随談第213回 スポーツ偶談 朝青龍問題

朝青龍問題は一カ月の間に馬鹿げたことになってしまった。相撲協会が療養のためのモンゴル帰国を了承してから、実際に帰国の際の顛末を見ていると、いったん後手に回れば良手も悪手と変らなくなる見本みたいなものだ。帰国に同行しながら、わずか30数時間で戻ってきた親方は、あれで全責任がとれるのだろうか。

このブログの8月6日付け随談第207回にも書いたが、相撲協会は、モンゴル側に向かって、朝青龍を罰した理由を改めて明確に伝える必要がある。当初、モンゴル大使館から、サッカーをしたのは当方の依頼によるものであるという事情説明があったぐらいなのだから、それに応える意味からも、大使館をつうじて、処分の理由をモンゴル国民にきちんと伝えてくれるよう申し入れるべきである。

テレビのニュースでモンゴル市民の反応というのを見ていたら、日本では力士がサッカーをやってはいけないのか、オカシイヨと叫んでいる女性が映っていた。笑いごとではない。こういう誤解が、国際問題となると馬鹿にならないのだ。朝青龍がモンゴルに帰ってなぜいけないのだと主張する声が多いのも、その陰にどれだけ正確な認識があっての上の意見なのか、危ういかなという感じがする。

協会は、帰国を了承したという発表を、今回も処分決定の時と同様、伊勢ノ海理事にまかせている。普段ならそれでいいが、これだけ事態が、国際問題にまで発展しかねないほどの規模になった以上、理事長が特別な場を設けて、協会の考えを内外に向けて説明するべきだ。協会はまだ内側しか見ようとしていない。

それにしても、朝青龍は、事態をどれだけ正確に認識しているのだろう? どうしてこんなことになってしまったのか、と呟いていたという当初あった報道が、心情を推察する唯一の手がかりだが、そもそも、親が子供を叱るのでも、教師や上司が学生や部下に注意をするのでも、当の本人が何故叱られたのか理解しなければ何の意味もないように、朝青龍は、何故自分が処分を受けねばならなかったのか、理解しているのだろうか? いや、協会や親方は、そこをどれだけきちんと伝えたのだろうか?

報道で知るかぎりの朝青龍の様子から連想するのは、何故だ、と叫んで解任されたかつての三越社長と、小菅から出所後、酒浸りになっていたという田中首相の姿である。俺にも落度はあったかもしれないが、誰よりも抜群の貢献をしてきたのだから多少のことは許されていい筈だ、という思いが彼等にああした行為と態度を取らせたことはたしかだろう。

先月末にモンゴルから帰国したときが鍵だったのだ。あそこで朝青龍にまず謝罪させ、それを受けて協会が譴責した上で、巡業に参加させ土俵入りだけでもつとめさせればよかったのだ。そうリード出来なかったのが、事のすべてである。かつての夏の巡業は、東北北海道を二ヶ月もかかって回り、ファンサービスだけでなく、夏稼業と称してそこでどれだけ実のある稽古をするかが、向こう1年間の成果を決めると言われたものだ。横綱たちも、体調が悪い場合でも巡業にはなるべく参加し、せめて土俵入りぐらいはつとめたもので、協会は営業本位すぎると批判されたぐらいではなかったか?

随談第212回 観劇偶談(その102) 今月の一押し 勘太郎と猿弥、それに新蔵

今月は何といっても、歌舞伎座第三部の『裏表先代萩』で政岡・仁木・小助の三役をたっぷり演じる勘三郎と、倉橋弥十郎と細川勝元という世話と時代の捌き役二役をあざやかに演じ分ける三津五郎と、この二人五役が見ものであるのは言うに及ばない。

まず政岡は、充分に糸に乗って見せるクドキが凄い。乗りすぎという評もあり得るかもしれない。たしかに、そのために母親としての母性がかえって薄くなる幣もないとはいえない。しかし加役の女形にかえって女形芸の古格が残っているという観点からすると、これほどおもしろい政岡に、21世紀のいま出会えるとは、奇蹟のようなものだ。

女形が本位の人は、どうしても、時代時代の求める女形像に敏感にならざるを得ず、それは意識・無意識を問わず、その時代時代の現実の女性像の影を引いている。よく昔の女形に比べ、女性化あるいは女優化が進んでいるということが言われるが、それはある意味では自然なことであって、加役の女形にかえって古典的な女形の芸の感覚が色濃く残ることになる。勘三郎は、時代の先端を行く行動ばかりがとかくニュースになるが、同時に、いま最も古風な芸味を残している役者でもあることを見落としてはいけない。それは、この政岡などにもっとも色濃く現われるのだ。

