随談第266回 相撲ばなし

いかなる天魔に魅入られしか、不祥事、それも前代未聞の類いのことばかりこう立て続けに起ってはたまったものではない。いかに一本気の口下手といっても、テレビのニュースに映る限りのあの様子では、誤解や反感を買うのもまあ仕方がなかったろう。現役時代の土俵ぶりを思うと、北の湖のあの憎体(にくてい)ぶりも、あれはあれでなかなか「かわいい」ものだったのだが、いかになんでも、今回一連の事態への対応は無策に過ぎた。無策でないのなら、当節流行語で言う説明責任とやらに対して、配慮がなさ過ぎた。

というわけで、退陣した北の湖に代わって三重ノ海が総理になった。渋みのある、玄人好みのいい相撲取りだった。安芸ノ海に似ているとも言われた。双葉山を70連勝目に破ったという安芸ノ海である。私は安芸ノ海はリアルタイムで見た記憶はないが、往年のフィルムやグラビアで知る限り、風貌・取り口、なるほど一脈相通じる以上のものがある。三重ノ海と同時代に黒姫山という三役常連の好力士がいたが、この人は文楽の人形のお端下(はした)の女中みたいなユーモラスで味のある風貌で、私は三重ノ海と黒姫山の対戦があると、二人の仕切りを見るのが大好きだった。あれほどの風格と人間味(ユーモア)の渾然とした古典美は、文楽や歌舞伎の舞台でもそう滅多に見られるものではない、良きものだった。(両国駅の改札口ホールに大関時代の三重ノ海の優勝額が掛っている。おついでの際ご覧下さい。)

それにしても、大麻汚染などという代物が大相撲に入ってくるとはお釈迦様でも気がつかなかった、と思うのは実はまちがいで、当然、ありうべきことと思わなければいけないのが現代という時代であり、現実というものである。もう決定してしまった以上、いまさら仕方がないが、「解雇」(この言葉、会社と従業員の関係みたいで、どうも大相撲にはふさわしくない。事実上「追放」だろう。そう言った方が、よほどすっきりする)という判決が適切だったかどうか? 城攻めのとき、落城する敵に逃げ道を一筋、残しておいてやるように、処罰は厳しく、しかし一筋、救いの手を残しておいてやるべきではなかったか? 解雇に対する訴訟というのでは、まるで労働争議ではないか?

新理事長のなすべき一番の重要事は、理事会に外部から参画させる問題にどれだけ真剣に応えるかだろうが、北の湖前理事長が時津風問題のときしきりに言っていた、部屋のことは各部屋の親方の責任というのが本当にそうだとすれば、相撲協会というのは幕藩体制か、あるいは連邦共和国と同じ体制だということになる。初日の挨拶で、一連の不祥事はすべて協会の責任と言明したことでようやく軌道修正された形だが、肝心なのは外部からの理事をどういう形で処遇するか。それ次第で、改革の実態が問われることになる。

折から大河ドラマの『篤姫』はいま、幕府が朝廷の命に屈して、幕政人事に外様大名を参画させるという話である。ひょっとして、徳川幕府ならぬ相撲協会が大政奉還という事態に追い込まれまいものでもない・・・などというのは悪い冗談か?

つい先日桐島洋子氏が面白いことを言っていた。外人力士が多すぎるという声がかまびすしいが、これまで外人力士に頼れるだけ頼ってきながら、いまさらごたすた言うのは虫が良すぎる。モンゴル力士たちの日本語のうまさを考えても、いかに彼等が必死に打ち込んでいるかがわかるではないか。メジャーリーグでプレイしている日本人選手で、あれほど英語がうまくなった人が何人いるだろうか、というのだ。まったく同感である。

