随談第276回 加藤周一氏をめぐるちょっとした思い出

今年の訃報といえば、大物文人として隠れもない加藤周一も亡くなったが、この方については、あちらには全然覚えのないことで、私にとってはちょっとした思い出となることが、ふたつばかりある。

ひとつは、私がいまのような仕事をするきっかけとなった、『演劇界』の劇評募集に関わる話だ。利倉幸一さんが『演劇界』を仕切っていた当時、新しい書き手の発掘にも意を用いておられて、二年に一度、一般読者から劇評募集をやっていて、それに通ると執筆者として書かせてもらえるようになる、いわば登竜門だった。古くは利根川裕、有吉佐和子、志野葉太郎などと言う人たちも、そもそもはこの門を通って世に出たのである。(利根川・有吉氏のころは俳優論だったか。)ところで私の場合は、忘れもしない昭和52年6月の新橋演舞場夜の部の劇評を書けというのが、その時の課題だった。

実を言うと、私は前に二度、佳作入選をしていたので、「今度で決めたい」と思っていた。ついては、前二回と同じようなことをしたのでは、二度あったことが三度になってしまわないとも限らない。そこでふと閃いたのが、朝日新聞の夕刊に加藤周一氏が毎月連載していた「時評」欄で、ときどき、甲乙二人の人物に対談だか高等万歳だかをさせるという形式を取ることがある。相反する意見を二人に言わせて論点を際立たせる、ばかりか、一方的な見方に偏しない相対的で、客観的な視座を獲得することが可能になる。それに、とかく高飛車だったり独善的だったり、世を憂える志士風だったり、といったいわゆる劇評の文章の臭みからも自由になれる。こいつを拝借しようと思いついたのだった。今年から遡って31年前、その月の夜の部は、当時片岡孝夫の『実盛物語』が眼目だった。

で、まあ、めでたく当選したのだったが、後で聞くと、通常の劇評のスタイルではなく、対話形式だったのが、是非を問う議論になったらしい。ともあれ私のスタートは、批評スタイルの上では加藤氏に、私を触発する好舞台を見せてくれたという意味では孝夫すなわち当代仁左衛門氏に、負っているのである。

もうひとつの思い出は、つい三、四年まえのことだ。国立能楽堂のレクチャー室を借りて、大笹吉雄氏、神山彰氏に私と言うメンバーでシンポジウムをしたことがある。午後からの開始を前に昼食をしながら打合せをすませて、戻りかけると、向こうから早稲田大学の内山美樹子教授が、おそらく能を見に来られたのであろう、こちらへ歩いて来られるのとばったり出会った。これはこれはというので、挨拶をする。と、われわれと顔を合わせるために視線を上げた拍子に、足元がお留守になったかして、ほんの数センチという段差に躓いてぱったりと転んでしまわれた。

思いがけないことで、はっとする。とそこへ、タクシーが一台、すーっと横付けになって降り立ったのがなんと加藤周一氏という、まるで芝居のような本当の話である。運転手が気がつかずにバックでもしたら、大変なことになるところだったが、さすがの加藤氏も、呆然というか唖然というか、しばし無言で立ち尽くしていた。あれで、吉原田圃の河内山宗俊よろしく「星が飛んだか」とでも言ってくれれば、白昼の東京で黙阿弥ばりの名場面が成立するところだったが、残念ながらそうはならなかった。

随談第275回 野球本と相撲本

最近、野球と相撲と、車中の読書用に気まぐれに買った二冊の新刊本を読み終えた。一冊は高橋安幸『伝説のプロ野球選手に会いに行く』、もう一冊が蕪木和夫『土俵の英雄(ヒーロー)伝説』という。ここしばらく、自分の部屋にゆっくり坐って読書をする時間が皆無の状態が続いていたさなかでもあり、一冊読むのにあちらで10分、こちらで5分、拾い集めて3時間かそこら、まずは楽しんだ。

高橋氏の本は、往年の名選手たちに取材をし、その模様を再現しながら語ってゆくという体裁を取っている。自分の見解をひけらかさずに、まず当人に語らせるというスタンスがいい。かつて愛読した近藤唯之の野球ものなどは、何かというと、「私はそれを聞いて腰を抜かした」といった大仰なレトリックがひとつの芸にも愛嬌にもなっていて、なかなか読ませたが、(それにしても、ああしょっちゅう腰を抜かしていたら、晩年ひどい腰痛に苦しんだことであろう)あれに比べれば高橋氏のはよほどナイーヴである。