仁木も面白い。予期以上に大きさもあるのは、知盛などをつとめるうちに身についたものだろうが、何より見ものは「床下」の引込みである。あれは術を使って宙を往くのだといわれながら、普通、柄で見せる大立者の仁木であるほど、国崩しの風格や貫禄で押し切って、技巧を見せようとしない。それならばと本当に宙乗りでやって見せたのが猿之助だが、勘三郎は、歩く芸としてそれをやって見せるのだ。小助がいいのははじめから想像がつくが、年配が近くなったせいもあって、ちょいとした表情やアクの付け方など、先代が生き返ったみたいな瞬間がいくつもあった。この芝居がこれほど面白いことを、じつは私はこんど知ったようなものだ。それはまた、ひとりで主要な三役を奮迅の勢いで兼ねたことから生まれる活気であり、リズムの所産でもある。亡父は仁木と小助に八汐と頼兼の四役だったが、政岡で三役の方がドラマの焦点が明確になり、坐りがいい。

三津五郎の、同じような場面、同じような役で、世話と時代を仕分ける鮮やかさも、他の追随を許さない見事なものだ。名調子ももちろんだが、それだけなら他にもいないではない。三津五郎の三津五郎たる真骨頂は、場面場面の寸法と骨法を的確に把握し、ドンピシャの間合いでそれを決めてみせる感覚のよさである。

というわけで、三津・勘ご両人を一押しにと思ったのだが、待てしばし、なるべくなら若手や影にいる人を、と考え直して、別な候補を思いついた。『磯異人館』で主役岡野精之介役の勘太郎と、五代才助役の猿弥である。勘太郎は、ナイーヴな清潔感と、気が回りながらある種の不器用な生き方をする主人公への共感と、ふたつながらで二十年前の父にまさる好演だった。また猿弥は、後の五代友厚という大人物たる風貌を見せながら、類型的な脚本の中から、篤実で頼み甲斐ある人物像を精彩あるものとして舞台に躍動させていた。前回書いた新蔵の弁慶も併せ、今月はこの三人ということにしよう。

随談第211回 観劇偶談(その101) 稚魚の会・歌舞伎会合同公演

今年は『寺子屋』『乗合船』をA・B両班、『須磨の写絵』『勧進帳』をC班というプログラム。いわゆる御社日に見たのだが、C班のときは又五郎が九十翁とは思えぬ元気な姿を客席に見せていた。監修・指導として来ていた團十郎も、遠目ながら顔の色艶もよく元気そうだったのは何よりである。

そのB班で新蔵が弁慶をつとめる『勧進帳』が注目を集めている気配。たしかに、なかなかの弁慶ぶりであった。何より、一貫した緊張感と安定感とテンポをコントロールよろしく持続し、最後まで崩れることなくゆとりをもって演じ切っているのが大したものだ。

マウンド捌きよろしく9回を完投した投手のよう。伏兵という意味で、今月の一押し候補に入れてもおかしくない。

必ずしも仁がいいわけではない。だから荒事味は薄く、あくまで実事本位の、大人の弁慶である。管理能力に長けた、実力ある頼もしい部長さんのような感じ。呼び止めで、花道へ行きかかった四天王がスワヤと駆け戻ろうとするのを、花道付け根で留める時、まず先頭の常陸坊を止め(これは誰でも同じ)、次に大きく身体を横に後方を覗き込むようにして、うしろの二人(亀井と片岡?)に向かって押しとどめる仕草をする。あまり見かけないやり方のような気がするが、この辺が気配りよろしき部長さん風のイメージになる。

その一方で、なかなか芝居ッ気のある弁慶でもある。心を許して番卒相手に酒を酌むところろか、角々のキマリに見せる様子が、充分に意識的で、面白い半面、ちょいと品格をそこねる嫌いもなしとしないから、そこらを突いて批判も出ると想像される。しかしかつての小芝居の座頭などにはこの手の手だれも多かったのではあるまいかなどと、想像を働かせる楽しみもあって、私は必ずしも嫌ではない。同じ部長さんでも、三井三菱などではなく、実績充分な中企業の部長さんという感じ。それにつけても、新蔵という人、ふしぎな役者ではある。

A班の『寺子屋』でも、歌女之丞に徳松というベテランが千代と戸浪をつとめる。歌女之丞は「音の会」でも『九段目』の戸無瀬をつとめたばかりだ。この人たちの実力というものは大変なものである。『須磨の写絵』で松風をつとめた京妙にしてもだが、つまりもう、歌舞伎界もこういう人たちなしには存立し得ない時代になっているのだ。