随談第265回 観劇偶談(その125) 今月の一押し

今月随一の舞台は歌舞伎座秀山祭、吉右衛門の『逆櫓』である。これは圧倒的であり、今後余程の傑作が出ない限り今年度ベストワンであろう。吉右衛門の松右衛門・樋口ともに現代の丸本時代物としてほぼ理想的、ついで歌六の権四郎が樋口とがっぷり四つに渡り合う気概が役と重なって素晴らしい。近年でのよき権四郎として、又五郎の骨法正しき傑作は別格としても、先代権十郎の気骨(奇骨)などと並べても遜色はないであろう。歌六はこの六月には『鮓屋』の弥左衛門を見事にやってのけたばかりである。老け役の中でも屈指の大役ふたつながらでこれだけの成績を示したのだから、何か相当の賞を貰ってしかるべきだ。それから芝雀のお筆がよい。初役だそうだが、芯が通っていて格があって当代のお筆として最上級に数えられる。東蔵のおよしも、はじめは少し老けているようにも思ったが、芝居が進むうちに実力がわかってくる。お筆との対照といい、まさに世話の女房である。加えて富十郎の重忠。「大手の大将範頼公、搦め手の大将義経公」というセリフの言い方を工夫してみます、と自身でも筋書に言っているがまさにその通り、情理備わって凛然と、最後を締めくくる。こういう役をさせたら、この人、大名優である。

それから、いつもは遠見の子役を使う船頭三人を歌昇・錦之助・染五郎でやるのもいい。熊谷と敦盛の「組討」に子供を使うのは、ものの哀れを引き立たせる効果があるが、『逆櫓』の子役にはそれほどの必然がない。またこの三人の気が入っていて、局面転換に機を得ている。(こういう役になると、染五郎より錦之助の方がさすがに年季が入った役者ぶりなのが面白い。歌舞伎役者としてのおつゆがたっぷり沁み込んでいる度合いの問題である。)

次いでは新橋演舞場の『布引滝』海老蔵の二役、とりわけ実盛は海老蔵の丸本物随一の傑作といっていい。文字通りの一押し、つまり、皆さん是非見ておおきなさいよ、という意味でなら、これこそ正に一押しである。問題のセリフの不安定もまず落ち着くべきところに収まっているし、何よりも実盛という役に共感があることが、たとえば太郎吉を見る目に溢れている。海老蔵っていい奴だな、と見ているこちらも嬉しくなるようだ。(七月の、早々と切符が売り切れたと聞く『千本桜』とは雲泥の違いだが、何たることか、初日に見たら空席があるではないか! あれを見るなら何故こっちを見ないのだ、と気を揉みたくなる。)義賢と二役を兼ね、通して出したのもよかった。『布引滝』という狂言に新しい見解を引き出す契機となり得るかもしれない。だがそれも、海老蔵という材質があってのことだ。(手前味噌で恐縮だが、筋書に書いた拙文をお読み願えると有難い。)

時蔵・亀治郎と三人顔合わせの『加賀見山』の岩藤は、芸評としてはもうひとつ褒められない。海老蔵独特の放胆さの裏目が出て、やや芸が粗い。しかし悪女ぶりのチャームを見る上でと限定付きでなら、これも一押しの対象になり得る。「草履打ち」や「仕返し」で、尾上やお初と引き合うように立ち身で決まるところの、姿のよさ風情のよさ。おのずからなるユーモア。このユーモアこそ、立役が加役でつとめる悪女の真髄である。(おつゆがたっぷりあって、ダルビッシュそっくり! いや、冗談ではなく、この発見は海老蔵論なり加役の女形論の材料になり得るに違いない。ついでながら、ダルビッシュの「色気」はプロ野球選手として新庄以来、しかもはるかに上質である。)

随談第264回 観劇偶談(その124) 『高野聖』の脚本につい

かなり旧聞になってしまったが、やはり書いておくべきだろう。七月に歌舞伎座でやった『高野聖』の脚本のことである。

筋書には、泉鏡花作、坂東玉三郎・石川耕士補綴とあるばかりで、だれの脚本なのかが明記していない。補綴とは、既にある脚本を上演台本として整備することを言うのであり、鏡花の作はもちろん小説であって、自身で脚本化はしていない。腑に落ちないままに気になっていたが、先月末、亀治郎の会が国立劇場であった折に、石川氏にお目にかかれたので、その点について質してみることが出来た。

昭和29年、当時扇雀ブームなどと呼ばれ大ブレークをしたばかりのいまの坂田藤十郎が(ついでだが、いまの若い方々には想像もつかないだろうが、私の見るところあのときの扇雀ブームは、玉三郎の出現したときと、つい最近の海老蔵ブームと並ぶ戦後歌舞伎の三大ブレークだろうと思っている)、女肌(?)をあらわにするというので大評判、物議をかもしたときのは、脚本吉井勇、演出久保田万太郎というビッグネームが控えていた。今度のは、やはり、玉三郎と石川氏の共同脚本なのだった。なぜ補綴という表現にしたのか、いろいろ事情もあるようだが、そもそも筋書とは一般観客のためのサービスであり、やがては最も基本的な資料(史料)ともなるものだ。責任の所在をあきらかにする意味からも、明記するべきだろう。がまあ、ともあれこれで、確認することができた。