何よりいいのはその人選で、そこにおのずから、著者の見識が底光りしている。苅田久徳・千葉茂・金田正一・杉下茂・中西太・吉田義男・西本幸雄・小鶴誠・稲尾和久・関根潤三という顔ぶれは、押しも押されもせぬ面々でありつつも、マスコミに名の出る常連とは、一線を画している。小鶴などという人は、絶えて久しくその名を目に、耳にすることもなかった。事実、玄関に尋ねた著者たちを、当人がみずからドアを開けて請じ入れてくれたとある。やっぱり、取材を受けることも稀になっていたのだ。

苅田久徳が老妻とアパート暮らしで、杉下茂が豪邸に住んでいる、などというのも、何やら物を思わせる面白さがある。常連組にしても、金田正一が、「400勝凄いですね、と称える相手に、ああ、それは凄かったよなんて真剣に答える馬鹿がどこにいる?」と言うのもいい。そういうセリフを吐かせるだけでも、聞き手のレベルがわかる。

蕪木氏の相撲本の方は、それに比べるとやや平凡だが、それでも、「昭和平成の名勝負」と題して取組十五番を並べたその選択眼には、ちょっとしたものがある。鏡里・吉葉山とか東富士・千代の山などというのがあったり、一日を「戦わざるライバル」として時津山・北ノ洋・若羽黒・安念山の「立浪四天王」について語ったり、なかなかの見識を見せている。琴ケ浜・朝汐などという組み合わせを見ても、じつは名勝負物語というのは建前で、好取組になぞらえて関心のある力士たちについて薀蓄を傾けようというのが目的のようで、それがこの本を読むに値するものにしている。朝青龍を、初代若乃花に似ていると喝破しているのなど、おぬしやるなとエールを送りたくなる。最もお相撲さんらしい人として、リアルタイムで見ていない筈の昭和初期の玉錦を挙げているのも、理解の深さを窺わせる。

ただ惜しむらくは、間違いや事実誤認がちょいと多いのが気になる。たとえば栃錦が平幕で上位を目指していたころの出羽の海一門の幕内力士として、千代の山、出羽錦、鳴戸海まではいいが、大晃、成山、常錦、小城ノ花、栃光を挙げているのは、間違いというより、認識の不足と言わざるを得ない。これらの力士たちはみな、栃錦が大をなして後に登場してきた後輩たちである。といった不満はあるが、好著の少ない相撲本として、またせいぜい柏鵬時代どまりの記事がほとんどの相撲本として、読むに耐える一本である。

随談第274回 観劇偶談・今月の一押し 三津五郎の『娘道成寺』その他

正統にいけば、今月は三津五郎の『娘道成寺』である。坂東流に伝わる、随所に見慣れたのと違うところがあって、それ自体が目新しい。衣裳が赤に始まり、最後にまた赤に戻って終るというのは、始めあり終りありという感じで、本来かくあるべきではないかと思われる。(夏に見た「亀治郎の会」では全編赤で通した。)

終始、「娘」の肚で踊る。文字通り、「京鹿子娘道成寺」なのだ。そもそも、歌右衛門流の、恋の妄執、情念を踊りぬくという行き方は、それはそれでいいのだけれども、しかしこれはテーマ主義的な、つまり近代的な考え方だといえる。それよりも、娘心のさまざまを、局面局面に見せてゆく「組曲」の方が、むしろもっと本来的なあり方ではないかと、私はかねがね考えている。こういう行き方の『娘道成寺』は、梅幸を通じて現勘三郎ぐらいかと思っていたら、それともまた違う、三津五郎の『道成寺』が誕生したというわけだ。

ただ、勘三郎と違い、加役としてでも女形を勤めることがほとんどない三津五郎だ。清楚でボーイッシュな処女というのは、私などは嫌いではないが、もうちっと、なんどりとした色気が欲しいと思うのは、正直なところだ。まして、歌右衛門・玉三郎以来の、嫋々と女の情念をテンション高く踊りぬくのが「道成寺」だと思っている人にとっては、淡白で薄味で、ちと物足りないと感じられるかもしれない。それはそれで、もっともではあるが、しかし言っておきたいのは、そればかりが『娘道成寺』ではないということだ。クドキで手拭を使わないのも、この行き方ならばなるほどということになる。

坐った姿勢のまま、後見の助けもなしに反り身になるなど、苦しい姿勢を取ったりする。さすがの三津五郎が、この時ばかりは少し顔がこわばった。万一あのまま腰をついてしまったら、と見ているこちらもはらはらした。万一に備えて、後見を傍に控えさせておいた方が、見ているこちらは余計な心配をしなくてすむ。そういうことも、配慮の内に入れておくべきではないか?