B班は、A班に比べると両女形に限らず若手が多いので、比較をすれば当然差異は目につくが、しかしそんなことより、みなしっかりしているということの方がはるかに強く印象に残る。B班の松王丸の錦次など、幼さはもちろんある中にも、16期生だというのが信じがたい、素直でのびやかないい芝居をしている。

『乗合船』もなかなか面白かった。万歳・才蔵はA班が翔次・音之助、B班が画蝶三郎・獅一、曲のエスプリをつかんでいるのに感心する。そのほか全体を通じて、いちいち名前を挙げきれないが、まさり劣りはあっても、とんでもないような人はひとりも見当たらない。終日見て、大変ですねと会う人ごとに言われるが、なに、すこしも大変ではなかった。つまり、それだけ気持ちよく見たのである。

随談第210回 観劇偶談(その100)桂歌丸を聴く

毎年夏の楽しみに、国立演芸場八月中席恒例の歌丸の円朝怪談シリーズを聴くことにしている。われわれの耳に馴染んだ語り口で、われわれの知る、ある種類の日本語の醍醐味に堪能しようと思えば、いまではもう、歌丸を聴くしかないからである。

なにも歌丸しか落語家がいないと言っているのではない。歌丸を稀代の名人というのでもない。しかしもうしばらく前だったら、円生とか八代目正蔵とか、先の金原亭馬生とかいった人たちが、それぞれの語り口で円朝の怪談を語るのを、われわれはごくなんでもないことのように聴いていたのだ。

そこでわれわれは、いや私は、なにを聞いていたのだろう? 円生や正蔵の芸だろうか? 円朝の怪談の面白さだろうか? あるいは夏の風情を楽しんでいたのだろうか?

もちろん、そのどれもである。しかし、そう言っただけでは、何か一番本質になるものを説明できていないのを感じる。そう考えつめて、その挙句に思うのは、あのころ私は、円生や正蔵や馬生の語り口を通じて、わたしが最も魅力的と感じる、日本語そのものを聞く楽しみに耽っていたのだということなのだ。

世に、朗読というものがある。「源氏物語」や「平家物語」からはじまって、現代の、文学に限らずさまざまなものが、朗読という形で音声として聞くことが出来る。まだテレビというものが出現する前に物ごころがついた世代である私は、一面からいえば、ラジオというもので人となったようなものだから、そこには「朗読」という形式が日常的にあったので、ごく自然にそれを聞いて育った。だから文章を書く上でも、意識的にも無意識にも、音読するリズムというものを抜きにしては書くことがないし、また出来ない。また、音読に堪えることを考えていない文章を読むのは苦痛で仕方がない。だから、基本的には、朗読というものを、わたしは嫌いではない筈なのだ。

だが実を言うと、いま世に市販され、流布されている「朗読」というものが、わたしはちょっと苦手である。新劇の俳優などが主な語り手になっている「あれ」である。なにか物々しく、わざとらしく、背中がむずがゆくなる。むしろNHKのアナウンサーのような無味無臭の読み方をしてくれた方が、余計な狂雑物が少ないだけまだいい。思うに、新劇俳優の朗読は、脚本を読むように心入れをし過ぎるからに違いない。

大分回り道をした。さてそこで歌丸の円朝である。今年は『怪談乳房榎』、通常なら三回程度に分けて語るところを、敢えて一回で読みきってしまうつもりと、歌丸自身、枕で振っておいて話に入る。3回程度、というのも、当然、円生のレコードに残したものが念頭にあって言うことだろう。円生では磯貝浪江がお関を口説くところが眼目なのを、歌丸は敢えて避けて、下男の正助を脅して重信殺しを手伝わせるところに力を入れた。一見、損なやり方のようだが、考え抜いた末の懸命な選択であったろう。

前にも書いたが、落語とは結局のところ、演者の語り口を聞くことにある、というのが今の私の実感である。少なくともここに、私にとっての快い語り口があるのは間違いない。

随談第209回 観劇偶談(その99)三越劇場『婦系図』

三越劇場の新派公演がどうやら定着しそうな感じになってきた。なにはともあれ、そのことを喜びたい。パンフレットの表紙裏には、来年一月の「新派120年記念公演」の広告が載っている。たとえ年に何回かであれ、定打ちの場が出来ることの意味は計り知れない。

おととしから始まった、風間杜夫を迎えて波乃久里子が取り組む八月の公演が三年目の今年、『婦系図』を出すのは、いわば切り札を出したようなものだろう。つまりこれは、ひとつの賭けである。

