随談第273回 観劇偶談・今月の一押し

大分遅れ馳せどころか、証文の出し遅れめいてしまったが、恒例なれば欠かせもせず、今月の一押しである。

いまさらめくが、今月はまあやはり、新橋演舞場の『先代萩』から、菊之助の政岡と海老蔵の仁木のものだろう。これほど若い政岡を見たのはおそらく初めてだが、菊之助の面白いところは、若いのによくやっている、とか、若手大健闘、とかいった、こういうときによくやる決まり文句では、かゆいところに手が届かない、若いことそれ自体のというか、若いが故の、というか、良さを持つことである。つまり、大立者のやる政岡を規範として、若いのによく頑張った、という敢闘賞ではなく、それ自体が、大立者の政岡とは別の、それ自体の価値と、面白さを持っているということである。

菊之助を見ながら、実際の政岡もこのぐらい若かったのではあるまいか、とふと思った。実録趣味など平素持ち合わせないこの私が、である。まして菊之助は、若いといえども正当派流であって、すこしのケレン味もない四つ相撲である。実録の三沢初子はこのとき何歳だった、などという話は、この際一切関係ない。そういう話ではないのだ。要するにそれだけ、菊之助の政岡に実在感があったという一事に尽きる。

海老蔵の仁木は、「床下」も「問注所」も悪くないが、「刃傷」が一番面白かった、というところに海老蔵ならではのユニークさがある。貫禄よりも精悍さ、といってしまえばそれまでだが、腰を突いて必死に抵抗する渡辺下記に向かって、両の手で握った短刀を頭上に高く振りかざし両足を左右に大きく割って迫る、おさだまりのポーズだが、松緑白鸚以来いろいろ見てきた仁木のなかでも、海老蔵が断然格好いい。逆に言えば、ここが一番よかったという仁木を見るのは、海老蔵がはじめてだということにもなる。

それにしても、今度の『先代萩』ほど、総員が若い初役ぞろいというのも珍しい。しかもその誰もがよかった。門之助と吉弥の沖の井松島も、愛之助の八汐も右之助の栄御前も、みな揃っていた。そうだ、序幕「花水橋」の亀三郎の殿様もよかった。いままでの亀三郎にはなかった、オヤと思うような、ふっくらとした柔らか味があった。そういえば、この人、『吉野山』の藤太でも柔らか味があって、オヤと思わせた。夏に見た亀治郎の会での『俊寛』の成経でも、オヤと思わせた。固かった莟が、ようやくほころび始めたのか知らぬ。

以下、年齢芸歴の高下にかかわらず、私の気に入った役々を順不同で挙げる。

演舞場『伊勢音頭』の吉弥の万野。これは傑作である。この人、年増女の一癖ある役だとひと際精彩を放つ。面白い人である。『伊勢音頭』にもうひとり傑作があった。門之助の万次郎。のほほんとして実にいい。この人で『梅暦』の丹次郎を見てみたい。

歌舞伎座『盟三五大切』の仁左衛門の源五兵衛の幕切れ、首をややかしげた愁いの風情。

同じく歌舞伎座『舟弁慶』の芝翫の舟長の、波よ波よ波よ、シーッと逆櫓を切った櫓櫂の先をすーっと見やる目つきの素敵さ。まさしくそこに、逆巻く渦潮がありありと見えるかのようだった。この人やはり、こういうことをさせれば名人なのだ。

国立乱歩歌舞伎の鉄之助の妖しの老女。主演者中断然、乱歩の世界の空気を呼吸していた。

隋談第272回 相撲ばなし・野球ばなし

出だしがちがちになっていた安馬も、中頃からようやくほぐれてきて、白鵬との優勝決定戦はなかなかよかった。安馬自身の快心の相撲という意味では、本割の把瑠都を一気に押し出した一番の方がよかったが、決定戦の四つ相撲の攻防というものはなかなかのものだった。組み合い、引き付け合い、しのぎをけずり合って、組み手が変わったりまわしを引いたり切ったり、攻防を繰り返す事に、場内の歓声がオーッとうねるように鳴り響く。これが相撲の醍醐味である。

安馬は以前から注目していたが、体形といい風貌まで、かつての栃の海によく似ている。栃の海は横綱としては悲運の人となってしまったが、柏戸と大鵬が元気な盛りに割って入るように横綱になったときは、ちょうどいまの安馬のような鋭いつっこみから、前まわしを取って土俵を歩くようといわれた出足で、相当の強さを見せた。

安馬は白鵬より一歳年上だそうだが、栃の海も、大鵬よりたしか二歳ぐらい年上だった。自分より若い横綱が、しかも君臨する形でいるところへ、あとから追いかける形でのぼっていくというのは、おそらく他人が想像する以上に苦しいものだろうと想像する。しかも、当時の大鵬も、いまの白鵬も、まだ完成しきっていない、上り坂をのぼりつめようという力の盛りにいる点でも、共通する。うっかりすると、追走する側が進歩を見せても、それを上越す勢いで上っていってしまうということだってあり得るのだ。