このほかに、わたしの気に入ったものを、順不同に揚げることにしよう。

まず、『籠釣瓶』で染五郎の栄之丞がすばらしい。軽味があって、いかにも風に吹かれて生きている男らしい。染五郎の中にある、育ちのよさの中にちょっとばかり、不遜に通じる自負があるのが、このヒモ男の生き様に通じているところが面白い。栄之丞という役は、勘弥亡き後、梅玉が三十年かかってようやく近年、ものにしたが、ちょいと誰でもというわけにはいかない、人を選ぶ役だ。こういう役がこの若さでいいというのは、染五郎が二枚目として良い仁を持っている証明でもある。この月の染五郎は、俣野は役違いで空振り三振、もう少しいいかと思った『高杯』が期待を裏切る平凡さ、『義民伝』の将軍家綱は品のよさで無難という成績。すなわち一勝二敗一分け。栄之丞は折角の大金星で殊勲賞ものだが、負け越しで相撲なら三賞の対象にならない。

もうひとり、『遠山政談』の菊之助の祐天小僧が、いかにも若旦那崩れらしい優柔不断さがあるのがいい。歌舞伎の二枚目というのは、優柔不断を本質の中に秘めている。即ちこれは、菊之助が天性の二枚目役者であることを立証しているようなものだ。

もうひとり、やはり『遠山政談』の菊十郎の山番勝五郎。誰よりも、(ある意味では菊五郎以上に)黙阿弥流の世界の人物らしい。

随談第273回 観劇偶談・今月の一押し

大分遅れ馳せどころか、証文の出し遅れめいてしまったが、恒例なれば欠かせもせず、今月の一押しである。

いまさらめくが、今月はまあやはり、新橋演舞場の『先代萩』から、菊之助の政岡と海老蔵の仁木のものだろう。これほど若い政岡を見たのはおそらく初めてだが、菊之助の面白いところは、若いのによくやっている、とか、若手大健闘、とかいった、こういうときによくやる決まり文句では、かゆいところに手が届かない、若いことそれ自体のというか、若いが故の、というか、良さを持つことである。つまり、大立者のやる政岡を規範として、若いのによく頑張った、という敢闘賞ではなく、それ自体が、大立者の政岡とは別の、それ自体の価値と、面白さを持っているということである。

菊之助を見ながら、実際の政岡もこのぐらい若かったのではあるまいか、とふと思った。実録趣味など平素持ち合わせないこの私が、である。まして菊之助は、若いといえども正当派流であって、すこしのケレン味もない四つ相撲である。実録の三沢初子はこのとき何歳だった、などという話は、この際一切関係ない。そういう話ではないのだ。要するにそれだけ、菊之助の政岡に実在感があったという一事に尽きる。

海老蔵の仁木は、「床下」も「問注所」も悪くないが、「刃傷」が一番面白かった、というところに海老蔵ならではのユニークさがある。貫禄よりも精悍さ、といってしまえばそれまでだが、腰を突いて必死に抵抗する渡辺下記に向かって、両の手で握った短刀を頭上に高く振りかざし両足を左右に大きく割って迫る、おさだまりのポーズだが、松緑白鸚以来いろいろ見てきた仁木のなかでも、海老蔵が断然格好いい。逆に言えば、ここが一番よかったという仁木を見るのは、海老蔵がはじめてだということにもなる。

それにしても、今度の『先代萩』ほど、総員が若い初役ぞろいというのも珍しい。しかもその誰もがよかった。門之助と吉弥の沖の井松島も、愛之助の八汐も右之助の栄御前も、みな揃っていた。そうだ、序幕「花水橋」の亀三郎の殿様もよかった。いままでの亀三郎にはなかった、オヤと思うような、ふっくらとした柔らか味があった。そういえば、この人、『吉野山』の藤太でも柔らか味があって、オヤと思わせた。夏に見た亀治郎の会での『俊寛』の成経でも、オヤと思わせた。固かった莟が、ようやくほころび始めたのか知らぬ。

