随談第345回 よしなしごと(その5)兼観劇偶談

前回は染五郎に大分つらく当ったようだが、ナニ、実は染五郎に限った話ではない。丸本物のがっちりした演目にがっちり取り組む機会が若手花形連に極めて少ないままに、人気と評判、話題性の上で、彼等が当代歌舞を背負う形になっているという、歌舞伎の今日の歪みの反映なのだ。いまの大家連だって、またあの連中の『寺子屋』か、などと溜息の出るような松王丸や源蔵をよく見せてくれたものだが、しかし今思えば、あれはまだ二十代で、場所も東横ホールであったり、旧演舞場にしたところが、花形公演と銘打ったその実勉強芝居であったわけで、その意味では、正月の浅草歌舞伎以外にそういう場がいまの花形連にはないことは、むしろ同情すべきことではある。だがそうこう言っている内に、歳月は人を待たず、染五郎などはもう中堅と見做すべき年齢になっている。だとすれば・・・・

と、話は堂々巡りすることになるのだが、染五郎についてもうちょっと言うと、熊谷も源蔵も、仁でも柄でもないのは同情すべきようでいて、いやそうではない、そんなことは見る前からわかっていることで、ご当人もそれは承知の上だろう。多少の仁や柄の違いはどうあろうと、丸本物なら丸本物、南北なら南北黙阿弥なら黙阿弥という、芝居の色というものがある。それが希薄なのだ。沢庵桶にどれだけ漬かっているかで沢庵の良し悪しが決まるように、薄味なら薄味なりに、コクのある沢庵に漬かってもらいたいということなのだ。

もっとも、熊谷や源蔵に比べれば、白酒売りならちゃんと『助六』の白酒売りになっているのは、やはりこの辺りが仁に合っている役だということでもある。あの白酒売りは悪くない。海老蔵とのバランスもいいから、ちゃんと助六の兄貴に見える。格別の好演というほどではなくとも、安定感と流露感がある。狂言の色に染まっている。こう言ったからといって、仁と柄に合う役だけやっていろなどと言うのではない。熊谷や源蔵の不成功を咎めるのでもない。ただその落差がどこから来るのかをよく見極めなくてはいけない、ということである。大役二役に取り組む意欲は大したものだが、逆に、ひと役ひと役にもっと根限り打ち込むべきだ、とも言えるわけだ。どちらも、昔のうるさ型の批評家が、花道の出を見ただけで、勝負あった、と決め付けたという代物である。何でも出来てしまう、ということが、何にも出来ていないということの裏返しになってはいけない。要するに、そういうことである。

松竹座を見てきた。團菊祭と言い条、その実菊之助奮闘公演の趣きでもある。玉手はよかった。始めの出から母親に訴えかけるところなどを見ていると、アア、玉手というのは本当はこんなに若いのだ、ということを、まざまざと実感させられる。海老蔵の助六が、あるいは鎌倉権五郎が、彼等は本当はこんなに若かったのだ、と実感させたのと、それは共通する発見であり、驚きである。それは、かつて識者の間で論争になったような、玉手という役を若い女として演じるべきか、立女形の役として演じるべきか、といった類いの問題を超越した実在感である。この驚きを経験しただけで、大阪まで見に行った甲斐があるといっても過言ではない。それで、濡衣になると、黒の 衣裳がよく似合って、役の位にきちんとはまっている。端倪すべからざるものを感じさせる。『髪結新三』では勝奴をやる。これがまた、新三との距離間のいい、小気の利いた若い衆になっている。こういうバランス感覚を、どこで身につけたのだろう? あるいは父譲りであるのかもしれないが、父のこのぐらいの年齢のときよりも、中身がよく詰まっている。つまりこれらの役々が、どれもいかにも実感があるのは、中身のつまり具合が、それぞれの役に応じて程がいいからだ。玉手はかっちり詰まっている。勝奴は少しゆとりを持たせている。團菊祭のなかでひとり花形歌舞伎をやっているようなものだが、それが、存在感を示しながら、決して妙に突出したり浮き上がったりしない。

ついでに團菊のことをいうと、『勧進帳』も悪くないが、むしろ弥太五郎源七と新三で向かい合ったときに、團と菊の揃うことの充実感を満喫した。これは、大したものであった。