ところで、この『高野聖』の脚本については、べつな観点から、上演中から議論があった。ラストの約十分、歌六の扮する親仁の長ゼリフで、謎の女の正体や、怪しげな鳥獣たちの正体について説明するのが長すぎるというのだった。わからない意見ではない。私は、その折にこの欄にも書いたように、十分もの長ゼリフを説得力をもって語り切った歌六のセリフを感に堪えて聞き、その力量に感服したのだったが、そこにすべてが懸かっている難しい脚本であるのはたしかだ。あれが歌六でなく、もっと凡庸な役者だったら、無惨な失敗に終っていた恐れは多分にある。もっと単純に、十分もの長ゼリフをじっと聞いているのは苦痛だという人もあるだろう。

だから、すべてを最後の説明のセリフに賭けてしまうのは疑問だという意見は、あってもいい。しかし、それを劇評が批判しないのはおかしいという意見もあったようだが、そこまでいくと、はて?と首をかしげたくなる。小説と芝居、文学と演劇の表現はもちろん違う。言葉、言葉、言葉の世界と、視覚による効果や、演者の身体性などなど、さまざまな表現の方法手段がある世界との違いはもちろんある。しかし言葉、とりわけセリフをじっくり聞くことが、演劇の大きな魅力であるのも、また事実だろう。古今東西、長々しいセリフが聞きどころ、見どころになっている名作は数知れない。

こないだの『高野聖』の親仁の長ゼリフが、どれほどの名セリフたりえていたかはともかく、要は、『高野聖』という世界を、玉三郎がいかにして表現しようとしたかだろう。たとえばあれが猿之助であったなら、全然別な脚本が出来上がったにちがいない。女によって鳥や獣にされた人間を視覚化して見せたかもしれない。しかし、それは猿之助には似合っても、玉三郎には似合わないに違いない。

随談第263回 観劇偶談(その123) あれこれ談話

テレビの「平成教育委員会」というクイズ番組で、亀治郎が最優秀生徒(?)というのに選ばれたのを見ていた。問題はみな、全国の私立中学校の入試問題らしく、並みの大人では到底歯が立たない。見ていると、ほとんどの問題に亀治郎が真っ先に正解を答えてゆく。慶応高校時代の秀才ぶりは音に聞こえているが、なるほどという感じだ。第二位の宮崎県知事を引き離して断トツ優等生という結果だった。(途中で司会のビートたけしが、一瞬、しゃらくせえという表情をしたのが面白かった。)

それでおのずから連想したのは、ついその一週間前に見た第六回「亀治郎の会」である。劇評は『演劇界』に書いたからここではしないが、タイトルだけ披露すると「知略の達成」というのである。『俊寛』も『娘道成寺』も、とにかく全編「意」と「知」と「技」で覆い尽されている。やってやろうという「意力」と、達成するためにめぐらし、組み上げる「知力」と、それをやってのける「技術力」である。

『道成寺』では、歌右衛門に似ていると思った箇所が何箇所かあった。踊りぶりでもあるが、もっと端的に顔が似ている。ホオ、と思った。これは私だけの錯覚ではなく、信頼の置ける、それも複数の人の意見でも、やはり、似ていると感じたという。いろいろ研究したんでしょう、とその人は言うが、それもあろうけれど、私はむしろ、「おのずから似た」のだと思いながら見ていたのだった。その方が、私の価値観では、本物ということになる。

いまの歌舞伎界で、『俊寛』と『娘道成寺』をふたつながら自分の演目にしたのは富十郎と勘三郎の二人だろう。しかし亀治郎の『道成寺』は、これら先輩の『道成寺』とはまったく違う。両先輩のは、六代目菊五郎以来の、恋する娘の百態を組曲として踊る加役の『道成寺』だが、亀治郎のは、恋の執着を踊りぬく真女形の『道成寺』である。歌右衛門を彷彿とさせるのもむべなるかなだが、『俊寛』や『道成寺』でくりひろげて見せた知略の数々以上に、畏るべしと思わせるのは、むしろこういうところなのだ。真女方亀治郎!