以下、年齢芸歴の高下にかかわらず、私の気に入った役々を順不同で挙げる。

演舞場『伊勢音頭』の吉弥の万野。これは傑作である。この人、年増女の一癖ある役だとひと際精彩を放つ。面白い人である。『伊勢音頭』にもうひとり傑作があった。門之助の万次郎。のほほんとして実にいい。この人で『梅暦』の丹次郎を見てみたい。

歌舞伎座『盟三五大切』の仁左衛門の源五兵衛の幕切れ、首をややかしげた愁いの風情。

同じく歌舞伎座『舟弁慶』の芝翫の舟長の、波よ波よ波よ、シーッと逆櫓を切った櫓櫂の先をすーっと見やる目つきの素敵さ。まさしくそこに、逆巻く渦潮がありありと見えるかのようだった。この人やはり、こういうことをさせれば名人なのだ。

国立乱歩歌舞伎の鉄之助の妖しの老女。主演者中断然、乱歩の世界の空気を呼吸していた。

隋談第272回 相撲ばなし・野球ばなし

出だしがちがちになっていた安馬も、中頃からようやくほぐれてきて、白鵬との優勝決定戦はなかなかよかった。安馬自身の快心の相撲という意味では、本割の把瑠都を一気に押し出した一番の方がよかったが、決定戦の四つ相撲の攻防というものはなかなかのものだった。組み合い、引き付け合い、しのぎをけずり合って、組み手が変わったりまわしを引いたり切ったり、攻防を繰り返す事に、場内の歓声がオーッとうねるように鳴り響く。これが相撲の醍醐味である。

安馬は以前から注目していたが、体形といい風貌まで、かつての栃の海によく似ている。栃の海は横綱としては悲運の人となってしまったが、柏戸と大鵬が元気な盛りに割って入るように横綱になったときは、ちょうどいまの安馬のような鋭いつっこみから、前まわしを取って土俵を歩くようといわれた出足で、相当の強さを見せた。

安馬は白鵬より一歳年上だそうだが、栃の海も、大鵬よりたしか二歳ぐらい年上だった。自分より若い横綱が、しかも君臨する形でいるところへ、あとから追いかける形でのぼっていくというのは、おそらく他人が想像する以上に苦しいものだろうと想像する。しかも、当時の大鵬も、いまの白鵬も、まだ完成しきっていない、上り坂をのぼりつめようという力の盛りにいる点でも、共通する。うっかりすると、追走する側が進歩を見せても、それを上越す勢いで上っていってしまうということだってあり得るのだ。

白鵬が横綱になったとき、安馬に、同じ一門なので土俵入りの太刀持ちか露払いにという話があったとき、自分は大関になるのだからと言って断ったと聞いたが、ヘエと思った。インタビュウの様子などを見る限り、真面目でシャイな感じだが、それだけに思いの強さがわかろうというものだ。

しかし、ともあれ、久しく出なかった新しい勢力が出現したということは喜ぶべきことだ。伊勢ケ浜部屋では、照国か清国か、一門のかつての横綱大関の名前を安馬に継がせるという話があるようだが、いいことだ。もっとも超アンコ型だった照国はタイプが違い過ぎるから、清国の方が無難か。いずれにしても、土俵姿がきれいで相撲巧者という点で、伊勢ケ浜部屋の力士として似つかわしい。親方の旭富士にしても、兄弟子の安美錦にしても、伊勢ケ浜部屋ほど、部屋の風(ふう)が相撲振りにいまも続いている部屋はいまどき珍しい。照国以下、みな東北人なのも偶然ではないのだろうが、安馬のまじめで朴訥な、少し口の重い喋り方が、なんとなく東北人風なのもなかなかいい。

野球のニュースでは、WBCの選手選考に中日の選手が全員参加を辞退して、落合監督がWBCに対して冷静なコメントをしていたのは、落合らしくて面白い。みんながみんな、ニッポンチャチャチャの大コーラスに加わってしまわずに、冷静な目で見ている人間がいるというのは、この際、大切なことだ。原のような人間が逆立ちしても思っても見ないようなことを、落合が考えているというだけでも、日本のプロ野球の懐の深さが感じられて悪くない。原は原で決して悪いわけではないが、ああいういいヒトばかりになってしまったら、日本のプロ野球は三割方つまらなくなってしまいそうだ。

