随談第278回 今月の一押し 勘太郎の駒形茂兵衛 附・澤村藤十郎のこと

ようやくブログを書く寸暇ができた。早速、東京四座歌舞伎のお噂といこう。

一押し候補というなら、エライ人たちのクラスでは勘三郎の『鏡獅子』、菊・時・吉の『十六夜清心』が気に入った。どちらも、現歌舞伎界での頂点を示すものである。若手ではその『十六夜清心』で求女をやる梅枝がいかにもはかなげで気に入ったのと、面白いのは何と言っても海老蔵の権太だが、今回は勘太郎の駒形茂兵衛といこう。

大体、こんどの浅草歌舞伎は好成績ぞろいで、亀治郎の『大蔵卿』も、「桧垣」を出さずに「曲舞」から「奥殿」というひと理屈ある出し方からして亀治郎ならではだし、七之助も、『娘道成寺』と『土蜘』の胡蝶のろうたけた若女形ぶりに感じ入った。現在の女形で、「ろうたけた」という形容詞がふさわしいのはまず時蔵、タイプは違うが玉三郎というところだろうが、七之助も、磨けば彼らに匹敵するろうたけた美を資質として持っていることがわかる。これは大事にしたい。若い間にいろんなことをしたいだろうしまたするのはいいが、自分の体と芸の根本にあるこの稀なる資質は、くれぐれも大切にしてもらいたい。

さてその『土蜘』が、勘太郎がいいのは、いわば予測できたことだが、『一本刀土俵入』の方は、一抹の危惧もあったのを、見事にそれを拭い去った驚きが鮮烈であり秀逸である。勘太郎の資質の根本にある、ナイーヴで素直なよさが、実に見事に生きている。

何よりもすぐれているのは、こんなに何度も見た筈の芝居が、じつに新鮮に見えたことである。ああ、この芝居はこういう芝居だったのだという、驚きがある。茂兵衛も若い。お蔦も若い。十年経ってまたの姿を見せても、まだまだ若い。そうなのだ。序幕の我孫子屋の取的など、まだ十代かもしれないし、お蔦にしても、二十四になる女だと、みずから年齢を明かしている。エライ女形がやると、客席から笑いがジワになって起こるところだ。茂兵衛も、先代の勘三郎や松緑や、あるいは島田正吾や中村翫右衛門や、映画で見た片岡千恵蔵や文士劇で見た今日出海まで、いままで見た茂兵衛たちはみんな、前ジテと後ジテよろしく、前半の取的は一種のお約束として、暗黙の了解事項として見ておいて、後半で辻褄をつけて納得するというものだった。そういうものなのだと、我人共に思っていた。

それが、勘太郎と亀治郎のを見ていると、全然違う劇に見えてくる。なにも役者と役との実年齢が近いからいいというのではない。勘太郎にしても亀治郎にしても、当然ながら、若くともプロフェッショナルな役者として、ちゃんと芸として演じている。決してお生ではない。それにもかかわらず、彼等の若さが、老名優たちのなし得なかった、この戯曲本然の姿を現わして見せたのである。

番外を添える。嬉しいことが新年早々にあった。二日の日、改築に向け十六ヶ月に及ぶさよなら公演のはじめを祝う手打ちの式が歌舞伎座であったとき、総勢二百人、五段に並んで歌舞伎座の大舞台に一同居並んだ中に、澤村藤十郎がきちんと正座をして姿を見せていたことである。思えば十年ぶりの、歌舞伎座の舞台である。こころなしか、それとなく場内を見渡しているようにも見えた。感慨は一入であったに違いない。並んでいる席次から察するに、元気だったらいまや立女形の地位にいることになる。彼をこの場に並ばせたひとたちの心やりも偲ばれて、新年早々、これは嬉しい眼福であった。

随談第277回 四回目の新年

明けましておめでとうございます。ホームぺージでこのブログを始めてから、これで四回目の新年を迎えたことになります。まずは、年末年始のおしゃべりから。

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前にも書いたと思うが、この数年、年賀状は大晦日に書き始め新年になってから投函するのが恒例になってしまった。本当は、挨拶というものは相手本位にするべきものだから、新年の挨拶は元旦に届くように計らうのが筋というものだろうが、少なくとも今年、いやこの暮の場合は、各劇場の筋書に載せる原稿が幾つも重なったり、頼まれもしないのに自分から応募した論文の締切が正月明けに待っているので、せめてその糸口だけでもつけておかないととんでもないことになる、という焦りやらで、機を逸してしまったためである。

この三ヵ月、ブログの更新が少なかったことにお気づきの向きもあるかもしれないが、このせわしなさは十月頃から続いていて、原稿の締め切りを延ばしてもらう、ということを、この秋はじめて経験した。ちょっと気障なたとえを使えば、職人というものは品物を納期に納めて一人前という、古典的な考えを気取りたい思いが、じつは私の中にあるのだ。

せわしなさの原因のひとつははっきりしていて、前年度から客員教授という肩書をつけてもらって週一日、某大学で前期に世界の演劇史、後期に近代の日本演劇の話をすることになったためだ。一年目は無本で授業をしたのだが、百人を超す大勢を相手だと、ボードに文字を書いても後ろの方の学生に徹底しないからついざわざわする、とか、そうなると喋る方も集中しにくくなって内容が薄くなりがち、とかいった悪循環が生じるという反省から、今年は、事前に骨子を書いたペーパーを配布するというやり方にした。まあ、それはそれなりに効を奏したつもりなのだが、そうなると、今度は、ついその準備にかまけてしまうことになる。世界演劇史の方は、まあ重点的にあらましを述べるのだから、それなりに割り切ることもしやすいが、近代の日本演劇というと、資料調べが面白くなってつい時間をとられてしまうとか、何かと手間を食う。自分のためにもなることだから、と思う気持が、仇にもなる。

じつはこの暮もそうだった。「15年戦争下の歌舞伎」というテーマなので、昭和六年から二十年までの『演芸画報』とそれをバトンタッチした『演劇界』を、この機会にしらみつぶしに読んでやろうと思ったのだが、考えてみれば、単純計算で15(年)×12(冊)=180冊読まなければならない勘定になる。しらみつぶしは到底無理でも、せめて勘所は見落とさず押さえなければ意味がない。と、これもつい、面白さにかまけるということになるし、またそうでなければ、到底こんな作業はやっていられるものではない。

というわけで、おととしの正月の挨拶に書いたのと同じく、今度もまた、紅白歌合戦は年越蕎麦を食べながらチラリと眺めただけで、後はCD寄席。先代金原亭馬生の『柳田格之進』、先代桂文楽の『富久』、彦六の林家正蔵の『年枝の怪談』、六代目三遊亭円生の『三十石』といった極め付きの名演を堪能しながら宛名書きをするという、至福の時間を過ごすことと相成った。