ところでこの一見無関係の二つを見ての発見は、「平成教育委員会」で遊んでいるときも、「亀治郎の会」で獅子奮迅に取り組んでいるときも、亀治郎は少しも遊んでいないように見えるということである。会のパンフの「おいしい亀治郎の説明書」なる遊びのページのケッタイナ写真集にしても同じである。役者に、「くたびれる」役者と「くたびれない」役者がいるとしたら、亀治郎は「くたびれる」役者である。そういえば猿之助も「くたびれる」役者である。しかし実父の段四郎はあきらかに「くたびれない」役者だから、必ずしも血統のせいではない。そうしてもちろん、歌右衛門も「くたびれる」役者だった。

もちろんこれは、どちらがいいの悪いのという問題ではない。それぞれに、それぞれでなければないよさも、欠点もある。政治家にも、ハッタリの利く政治家と利かない政治家がいるようなものだ。福田首相など、どうせ投げ出すのなら、そんなに仰るなら向こう半年間、民主党さんに政権をお預けしましょうや、お手並み拝見した上で総選挙をして、有権者にどっちがよかったか決めてもらいましょう、とでも啖呵を切ればよかったのだ。郵政民営化法案が否決されて、ナヌ?そんなら解散総選挙だ、ともろ肌脱いで大道に大の字になってサア殺せ、みたいなことをやって大勝利、英雄もどきになった首相もいる。ハッタリの上手いか下手かの違いに過ぎないように、私には思えるのだが。

随談第262回 観劇偶談(その122) 今月の一押し、併せて、納涼歌舞伎あれこれ

オリンピックにかまけている間に、うっかり証文を出し遅れるところだった。

恒例の一押しは、亀蔵の駱駝である。いままで見た駱駝で一番うまかったと思う。今度の『らくだ』がよかったのには、筋書のインタビュウで三津五郎が言っているように、手斧目の半次の役作りにひと工夫あって、あまり粋な江戸っ子にせず、いままでよりも野太い感触の男にしたこととか、いくつか理由があるが、掛け値なしに笑えたのは、何といっても亀蔵の馬の手柄である。芝居心であり、機知の賜物だが、もうひとつ、勘三郎・三津五郎に位負けせず、いい意味で遠慮なくやっているところがいい。とかく、偉い役者が久六で、弟子に駱駝をさせたりすると、何となく遠慮してしまったりして、笑いがもうひとつ不発になることがある。そういえば亀蔵には、『野田版・研辰』でも、「からくり人形」という怪演があったっけ。兄の市蔵もこのところぐんと腕を上げたし、冥界通信の無線電話で亡きお父さんの片市さんに知らせてやりたいような、兄弟の活躍ぶりだ。

もうひとつ冥界通信の電話をしたい相手がある。故・坂東吉弥である。第二部の『つばくろは帰る』に、作者の川口松太郎が自分の少年時代の思いを反映させたような孤児の役をやっている小吉が、なかなかいい。まず素直なところ。併せて、それでいて芝居ッ気があること。かつての松太郎少年がそうであったであろう如く、小吉演じる孤児の少年も、純で、素直でありながら、ちゃんと人を見、人の心を読み、如才ないところも持ち合わせている。可愛い生意気。その具合が、なかなかいい。

もうひとつ、この芝居で感じ入ったのは、言葉の美しさである。格別に凝ってなど、さらさらいない。ごく平明な、普通の言葉でいながら、芝居のなかで、含みのある言葉として生きている。おそらく、川口さんにしてみれば、こんなのはさらさらっと、何の苦労もなく書いたのにちがいないが、それからざっと四十年経ったいま、こういう言葉で脚本を書ける人は多分いないだろう。

それにしても、昭和四十六年の初演のとき、主役の松緑と淡島千景のほか、小吉のやっている安之助という孤児の役はいまの清元延寿太夫、勘太郎と巳之助の大工の弟子の、兄弟子の方が先代辰之助、弟弟子の方が何と高橋英樹である。そういえばその頃、松緑はこの人を可愛がっていて、高橋の方も松緑を崇拝している様子だった。つい最近も大河ドラマで島津斉彬をやっていたが、殿様ぶりが、新劇俳優などがやっているのと、ひと味どころでなく違う。歌舞伎は、こういう形でも貢献もし、歌舞伎の外へまでも裾野を広げているのだ。つまり、歌舞伎をまったく見ないような視聴者にも、どういう演技をいいと思うか、歌舞伎的な感性・感受性を植えつけていることになる。かつては、歌舞伎出身の映画俳優たちが、その役目を果たしていた。おのずとそれが、一般庶民の間に、歌舞伎の感性を植えつけていたのだ。あまりいわれないが、こういうことも、実は馬鹿にならないのだ。