まだ書くことはいくらもあるが、長くなったのでこのぐらいにしておこう、最後に前回の訂正をひとつ。『寺子屋』の玄蕃は猿弥ではなく市蔵だった。訂正ついでに改めて言おう。首実検で切り首を持って松王丸に突きつける。あそこの玄蕃の息がじつによかった。

随談第344回 よしなしごと(その4)兼 ひさしぶり観劇偶談

歌舞伎座から新橋演舞場へ、とタイトルのついた、その新橋演舞場の新しい筋書は、サイズから体裁、編集の仕方すべて、そっくりそのまま歌舞伎座の筋書を踏襲している。ひとつの意気込みを感じる。前回、昔なら向こう三年間に限って歌舞伎座と改称したろう、と書いたが、代わりに筋書の体裁・内容で、歌舞伎座の格式を継承したのである。ということは、三年後、新しい歌舞伎座が開場したら、筋書のこの体裁はまた歌舞伎座に受け継がれるのだろう。正面玄関上に飾った櫓とともに。

私個人としても、正直ほっとした。演舞場の筋書はすでに大判に切り替わっていた。歌舞伎座も、新規開場を境に、大きいサイズに変更、などということにならなけりゃあいいに、とじつは心配していたのだ。近頃どこの劇場のパンフも大型になって、あれは保存上、大いに迷惑するのだということを、劇場側はご存知知らずや?

さて、大一座、大顔合せの歌舞伎座最後の月から、バトンを渡された演舞場は花形一座、しかも『寺子屋』『熊谷陣屋』に『助六』と、興行の芯となる演目まで、筆法伝授よろしく花形連にそっくりそのまま受け渡すという企画のアイデアは、なかなか面白い。昭和二十一年五月から六月、戦前派の重鎮たちから後の十一代目団十郎らの花形へ、『助六』を受け渡し、これを機に海老サマ開眼、世代交代への第一歩となったという故智に倣ったのに相違ない。欲を言うなら、新しい門出を祝って『三番叟』を開幕に踊るとよかったのに。

ところでその花形連だが、五人囃子よろしく並んだ海老蔵・染五郎・松緑・勘太郎・七之助の評判をするなら、まず何と言っても海老蔵の助六で、これは既に当代歌舞伎での特級品である。もちろん、セリフの不安定をはじめ欠点はわんさとある。フィギュアスケートよろしく採点したら、たちまち減点がつくであろう。だがそれにもかかわらず、これは、喧嘩の相手を砂利場に蹴込んだり雷門でヘソを取ったりしそうな、当代誰の助六にも勝って助六そのものであるという一点において、当代歌舞伎の華である。とりわけ「水入り」をつけるに於いておや。海老蔵の助六が怒れる助六であることは、夙に初演の時に言ったが、「水入り」がつくとさらに俄然、凄愴の気が漲る。右翼のポール上はるか高く、場外へ飛び去ったホームランの趣きである。(もしかして、ファウルだったか・・・?)

水入りというと、回数からいっても十七代目勘三郎だが、一度、梯子を花道から西側の桟敷席へ掛け渡したのを見たことがある。身の軽いのがとんとんと駆け上がり小手をかざして辺りを見回し、居ないぞ、と叫んで梯子を下ろし、本舞台へ来ていつものように正面奥へ掛けるのだが、あれはなかなかいいものだった。時間にして三分と余計にかかるわけでもなし、お客さん大喜びである。次の機会には是非復活してもらいたい。

松王丸は、背骨の通ってバリッとしているところがいいが、様式と内面の乖離が露わに見える点、未成品といわざるを得ない。だが、首実検で刀を抜いて源蔵夫婦に差し付ける、七代目團十郎以来とかいう型を見せるその一瞬は素晴らしい。こちらは、快打一番、目の醒めるようなクリーンヒットの趣である。もっともここは、さっと首を取り上げ突きつける、春藤玄蕃の猿弥の働きも併せ評価すべきだろう。

染五郎は、源蔵と熊谷という、どちらも最初の出をやかましく言われる役なのは皮肉だが、そんなことより、この人は、竜馬や細川の血達磨のような、わあわあ叫んで熱演する役はやっても、源蔵や熊谷のような、深い思いを腹中に収めて沈着に行為をする、様式の中に内面を凝縮させてせめぎ合わせるような役は、思えばいくらもやっていないのが、こういう芝居になると祟っているのが分ってしまう。海老蔵にしてもだが、丸本物こそ現代歌舞伎の支柱であり、未来の歌舞伎を背負う者としてこれをなくしては、現代の歌舞伎俳優としての存在意義を主張するのはむづかしい。源蔵ならずとも、ここが絶体絶命の性根どころである。源蔵よりはまだしも熊谷の方が整って見えるのは、形をつけるのは熊谷の方がつけやすいからに過ぎないだろう。それと、七之助の相模、松也の藤の方と、若い女方ふたりの健闘もあって、海老蔵の義経ともども芸の背丈が揃っているために、均衡が取れて、劇そのものが見えやすくなったからであろう。