随談第271回 野球ばなし・これぞ野球

なかなか書く暇がなくて、三週間ぶりの随談である。その間に日本シリーズが終った。誰もがすでに言っているように、いいシリーズだった。いいゲームが多く、接戦で面白かったというだけでなく、まさしく、これぞ野球という面白さがあった。

まず、渡辺久信監督がいい。いかにも野球選手らしい顔をしている。「らしい顔」というのは、いい意味と良くない意味と両方あって、良くないほうは「××面(づら)」ということが多い。筑紫哲也もこの間に死んで、だれかが新聞人らしくない顔と言っていたが、数多い追悼のコメントの中でこの言に最も同感した。但しもっと正確にいえば、筑紫氏の場合は「らしい顔」と「らしくない顔」と両面もっていたと思う。新聞人という人種は、他の業界に比べても、いかにも「業界人顔」をした人が多いような気がする。いわゆる「ぶんや顔」である。「らしい顔」をしながら「ぶんや顔」にならなかったところに、筑紫氏の真骨頂があったのだと思う。

渡辺久信の場合は、いかにも「らしい顔」で、その「らしさ」が気持ちがいい。古田のことを前に書いたことがあるが、彼の場合は「らしくない顔」一点張りであるところに、「よさ」と「つまらなさ」が同居している。現役時代は「らしくない」が故のよさが際立っていたが、監督になってもその顔を引きずっていた。このまま終る人間ではないと思うから言うのだが、引退後、解説者などとして出てくる「らしくない」顔の古田は、正直、あまり見たくない。渡辺久信は、いま、「らしさ」によって輝いている。そこがいい。

第二に、これも既に言われているが、「勝利の方程式」などという紋切り型の決まり文句を言わず、岸と涌井をずばずば投入したり、最終戦では西口・石井・涌井と先発投手のリレーをしたりした投手起用の痛快さである。方程式というのは、統計学から数字の操作で割り出した確率であって、だから博打だろうと夫婦喧嘩だろうと、頻繁に行なわれるものにはすべて方程式というものは成立し得る。野球だって、長いシーズンを展望したりするときには役立つだろうが、いつなんどきでも後生大事に方程式を持ち出すのは馬鹿げている。大体、スポーツの勝負にそんなちまちましたものにこだわるのは、おもしろくない。むかしの三原監督やいまの野村監督が、時折、それ風のことを言ったりするのは、誰も気がついていない時に誰とも違う観点から見て気がついたことを、神秘めかした勿体をつけて言うだけのことであって、じつは、方程式でも何でもないのだ。大人の洒落である。だから、面白いのだ。

岸や涌井のおかげで、むかしの稲尾や杉浦のシリーズ四連投のことが久しぶりに話題になったが、選手生命も大事だが、百球投げたから交代、みたいなことばかりでは、貯金の残高を計算しながら野球をしているみたいで面白くない。以前、大関になる前の旭国が、何だかのことで途中休場し、命は保証しないという医師の忠告を振り切って再出場し、見事に星を残したことがあった。保証されなかった筈の命だが、旭国は別に死にもせず、大関にまでなり、いまも親方をやっている。たとえ投手生命は短かったとしても、あの四連投があればこそ、稲尾も杉浦も、その他の誰彼も、人の心に永く留まり、おそらく自身のその後の人生にも力を添えたに違いない。そういうことも、野球を見たり相撲を見たりすることの醍醐味の内なのだ。

随談第270回 片岡孝夫の森蘭丸

毎週土曜日の朝は、チャンネル37の時代劇チャンネルで大川橋蔵の銭形平次を5回分ずつ放映するので、前夜の内にビデオ録画をセットしておく。BS放送や日本映画チャンネルなどで放映した古い映画を録画すると、1時間分程度テープに余りが出ることがよくある。それを利用して、一回分だけ録画しておいて、遅い朝食を取りながら眺めるのである。どういう内容のものが映っているかはそのとき次第で、面白いときもあればつまらないときもあるが、何、筋よりも橋蔵の役者振りを見るのが楽しみだからである。(ついでに舟木一夫の歌う主題歌を聴くのもオタノシミだ。)端正で軽みのある立ち居振る舞い、世話の味、紛れもない、若き日菊五郎劇団ではぐくんだ芸がそこにある。昭和40年代から50年代のものだが、当時、戦前からの歌舞伎の見巧者で、六代目菊五郎の芸を偲ぶには橋蔵の平次を見るのが何よりだというのを持論にしていた老人があったっけ。