その他では、勘太郎が『紅葉狩』をよくやっていた。更科姫をあれだけたおやかに踊れたというだけでも、たいしたものだ。巳之助の山神は、歌舞伎古典のれっきとした役として、これがはじめての役だったかも知れない。出来は、まず無難というところ。

随談第261回 続・オリンピック異聞

こんなことになりゃしないかという気がしていた。今度のオリンピックでは、悪い予感がふたつも当ってしまった。ひとつは女子マラソンの野口選手。ああいう形とは思わなかったが、悲劇的な事態になりそうな予感がなぜかしていた。もうひとつが星野ジャパンである。こっちは、もう少しこだわりたくなるもやもやが残る。

ここで聞いた風なことを言ってもはじまらないが、気になっていたのは、監督自身が事前にあまりにもテレビやさまざまなイベントに出て(引っ張り出す方も悪いのだが)、いつしか、戦う前から凱旋将軍みたいな空気になっていたことだ。本来決してきらいな人ではないが、はっきり言って食傷した。金メダル以外いらないという言い方も、気になった。

選手選考の時に、稲葉選手に星野監督から直接電話があって、お前、出る気があるのかないのか、どうなんだ、と問うたという話を実況中にアナウンサーが披露していたが、もしアナの説明が正しいとすれば、私には理解しかねる質問の仕方である。選手は選考を待つしかない立場である。それに向かって、お前やる気がないのかと聞こえるような言い方は、理不尽ではないだろうか? 精神主義って、そういうことなのか?

作戦面について素人がエラそうなこというのはみっともないからよすが、素人目にもわかるのは、星野監督にかぎらず、最近金科玉条のようにいう「勝利の方程式」って、少なくともとも短期決戦には当てはまらないんじゃないかという疑問(果して、ダルビッシュなんか、戦艦大和の巨砲みたいにイザ決戦というときになって宝の持ち腐れになってしまった)と、普段四番打者を外人助ッ人に頼っているために、いまの日本にはスラッガーらしいスラッガーがいなくなってしまったということ。それと、サドンデスみたいな延長方式で、バントに警戒などと考えるのは日本人だけで、メリケン野球なら初球から引っ叩きに来るに決まってるのは、素人でも判ることではないだろうか。

それにつけても改めて思うのは、オリンピックというのは、究極のところ陸上競技にこそ、その本質が凝縮されているのだということである。古代オリンピックの起源がそうであったろう如く、誰が一番駆けっこが早いかを競う運動会なのだ。その単純明快さが、スポーツの原点なのだ。その意味で、これぞオリンピックと思ったのは、陸上の400メートルリレーだった。レース後のインタビュウで、末続選手が、これまで日本の幾多の陸上選手たちの努力の結実だと答えていたのは、走り終えた直後の言だけに、きれいごとではない、そのとおりのことを言ったと思う。あの銅メダルは、普通の金メダル数十個分にも相当するに違いない。それにしても、あのインタビュウはよかった。一番若い塚原が号泣しながら答えていたのも、ごく素直に聞くことが出来たし、解説者も言っていたように、みなそれぞれ、大人のメンバーでなければ聞かれない、味のある言葉を語っていた。

野球は、どう見てもオリンピックには向いていませんね。サッカーが中世から19世紀までの戦争を模した戦争ごっこなら、野球は集団と個を複雑に組み合わせた近代戦の戦争ごっこであり、そこによさも面白さもあるのだ。少なくとも、プロ野球にはオリンピックはなくていい。それより、WBCをもっともっと充実させ、将来文字通りの「世界選手権」になるようにした方が、よほど意味がある。そのためにも、もっと強くなきゃ。

随談第261回 オリンピック異聞

オリンピックが始まり、楽しみの半面、いらいらもまた始まった。選手の戦績にではない。アナウンサーや解説者の口吻から覗いて見える内輪ぼめであり、それが見る目を歪めかねないことにである。もちろん日本の選手やチームを応援するのは当然だ。しかし目が内側にばかり向いていると、贔屓がいつのまにか独善、夜郎自大にすりかわる。

例を野球の中継放送に取ろう。いわゆる星野ジャパンの、主として対韓国戦。日本の先発の和田もよかったが、韓国の先発の、まだ大学生だという若い投手もよかった。三回まではパーフェクトに押さえられ、むしろ和田の方が押され気味だった。日本が先取点をとる前に交代したが、あれは、その後もそうであったように、韓国の監督が早目早目に交代させる戦法をとったためで、日本がそれほど打ち込んだわけではない。だがアナウンサーは、ノックアウトと言った。あれはノックアウトだろうか?

