

随談第347回 サッカー音痴の痴れ言

サッカーのことを書くのは前回のワールドカップのとき以来である。普段のJリーグの試合というものは、実況放送は元よりスポーツニュースの結果を見るほどの関心もない。戦績やニュースを追いかけるほどの熱意がないといった方が正確だろう。(何せ、トゥーリオという選手は何故、茉莉王と書くのにマリオーでなくトゥーリオと読むのだろうと、ついこの間までフシギがっていたと言えば、いかに日本サッカーの現状に疎いか凡その見当がつくというものだろう。「莉」という字を見ただけで、森茉莉や岡田茉莉子の連想から「茉莉」だと思い込んでいたのだ。)そういう人間の痴れ事と思って読んでいただきたい。

Jリーグは見ないがワールドカップのときだけは見る。試合そのものもさることながら、同時に、ワールドカップなるものをめぐるマスコミやサッカー関係者や世間一般の人間模様が面白いからだ。それに、私程度の知識しかない人間でも、案外、世の熱烈なサッカーファン連にまんざら見る目が劣るわけでもないらしいことを、前回の大会のとき、つくづくと知った。どう見ても身びいきから来る過大な期待としか思えないマスコミや世人の大合唱を耳にしながら、一勝も出来ずに敗退した予選リーグの三試合を見ながら私なりに抱いた感想とほとんど同じことが、結果が出て冷静を取り戻した新聞紙上に、専門家の講評として載っているではないか! 

そもそも、サッカーなる競技に対して、私はかなり冷淡である。あれだけの人数があれだけの長時間休むことなく動き回りながら、ほとんどの試合が一点か二点、せいぜい三点しか点が入らないという「仕掛け」が曲者である。つまり、大部分は得点に結びつかない「徒労」なのである。シュートが決まって得られるカタルシスは、前後半合せて90分間にたかだか二度か三度しかない。だがそこにこそ、観衆の熱狂の秘密がある。ハラハラとイライラの差は紙一重、いや、コインの裏表である。サッカーの観客はかなりマゾヒスティックであるとも言える。こういう競技を考えたのは、悪魔の化身かもしれない。

昔、ルーズベルトは野球で一番面白いゲームは8対7でひいきチームが勝つ試合だと言ったそうだが、いかにもこれは正直な「名言」だろう。両チームが7点も8点も点を取るゲームというのは、やや乱打戦の気味もあって、通好みの引き締まった「名勝負」とは趣きが異なる。しかし実際に球場で見ていると、ある程度ボカスカ打ち合う試合の方が退屈しないことは確かだ。息詰まる投手戦というのは、むしろテレビで見る方が向いているとも言える。相撲だって手に汗握るのは烈しく揉み合う相撲で、栃錦が大関で若乃花が小結か関脇の頃の両者の対戦が一番面白かったのは、次々と繰り出す技の応酬が凄まじかったからだ。

もちろん、サッカーだろうと野球だろうと相撲だろうと、ハラハラとイライラの差を分けるのは、繰り出される技の応酬がいかに高度なそれであるか否かに懸っていることは変りがない。前回までのの日本チームの試合はフラストレーションを溜めるために見るようなものだったが、今回は大分趣きが変わったのは、明らかに、それだけ日本のサッカーが進化したからだろう。日本のサッカーというのは、相撲の番付にすれば前頭5枚目だと私は思っている。つまりここまでが横綱と対戦する上位陣で、前回の予選敗退で幕尻近くまで落ちていたわが蹴鞠軍団は、今回めでたく決勝リーグに進出を決めて前頭5枚目まで躍進したわけだ。世界ランキング4位というオランダは、つまり西の張出横綱であって、その横綱戦で善戦し、前頭筆頭あたりとおぼしいデンマークに勝ったのは、これではじめて、オ、結構やるじゃねえか、と役力士の面々の目にようやくとまったところ。髪結新三が、弥太五郎源七の鼻をへし折って売り出したようなものだろう。そういえばデンマーク軍というのは、少々鈍重な気味もあって弥太五郎親分に似ていないでもなかったか?

オランダという大親分にはまだ歯が立たなかったわが新三が、初鰹で一杯やれる身分になれるかどうかはこれからのお慰みとして、私は私なりに、かの岡田監督のために心中密かに祝杯を上げた。別に岡田監督のファンでも何でもないが、開幕前のあの叩かれようを見て、それはないだろうと思わざるを得ないものを感じていたからだ。これでひょいとベスト4にでも紛れこんだら、今度は一躍、「名将」に祭り上げられるのだろうか。揚げたり下げたり、つまり岡田監督は神輿か?