さて、今朝も例によって平次を見終わってVTRをOFFにすると、思いがけないモノクロ画像が映っている。昭和四十年の大河ドラマ『太閤記』の、本能寺の変の回である。新聞のテレビ欄を確かめると、NHKアーカイヴズで先日亡くなった緒方拳の追悼含みでの放映らしい。だが実を言えば、『太閤記』はたしかに緒方を一挙に全国区級の有名人に押し上げた人気ドラマだが、本能寺の変のこの回は緒方の出番は少なく、もっぱら信長役の高橋幸治に焦点が当っている。当時高橋の信長はブームのさなかにあって、信長延命を訴える視聴者の要望で、何回分か本能寺まで話を引き伸ばしたという噂があったものだ。この回も、奇襲を受けた信長サイドの様子が、ちょっと珍しいぐらいに映し出される。さて、話はそこからである。長々と映し出される信長の身辺間近、森蘭丸がときに甲斐甲斐しく、ときに毅然として控えている。その蘭丸役が、若き日の片岡孝夫というわけだ。もちろん、当時もリアルタイムで見てはいたが、俄然、四十余年前の記憶が甦った。

当時、片岡孝夫という回文みたいな名前は、ようやく、東京にも聞こえ始めたばかりだった。私がはじめて孝夫を見たのは、その前年十月の東京オリンピックのさなか、東横ホールの花形歌舞伎が『仮名手本忠臣蔵』を通し上演したときで、先の権十郎が先輩格として大星をつとめ、あとは現菊五郎がまだ丑之助で判官、先の辰之助の左近が勘平、現左団次の男女蔵が師直、といった当時の東京方の花形連にまじって、秀太郎と孝夫兄弟が関西から参加していた。秀太郎は八段目の小浪だったが、孝夫の役は道行の伴内ひと役。これが、その頃の若手群像のなかでの孝夫の居場所だったわけだ。その後、やはり東横ホールで、水木京太の『殉死』という作で、いま思えば、仁左衛門がいま大星や熊谷などで見せる「ますらをぶり」の原形のようなものを発揮したり、『義賢最期』をやったりするようになるのだが、しかしこの当時の東京に、片岡孝夫を知っていた歌舞伎ファンははたしてどれほどいただろうか? NHKの中にも、当時部内に具眼の士がいたのに違いない。

ところで、この蘭丸は記憶していたより出番も多く、なかなか悪くないが、いまの目で見てなんとも興味深いのは、この中に仁左衛門の原形が紛れもなく見て取れることである。つまり、いまも言った仁左衛門の「ますらをぶり」である。

随談第269回 今月の舞台から・一押し尽し

今月は豊漁の月である。東京三座、各座に推奨ものの芝居がある、人がいる、演技がある。あまり多いから、吉右衛門、玉三郎、菊五郎、仁左衛門、勘三郎といったところは省く。

歌舞伎座からは、菊之助の勝頼である。近来の勝頼といっていい。お父さんの若いときよりもずっといい。菊之助は、海老蔵みたいに、良くも悪くも、ぎょっとさせるようなことを言ったりしたりしないから、話題になることも少なめで、割を食っているが、役者としての聡明さをもっている。(海老蔵だって、役者としての頭は悪くないが。)菊之助を襲名して売り出した前後、祖父梅幸の若き日はかくもやあらんと思ったことがあるが、そっくりさん的な意味ではともかく、その資質の最もすぐれたところは今もって梅幸ゆずりなのだということを、この勝頼は確信させてくれた。(梅幸といえば、今月は勘三郎が塩冶判官で、梅幸にまねび学んだ真骨頂を見せている。)勝頼という役は、何もせずにすっとしていて、ああいいなあ、と思わせるかどうかが勝負である。梅幸という人はそういう役が絶品だったが、菊之助の勝頼も、レベルはともかく、まさにそういう勝頼である。