日本が新井のツーランで二点を先取した直後、和田が先頭打者に四球を出し、ツーランを打たれて同点にされ、ようやく取った先取点をふいにした顛末については、監督自身が自分の責任だと言明し、多くの論者が批判をしたことだし、そういう話はいまはしない。しかしその後、韓国が小刻みに投手交代を始めると、アナウンサーは、韓国にもいろいろ投手をまかなう台所事情があるようですね、と穿ったことを言い始めた。そうだろうか?

アナ氏はいろいろデータを調べて、私などよりずっと裏事情に通じているのに違いない。だから、そういう事情通らしいことをちょっと言ってみたかったのかもしれない。しかしあの場合、そんなことより、一人一殺みたいに次々と新手を繰り出して日本の反撃を阻もうとする韓国の監督の気迫と機転に、私は感服した。事実、それが成功して、三点ビハインドを追いかける九回裏の日本の反撃を断ち切ったのではないか。一点取り返して、なおノーアウト、というところで、下手投げのスローボール投手を出してきたタイミングのよさで、日本の反撃の切っ先はてきめんに鈍ってしまったのではなかったか。

昔の軍歌の文句みたいになるが、いま目前の、この一戦、ではなかったのか? そういうセリフは、又かというぐらいに方々のテレビに出演して、当の星野監督自身が繰り返し力説していたはずのことではなかったか。そうして、韓国側はその通りに戦いを挑んできたのではなかったのか。

これで次に韓国と対戦するときのデータができました、などと言う声も聞こえていたが、また対戦できるようになれればいいですがね。よく水泳とか冬季大会のスケートのような競技で、解説者が、××選手いいですよ、日本記録を0秒1、上回っています、ソレソコダ、まだだいじょぶです、ア、ア、ア・・・ああ、残念でした、といった風な放送をしばしば耳にする。こんなのは、まだしも一種の愛嬌もあるが、自分たちの都合のいいように内側にばかり目を向けていることに変わりはない。野球の場合、シドニー大会のころに比べれば随分よくなったが、(開発途上のチームとの対戦のとき、この人たちはいずれ、パパは昔あの日本のチームと戦ったんだよと、子供に自慢話をしたりするんでしょうね、なんて得意そうに言っている解説者もいた。さすがにその手の独善は鳴りをひそめたようだが)それでも、わが仏尊しの夜郎自大はまだなくなってはいないような気がして、このままで日本野球は本当に大丈夫だろうかと、シンパイデタマラナイ。

随談第260回 観劇偶談(その121) 新派百二十年『紙屋治兵衛』

三越劇場の花形新派公演『紙屋治兵衛』がなかなかいい。新派百二十年の今年、一月の三越劇場『女将』、六月新橋演舞場の『婦系図』『鹿鳴館』と並べて、客観的な劇評とは別に、可能性という点からいうなら、見ていてこれが一番面白かった。

『女将』は、昭和28年という設定の「現代劇」であることが、かえって、いま上演することの難しさを感じさせた。私個人としては、当時の流行歌がふんだんに流れてくるなど、結構楽しんだが、それは現代の若い観客に通用することではない。当時の「アプレゲール」の男女が、いまから見れば何ともお行儀のよい、品行方正の青年にしか見えない。あれは、作者の北条秀司という「おとな」の目から見たあの頃の「新人類」であって、考えてみれば、女将役の水谷八重子こそ、まさに当時のアプレゲールの典型だったのだ。あの「水谷良重」が、いま二代目水谷八重子として「近過去」を演じることの難しさが、改めて思われもした。

『婦系図』は、現在の新派として能うる限りの「古典」として、あれが精一杯というべきで、むしろその点を評価すべきだろう。古いファンが、自分の思いの中にある昔の舞台と比べてああだこうだと言ったところで、帰らぬ夢でしかない。『鹿鳴館』は、團十郎が景山伯爵を演じることによって、新劇として書かれた『鹿鳴館』が「新派歌舞伎」として鑑賞される対象となった。新劇として見る限り、團十郎はミスキャストといわざるを得ないが、新派歌舞伎として見るなら、壮大なグランド歌舞伎として愉しいものであった。しかしそれは、新派としては、今回かぎりの一期の夢であることも免れない。