七之助といえば、『寺子屋』では勘太郎とふたり、女房役を勤めていて、ご亭主ふたりよりもこちらの方が健闘している。とりわけ勘太郎の千代が、内面から迸るものをがっちりと抑える外面の様式をしっかり身につけている分、四人の中で一番の出来である。

ちょいと長くなったので、以下は次回に回そう。

随談第343回 歌舞伎座から新橋演舞場へ (よしなしごと・その3)

俄かに暑くなって書斎の窓を開け放していたら、男の大きな声が聞こえてきて、歌舞伎はもうおしまいなんだってさ、と言っている。そういえば、勘三郎がタクシーに乗ったら、歌舞伎座がなくなって三年間失業ですか、と運転手に言われたと勘太郎が今月の新橋演舞場の筋書で言っている。こういう早とちりは、歌舞伎座のさよなら公演の宣伝の薬が利き過ぎた結果ともいえるが、歌舞伎座がなくなるのだから歌舞伎もなくなるのだ、というのは、考えてみれば、一般人のごく素直な反応ともいえる。

「歌舞伎座」という名称は、120年前に歌舞伎座が出来た当時には、きっと奇妙なものであったに違いない。「甲子園球場」とはいっても「野球園」とはいわないように、固有名詞にしてはあまりにもそのものずばりでありすぎる。それが、120年の間にごく当然のように受け止められるようになって、歌舞伎座イコール歌舞伎、という観念が出来上がったわけだ。しかし仮にもし甲子園や東京ドームが向こう3年間、建替えのため閉場と聞いても、プロ野球も三年間、休業になるとは誰も考えないだろう。

閉場式から一週間余り経った5月8日は新橋演舞場のいわゆる御社日だったが、東銀座の駅で降りたときにふと思いついて、中ほどの階段から歌舞伎座の正面に上ってみた。この一週間、いろいろなものを運び出すだけでも大変な作業と聞いていたが、この日もコンテナ車が一台、停まっている。幔幕だの何だの、飾り物がすべて取り払われ、玄関口も窓も閉まり、森閑と人けのない歌舞伎座のたたずまいは、すでに廃屋と化したかのような気配に包まれていた。それは、私がはじめて目撃する、これまで見たことのない歌舞伎座の姿だった。一週間前の騒ぎが信じられない変わりようである。美しく装っていた老嬢が、入院でもして、正視しかねるような容貌を露わにしたよう、ともいえる。そういえば歌舞伎座は今年が還暦なのだった。(つまりアラ環である。)

われわれなどのしがない家でも、引越しの際、家具その他一切合財を運び出した後、住み慣れた我が家を改めて振り返って一瞬、なんともいえない寂寥の感に襲われるのは誰しも経験のあることだろうが、建物というものは、住む者がいなくなれば即ち廃屋と化すのだということが、改めて痛切に思われる。歌舞伎座も、仮にいまカメラを向けたとしても、一週間前にした同じ行為とは、まるで違う意味を持つことになるだろう。同じ感傷でも、もはや甘いものはそこにはなく、冷徹に現実を見つめる者の胸を貫く、苦味を伴う感傷である。夜、ふたたび、帰りがけに道路を隔てた向こう側から見ると、九時半というのにまだうっすらと灯りがついている。残務に取り組んでいる人たちであろう。ほどなく、板囲いが出来て解体工事が始まるのだ。

さて新橋演舞場は、櫓も立ち、この月からはいわば歌舞伎座の格を持つ劇場となったわけで、120年前なら、歌舞伎座と改称したかもしれない。「歌舞伎座」という命名法には、本来そういう意味合いもあるに違いない。すなわち、歌舞伎の代名詞としての歌舞伎座、である。勘三郎に向かって、三年間失業で大変ですねと言った運転手さんの解釈は、決して早とちりではなく、むしろ言葉の本質的な意味を射抜いているのだ。