国立の『大老』からは候補が多いが、まず梅玉の長野主膳と魁春のお静の方である。もっともこの二人は第一線クラスだが、平素割りを食っていることが多いように見受けるので、敢えてここに挙げることにする。どちらも余人では替えられない、すなわち平素控えに控えた個性が、いま時と所を得て燦然と輝いたような名演である。梅玉のクールさがこれほど生きた役もない。冷徹というのとは違う。最後に直弼から「そちも近江にいた方が仕合せであったのう」と言われて「はい」と答える、その一瞬に、この冷静無比な男にも人生のあったことを我々は知る。いろいろな長野主膳を見てきたが、こういう主膳を見たのははじめてである。魁春のお静も、まさに直弼の心に棲む可愛い女であって、こういう処女の泉のごとき永遠の女人像というのは、女優には表わすことのできない、歌舞伎の、それも近代歌舞伎の、女形の芸の生み出したものに違いない。

『大老』では他にも、仙英禅師の段四郎を見ていると、いまやこの人はまさしく「名優」の名に値する人と思うほかないし、歌六・歌昇兄弟の穏健派と過激派に分かれた兄弟の水戸藩士、歌六はさらに水戸老公を演じて初演の故延若を抜く好演である。

平成中村座では、さっきは省くと言ったものの、勘三郎の勘平の、型と様式と自然とが渾然となった境地はただならないものがある。凄い、と正直、思った。「六段目」が終わって外へ出るとき、ああ面白かった、と顔を火照らせて独りごちている少年を見かけたが、こういう反応を見ることは滅多にあるものではない。

仁左衛門の大星は予測の内とすれば、驚きという意味で、橋之助の五役、とりわけ師直を挙げておこう。一言で言うなら、時代物役者としての品格と骨格の大きさである。思えばかつての若き日、故松緑がこの人を指名して『千本桜』の知盛を国立でさせたことがあった。二枚目の道を進む人と思っていたのでびっくりしたものだが、もしかしたら松緑は、夙に橋之助の本質を見抜いていたのかも知れない。女形の大役四役、とりわけ「九段目」のお石で仁左衛門・勘三郎に拮抗した孝太郎の秘めたる実力も相当なものである。

随談第268回 野球談話ふたたび

王貞治氏が引退し、清原が現役引退をして、昭和の野球が終ったとか、昭和の野球の匂いのする最後の選手だったとか、しきりに言われているらしい。まあ、その通りだろうが、清原の場合は、そのことにやや人為的にこだわった気配があって、それを思うと少々痛々しい。番長だの何だのと必要以上に言われ、自分でもそれをことさらに意識したかのような言動を取るのを見聞きするのは、あまり楽しいことではなかった。

西武時代はすばらしい選手だった。折々テレビに映る当時のフィルムを見ても、いい人相をしている。どう考えても巨人に移ったのがよろしくなかった。もちろん不運もあるが、古フィルムを見ても覿面に人相が悪くなった。怪我続きは同情に値するとしても、焦りやらプライドやら自意識過剰やらで、自縄自縛になってもがく姿を見るのは無惨だった。巨人病の犠牲者というほかないが、自ら求めての結果なのだから、ここはあまり同情しにくいと言わざるを得ない。

かつての金田正一や張本にしても、私にとってはいまなお、国鉄の金田であり東映の張本であって、晩年の巨人時代はいらない、というのが正直な思いである。もっとも彼等の場合は、巨人に移ってからもレベルを落さず活躍できたから、まあよかったようなものだが。それにつけても、他のチームで輝かしい実績を残しながら、晩年に至って巨人入りして、見る見る輝きを失っていった選手がどれほどいることだろう? まあそれぞれ何らかの事情があって巨人入りするのだろうが、どうして巨人に入ってみすみす晩節を汚すのだろうと、正直、思わないではない。

しかし清原の場合、救いは、夏に今シーズン限りの引退を声明してから、憑物が落ちたようにいい顔になったことだ。年齢や、その間の苦労を顔に刻みながらも、かつてのよき人相が甦っていた、ということは、つまり、本来の自分を彼は失っていなかった、ということなのだろう。西武時代は楽しい思い出ばかり、最後に仰木監督にオリックスに誘ってもらわなかったら恨みを持って終ることになっていたろうという最後の言葉は、プラスマイナスを差し引きして、結局、この人は「聡明」というものを失わずにいたのだということを物語っている。それにしても、あのときの仰木のおとこ気というのは水際立っていた。番長などといわれてマッチョの臭みを芬々とさせていた清原より、仰木の侠気に素直に応じて感謝の念を忘れない清原の方が、はるかにすがすがしいし、且つ泣かせるに足る。