そこへいくと、今度の『紙屋治兵衛』は新しい可能性を感じさせる。治兵衛役は、愛之助という助っ人であっても、おさんの鴫原桂、小春の瀬戸摩純ともども、この路線はこれからの新派にとって開拓するに値する。作者は『女将』と同じ北条秀司で、小春のキャラクターなどあきらかに戦後のアプレゲールを意識して作られているが、昭和×年という限定のない時代劇であることが、かえって時代の制約から自由になる根拠となっている。現に、小春役の瀬戸摩純など、『女将』のアプレ娘のときより遥かに、役に共感をもって演じていることがあきらかにわかる。そうしてそういう観点から見れば、小春に限らずこの戯曲自体が、かつての錚々たる大物俳優たちによって演じられていたときよりも、今度の若い人たちによって、はじめて、その骨組みをくっきりとあらわしたとも言えるのだ。名優たちの芸によって蔽われていた作品そのものが、はじめて見えたと思った。

治兵衛は、これまで長谷川一夫と扇雀時代の坂田藤十郎の役だった。当然、身についた上方和事の芸を、いかに現代の感覚に生かすかというところが生命になる。愛之助にしてもそのことでは変わりはないが、「芸」を見せるという要素が大きく後退して、「戯曲」本位に役を生きることが前面に出てくる。一度歌舞伎座の本興行で、扇雀の治兵衛に雀右衛門のおさん、我童の小春という配役で歌舞伎としてやったことがあって、このときの我童など、その山猫芸者ぶりは三十年後のいまも目に鮮やかな面白さだったが、しかしこの戯曲の小春という意味からいうなら、今度の瀬戸摩純のアプレ芸者の方が、本当に違いない。

随談第259回 野球談義・3千本安打は本当に大ニュースなのか?(続)

前回は、3千本安打は本当に大ニュースなのかと表題に謳いながら、話がそこまで行かない内に終ってしまったので、その続きである。

テレビのスポーツニュースで、日本の野球の報道はあっさりなのに、メジャーリーグ情報なるものは、一打席一打席克明に報道するのはなぜか? 答えは幾つか考えられるが、もっとも平均的なのが、オラガ国サの代表選手だからみんなが注目しているであろう、という前提のもとに、そのニーズに応えようというものだろう。その背景には、メリケン・メジャーこそが本場であるという、暗黙の前提がある。支流よりも本流に泳ぐ魚こそが本当の魚であるというわけだが、その論理の道筋を辿ってゆくと、やがてある限界点を越えたところで、ナショナリズムから国際主義、さらにはグローバリズムへと反転する。ニッポン、チャチャチャと無邪気のはしゃいでいた人が、一転して国際派になる。思えば一四〇年前、攘夷主義者が開明派に豹変し鹿鳴館でダンスを踊り出したのと、よく似た構図であり、力学である。(そういえばかつて、フランス語を国語にしようという意見もあったっけ。それ式の意見の人って、いまでも必ずや、何パーセントかはいるに違いない。)

さて話を戻して、イチローの日米通算3千本安打である。もちろん、偉業である。しかしこれは、日米を通じての大ニュースなのだろうか? アメリカ側がこれをどういう風に受け止め、メディアがどういう風に報道しているか知らないが、おそらく、ひとつの話題という以上には出ないであろうことは、容易に想像がつく。(もし私がフツーのアメリカ市民だったら、きっとその程度にしか受け止めないだろう。)

アタリマエである。彼らは、メリケン野球という本流を泳ぐ魚としてのイチローは評価するが、日本野球などという支流を泳ぐ魚であったころのイチローには、興味はない。アメリカ野球の記録と日本野球の記録を合算することなど、考えもしないだろう。アメリカ人から見れば、イチローはまだ2千本も打っていないのだ。現にわれわれだって、イ・スンヨプの韓国野球でのホームラン記録を日本での通産本塁打数に合算しようなど、誰も考えないではないか。韓国でも凄い選手だったんだってさ、とは知っていても、もし合算して何百本という記録になったら、へーエ、というだけの話だろう。仮にそれが王貞治の記録を数字の上で抜いたとして、どう評価され、報道されるだろう?