白鵬が横綱になったとき、安馬に、同じ一門なので土俵入りの太刀持ちか露払いにという話があったとき、自分は大関になるのだからと言って断ったと聞いたが、ヘエと思った。インタビュウの様子などを見る限り、真面目でシャイな感じだが、それだけに思いの強さがわかろうというものだ。

しかし、ともあれ、久しく出なかった新しい勢力が出現したということは喜ぶべきことだ。伊勢ケ浜部屋では、照国か清国か、一門のかつての横綱大関の名前を安馬に継がせるという話があるようだが、いいことだ。もっとも超アンコ型だった照国はタイプが違い過ぎるから、清国の方が無難か。いずれにしても、土俵姿がきれいで相撲巧者という点で、伊勢ケ浜部屋の力士として似つかわしい。親方の旭富士にしても、兄弟子の安美錦にしても、伊勢ケ浜部屋ほど、部屋の風(ふう)が相撲振りにいまも続いている部屋はいまどき珍しい。照国以下、みな東北人なのも偶然ではないのだろうが、安馬のまじめで朴訥な、少し口の重い喋り方が、なんとなく東北人風なのもなかなかいい。

野球のニュースでは、WBCの選手選考に中日の選手が全員参加を辞退して、落合監督がWBCに対して冷静なコメントをしていたのは、落合らしくて面白い。みんながみんな、ニッポンチャチャチャの大コーラスに加わってしまわずに、冷静な目で見ている人間がいるというのは、この際、大切なことだ。原のような人間が逆立ちしても思っても見ないようなことを、落合が考えているというだけでも、日本のプロ野球の懐の深さが感じられて悪くない。原は原で決して悪いわけではないが、ああいういいヒトばかりになってしまったら、日本のプロ野球は三割方つまらなくなってしまいそうだ。

随談第271回 野球ばなし・これぞ野球

なかなか書く暇がなくて、三週間ぶりの随談である。その間に日本シリーズが終った。誰もがすでに言っているように、いいシリーズだった。いいゲームが多く、接戦で面白かったというだけでなく、まさしく、これぞ野球という面白さがあった。

まず、渡辺久信監督がいい。いかにも野球選手らしい顔をしている。「らしい顔」というのは、いい意味と良くない意味と両方あって、良くないほうは「××面(づら)」ということが多い。筑紫哲也もこの間に死んで、だれかが新聞人らしくない顔と言っていたが、数多い追悼のコメントの中でこの言に最も同感した。但しもっと正確にいえば、筑紫氏の場合は「らしい顔」と「らしくない顔」と両面もっていたと思う。新聞人という人種は、他の業界に比べても、いかにも「業界人顔」をした人が多いような気がする。いわゆる「ぶんや顔」である。「らしい顔」をしながら「ぶんや顔」にならなかったところに、筑紫氏の真骨頂があったのだと思う。

渡辺久信の場合は、いかにも「らしい顔」で、その「らしさ」が気持ちがいい。古田のことを前に書いたことがあるが、彼の場合は「らしくない顔」一点張りであるところに、「よさ」と「つまらなさ」が同居している。現役時代は「らしくない」が故のよさが際立っていたが、監督になってもその顔を引きずっていた。このまま終る人間ではないと思うから言うのだが、引退後、解説者などとして出てくる「らしくない」顔の古田は、正直、あまり見たくない。渡辺久信は、いま、「らしさ」によって輝いている。そこがいい。

第二に、これも既に言われているが、「勝利の方程式」などという紋切り型の決まり文句を言わず、岸と涌井をずばずば投入したり、最終戦では西口・石井・涌井と先発投手のリレーをしたりした投手起用の痛快さである。方程式というのは、統計学から数字の操作で割り出した確率であって、だから博打だろうと夫婦喧嘩だろうと、頻繁に行なわれるものにはすべて方程式というものは成立し得る。野球だって、長いシーズンを展望したりするときには役立つだろうが、いつなんどきでも後生大事に方程式を持ち出すのは馬鹿げている。大体、スポーツの勝負にそんなちまちましたものにこだわるのは、おもしろくない。むかしの三原監督やいまの野村監督が、時折、それ風のことを言ったりするのは、誰も気がついていない時に誰とも違う観点から見て気がついたことを、神秘めかした勿体をつけて言うだけのことであって、じつは、方程式でも何でもないのだ。大人の洒落である。だから、面白いのだ。

岸や涌井のおかげで、むかしの稲尾や杉浦のシリーズ四連投のことが久しぶりに話題になったが、選手生命も大事だが、百球投げたから交代、みたいなことばかりでは、貯金の残高を計算しながら野球をしているみたいで面白くない。以前、大関になる前の旭国が、何だかのことで途中休場し、命は保証しないという医師の忠告を振り切って再出場し、見事に星を残したことがあった。保証されなかった筈の命だが、旭国は別に死にもせず、大関にまでなり、いまも親方をやっている。たとえ投手生命は短かったとしても、あの四連投があればこそ、稲尾も杉浦も、その他の誰彼も、人の心に永く留まり、おそらく自身のその後の人生にも力を添えたに違いない。そういうことも、野球を見たり相撲を見たりすることの醍醐味の内なのだ。