それにしても思うのは、自分がかくありたいと思う自分を達成することの難しさである。思うに清原は、かくありたいと思う自分に絶えずこだわらなくてはいられない生き方を選んだのだろう。しかしその、かくありたいと思う自分というものも、そのときどきの現実の自分次第で、いろいろに姿を変えも歪めもするのだ。二十余年の波乱に富んだ清原の野球人生は、そのことを私に思わせるだけのものを、最後に示してくれた。私はこれまで、清原という選手に格別な関心を持ったことはなかったが、最後になって、こういう文章を書く動機を与えてくれたわけだ。そもそも、清原のことでブログを書くなど、考えてもいなかった。一代男の最後は、たしかに悪くなかった。

随談第267回 野球あれこれ話

ON嫌いを気取るわけではない。しかしあまりにも多くのことが、このふたりについては語られすぎるので、そういう中で何かを言おうという気持になりにくい。しかし、感動をどうもありがとう式の言が軒並み続く王監督引退のニュースの中で、野球界に大きな記録を作った選手は大勢いるが、尊敬に値する人物はいないとイチローが言っていたのは面白かった。しかしこの場合も、面白さはイチローの方に比重がかかっている。いかにもイチローらしい、離見の見で野球を見、人を見ているおもしろさだ。

その大ニュースの陰で、岩本義行の訃を伝える小さな記事が載った。じつをいうと忘れかけていた名前である。96歳という年齢を知って、まだ生きてたんだ、と驚く思いが一挙に記憶を甦らせる。何故か実際のプレイよりも、神主打法と呼ばれた、バットを身体の中央に笏を持つように構える独特のフォームから、試合前のフリーバッティングで外野スタンドにぼんぼん放り込んでいた姿が、最も鮮明に甦ってきた記憶だった。守備でヘソ伝のポケットキャッチと並ぶ、すべてを正面で処理しようとする風変わりなフォームである。

一九五〇年に二リーグ制になって、それまでノンプロで活躍していた選手がどーッとプロ野球に入ってきた。岩本もそうだが六大学などで活躍したのは戦前だから、もうすでにかなりの歳だった。岩本、大岡、戸倉、西本、南村などという選手たちは、それから四〇歳すぎまでプレーをしたのではなかったかしらん。当時のノンプロ野球というのは、いまでは考えられない実力と層の厚さを持っていたから、こうした選手たちは、プロに入ってもそのままベテランの大選手として、チームの中心的な存在になったのだった。

そもそも二リーグになってチームの数が倍ぐらいに膨れ上がったのは、ノンプロが選手の供給源となって支えていたからで、その上層部分はプロと変わらないレベルにあったのだ。新聞も、プロ野球の記事がくわしいのは読売、高校野球は朝日、ノンプロは毎日と、それぞれ得意の版図を守っていた感がある。もちろん六大学野球も戦前以来の隆盛を続けていたから、人気がプロ野球と高校野球に二極分解してしまった今日より、その意味では幅が広かったともいえる。

折からニュースでは今年限りで閉鎖になる広島球場の話と、「そのとき歴史が動いた」なるテレビ版床屋政談みたいな番組で去年死んだ稲尾の話と、つい昔を振り返りたくなる映像を見る機会に恵まれた。ほんの一瞬だが、当時の広島の選手たちが横一列に並んでトス・バッティングをしている映像と、稲尾の頭上高く振りかぶる投球フォームが映ったが、どちらも、最近あまり見かけなくなった光景のような気がする。(高くふりかぶるのは松坂がやっていたが。)阪神の藤村など、トス・バッティングのとき、受けた球をグローブでひょいと隣りの選手に放ってみせたり、ファン・サービスにつとめて、それを見るのがファンの楽しみになっていた。イチローが背面キャッチをやって見せた時、藤村やスタルヒンのいかにもプロ選手らしい、ファンを喜ばせる姿が思い出されたものだ。スタルヒンといえば、ダルビッシュにスタルヒンの再来を期待しているのだが、何か(新庄みたいなお面をかぶったりするのもいいが)洒落っ気のあるファンサービスを考えてはどうだろう。