ならばどう考えるべきなのか? 少なくとも確かなのは、メリケン野球だけが本流であり、本流に泳ぐ魚だけが本当の魚であるという、グローバリストが陥りがちな論理の錯覚から抜け出すことだろう。誤解のないために言っておくと、私は、日米通算3千本という数字には、意味があると思っている。しかしアメリカ人の無関心をよそに、3千本と無邪気に大騒ぎするのには乗り切れないものを覚える。イチローは、オラが村さのフンドシかつぎではない。なればこそ、ニッポン村の中だけで、メリケン・メジャーという鬼の首を取ったみたいに騒ぐのは空しくはないだろうか?

そこで思い浮かぶのが、ワールド・カップのときの、あのイチロー発言である。あの発言は、私の思うに決して単なるナショナリズムではない。アメリカの中にあって、日本野球とアメリカ野球の関係を、イチローなりに見切っていればこそ出た、いささか過激な言葉だったに違いない。

随談第258回 久しぶり野球談義・3千安打は本当に大ニュースなのか?

野茂が引退し、イチローが日米通算三千本安打というのを打った。日本人選手のメリケン・メジャー進出の歴史も、これでひとつの時代の区分を刻んだことになる。結局のところ、アメリカの野球に本当の意味で名前を刻んだ日本人選手といえば、掛値なしにいうならこの二人に止めをさすだろう。立て続け、といってもいいほどの間隔で、二つのニュースを聞いて強く思ったのは、このことだった。

すべては野茂に始まる。このことは、三年前にこのブログを書き始めた当初に野茂のことを書いたときに、野茂をジョン万次郎にたとえて言ったことがある。あるいは、ペリーの軍艦に小舟でこぎ寄せて乗り込もうとした吉田松陰か、とも。(野茂のあの何ともスバラシイ仏頂面からは、松蔭よりも万次郎の方がイメージとしてぴったりだが。)

日本野球とメリケン野球の関係というのは実に厄介な関係にあって、テレビのスポーツニュースでも、日本の野球のニュースはごく大雑把な試合経過しか報道しないのに、メジャーの日本人選手がヒット一本打っても大騒ぎで報道される、というパターンに象徴されている。昔から、江戸の大関より地元(くに)の三段目という言葉があって、モンゴルでも大相撲のニュースはやはり同じようなパターンだそうだから、それ自体はいずこも同じとも言えるが、しかし実は、この手のナショナリズムには、江戸の大関よりも地元出身のフンドシかつぎを応援する素朴な、自然人情的ナショナリズムから、国際派を自認する世界市民主義までが包含されている。その一方、ついこの間、江川卓氏が司会をする番組に楽天の野村監督が出演していて、金メダルってそんなに大事なものなんですか、とやっていたが、TBSで毎日曜にやっている「サンデー・モーニング」のスポーツコーナーで張本勲氏が、アメリカ野球なんてこんな程度ですよ、とくさすのが売り物になっていたり、一方にこうした憂国のナショナリズムも存在する。そのどれも、一理があるのだ。メジャーに行った多くが、地元のフンドシかつぎどころか、大関横綱三役クラスなのはいうまでもない。

しかし黒船が現実にやってきて、海外雄飛が可能であると知っ(てしまっ)た以上、誰かがそれを実行しようとするのを、誰もとがめることはできない。その最初の誰か、が野茂であったわけだ。イチローは、その意味では野茂の爪の垢を煎じて飲まなければならないが、しかしイチローは野茂とは別の意味で、日本選手がアメリカでプレイをすることの意味を考えた最初(で、もしかしたら唯一)の人間であるかもしれない。少なくともイチローは、他の日本人選手の誰とも違う目でアメリカの野球を見ているような気がする。メジャーに行った他の多くの日本人選手が、実力は大関クラスでも意識としては、花のお江戸で横綱の土俵入りをする姿を故郷の母親に見せることを夢見た無数の駒形茂兵衛たちの末裔であるとすれば、イチローは、アメリカ野球をより冷徹に、客観的に見切る目を備えている。ワールドカップのときに、イチローが、日本男児ここにあり風の発言をして、あの個人主義者のイチローが、と同僚の選手たちや王監督を驚かせたり喜ばせたりしたが、それもまた、じつは一種の誤解なのであって、日本とアメリカを複眼で見ているイチローにしてみれば、ごく当然のことを言ったまでなのである。