応援といえばこの前の大会の時、新聞の投書欄で、ワールドカップに無関心でいたら、日本を応援しないのは非国民よ、と娘に言われたという七十代の男性の記事を読んだ。四十代の娘は「非国民」という言葉がかつてどういう意味合いを持っていたか知らないで言ったのだろうがそれにしても・・・という内容だった。そういえばついこの間テレビのニュースで、「日本国民として応援します」と興奮した口調で叫んでいる中年の女性がいたっけ。日本国民として、か・・・。ウーム、と思わず唸らざるを得なかった。

随談第346回 アマチュアリズムについて

鳩山首相辞任劇はなかなか面白かった。もちろん政治としてはよろしいことではないだろうが、鳩山という人をめぐる人間模様のドラマとしてみると、その最終幕としてインタレスチングな展開であったといえる。小沢幹事長を抱きこんで刺し違える、抱き合い心中でラストというのは、シナリオとしては悪くない。話題になった、例の、前日記者団に対して親指を立てて見せたポーズは、自分の書いた筋書き通りに運ぶことになった凱歌の密かな印だろう。

前日の鳩山・小沢会談から辞任発表の会見までを歌舞伎仕立でやると面白いだろう。『忠臣蔵』の「喧嘩場」を、塩冶判官が師直を切って返す刀で切腹してしまうという書替え狂言の一幕である。鳩山判官の役は仁といい柄といい品格といい、まず梅玉で決まりだろうが、小沢師直はさて、誰にするか? 敵役として役者冥利に尽きるやりがいのある役と思うが、もし勘三郎が引き受けてくれたら面白い芝居になるだろう。もっともこの師直は、トドメを刺されたわけではないから、いつまたゾンビのように甦るかもしれないから、その場合には、後日談として『リヴィングデッド続俤(ごにちのおもかげ)』一幕が差し幕になるだろう。

ついでに外交場面も設けて、各国要人との会談の場というのも面白かろう。さしあたり、オバマ米大統領は亀治郎、ロシアのプーチン大統領を海老蔵、ヒラリー・クリントンを福助、サルコジ仏大統領は染五郎に頑張ってもらうとして、中国の温家宝首相がむずかしい。坂田藤十郎丈をわずらわせるのは如何か? 北朝鮮のかの人は、我当丈にお願いしたいがどうだろう?(中国といえば、猿之助が元気な内に猿之助の毛沢東に歌六の周恩来で『新・三国志』近代篇をやらせたかったというのが、矢野誠一さんのお説である。)

配役談義はこのぐらいで閑話休題として、ところで、八ヵ月間に鳩山首相の演じた悲喜劇は、つまるところアマチュアリズムという一言に集約されるに違いない。沖縄の基地をめぐるこの程のごたすたは、ペリーの黒船が浦賀に来航した時の老中の阿部正弘が、全国の大名たちに意見具申を求めたという話を思い出させる。阿部老中は名老中なのだろうか、それともへっぽこ老中なのだろうか? そんなことをしたから幕府の権威が失墜したのだという意見と、イヤその開明さを評価すべきだという意見と、評価はふたつに分かれるらしいが、弱腰のようで放胆とも言えるこういうことをする阿部伊勢守という殿様政治家に、私は何となく親近感と興味を感じる。井伊大老みたいなのがプロの政治家とすれば、阿部老中にはどこかアマチュアの匂いがする。鳩山老中のために惜しむのは、基地を沖縄だけに押し付けるという問題について、みなさんどう思いますか?と、阿部老中みたいにはじめから全国民に下駄をあずけてしまえばよかったのかもしれない。そういう機略に欠けていたことだ。

アマチュアリズムのいいところは、専門家の常識や通念から自由なところにある。専門家の意表を突く知略があってはじめて、アマチュアリズムはプロにフェイントを掛け、肩透かしや足癖で一勝をあげることもできる。およそ、アマチュアリズムの発想の自由さを持たない専門家というのも、およそ鬱陶しく、面白みがない。

プロといえば、今月新橋演舞場で藤山寛美の没後二十年を追善する公演を松竹新喜劇の一党で行なっているが、改めてこのプロ集団の底力というものを痛感させられる。チョイ役に至るまで、役者たちの人相といい身のこなしといい大阪人の体臭が舞台中に流れている。大阪の風土以外の何物でもない。作も、曾我廼家十吾こと茂林寺文福にせよ、一堺漁人こと曾我廼家五郎にせよ、館直志こと渋谷天外にせよ、首尾整い、序破急あり、ときに三一致の法則すら自家薬籠中のものにしていて、当節めったに味わえない、芝居を見ているという実感と悦びを感じることができる。(文福や一堺漁人がアリストテレスを知っていたとは思われない。知らなくたって、アリストテレスの考えたことぐらいは彼等も考えたのである!)こういうプロフェッショナルというものがまずあって、それから、難しい理屈をこねたりするアマ集団の芝居がある。そういう暗黙の秩序みたいなものが、当節の日本の演劇の風土に欠けていることを、今更ながら思わずにはいられない。

アマチュアリズムというものは、プロフェッショナルというものが確立した上に、はじめてアンチテーゼとしての意味を持つことができるのだろう。してみると、鳩山首相がこの八ヵ月間に演じた悲喜劇は、今日の政治に、確固たるプロフェッショナルが存在していないことの反作用なのかもしれない。