風間杜夫としても、一昨年の『風流深川唄』、去年の『鶴八鶴次郎』は、いわば瀬踏みだった。同じ新派古典といっても、これは昭和の作品である。芸の上で、新派が歌舞伎に準ずるような形でひとつの「古典」としての様式を確立する過程で成立したもので、そこには新派の芸のエッセンスが詰まっている、という意味での「古典」である。しかし『婦系図』となると、そうは行かない。『金色夜叉』とか『不如帰』はもう純粋な意味で現役レパートリーからはずれてしまったし、『競艶録』などはさらにそうだとすれば、『婦系図』こそが、現在の新派にとって、現役のレパートリーの中にぎりぎり踏み留まっている古典であり、新派が新派としての存在意義を現在の演劇界に主張し得る、最後の砦ともいえる。

「古典」として確立している演出も、「湯島境内」なら「三千歳」、「めの惣」なら「勧進帳」が一種のよそ事浄瑠璃のように使われているように、一種の「型物」としての半面を持っている。そうでありながら、パンフレットに波乃久里子も先代八重子の教えとして語っているように、様式があって様式にはまらない、リアルな芝居でなければならないところに、新派の芸の機微があるわけだが、そうした意味からも、この中には、現在の新派が辛うじて持ち伝えている新派の一切があるのだと言っていい。

風間杜夫にとっては、今回の『婦系図』は、ともかくも初挑戦としての意義を考えればいいのだと思う。他の配役を見ても、酒井俊蔵の柳田豊にせよ、小芳の紅貴代にせよ、そのほか誰彼なく、全員が初挑戦といっていい。昨今随分といい味を見せるようになっている柳田や紅にして、この初挑戦にはかなりの悪戦苦闘の様子が見て取れる。まして、妙子の瀬戸摩純とか河野菅子の石原舞子らにしてみれば、その役らしく見えるというだけでも、大変なことに違いない。これには、彼ら演技者としての努力や精進だけに帰するわけにはいかない問題がからんでいる。要するに、新派がかつてのように常打ちの劇場を持って、歌舞伎が『勧進帳』や『寺子屋』をやるように、『婦系図』や『滝の白糸』をやれるという状況でなくなってしまってから久しいという事情が、背景にある。

その意味からも、三越劇場の公演こそ、最後の砦であると同時に、新たな反転攻勢のための橋頭堡としなければならない。できれば、この三越をいわゆる新派古典の道場とし、一方、新しい現代作品に取り組む場を獲得したい。歌舞伎だってそうであるように、新派も、その両面が必要なのだ。今年は戦後62年だが、これは明治の45年と大正の15年を足したよりも長い年月である。昭和初年の人が明治維新を振り返るのと、いまわれわれが終戦を振り返るのとが、同じスパンなのだと考えることは。新派という演劇ジャンルにとっても、何かを暗示していないだろうか。

随談第208回 観劇偶談(その98)明治座と新橋演舞場

今月は明治座の『妻をめとらば』が面白い。マキノノゾミの元の作は青年座に書き下ろした『MOTHER~君わらひたまふことなかれ』というれっきとした「新劇」である。それが、ところも明治座、藤山直美の芝居に化けてしまうのだから、なんとも懐の深い作だといわざるを得ない。もちろん、鈴木哲也の脚本もあるが。

「晶子と鉄幹」と副題にあるように、直美が与謝野晶子、香川照之が鉄幹という夫婦になって、ここに出てくるだけでも6人だか7人だかの子沢山(実際はもっといた)、そこへ、管野須賀子、北原白秋、石川啄木、平塚雷鳥、平野万里、佐藤春夫といったひとびとが、あるいは隣人あるいは門下生などとして登場し、時代を切り取って見せる。ときは明治42年から44年にかけて。その間に大逆事件が起こり、白秋の姦通事件があり、雷鳥の青鞜創刊があり、啄木の貧窮と死があり、特高刑事が晶子の身辺に出没する。鉄幹はすでに詩嚢が枯れ、文人としてはただの人へと変貌を余儀なくされ、割烹着を着ておむつの洗濯をし、買い物籠をさげて買い物をする。時代の風景を描くという意味では、いわば『坊ちゃんの季節』と同じだが、それが見事に明治座という劇場の寸法に合った芝居になっているところがおもしろい。明治座としても、今後こういう路線を積極的に考えていい。

直美は例によって、与謝野晶子だろうが何だろうが、藤山直美の芝居にしてしまい、ときに鼻白らませもしながら、しかし結局は納得させてしまう。藤山直美と与謝野晶子など、ミスマッチもいいところのはずが、やはりこれでいいのだと思わせてしまう。この辺が親譲りの芝居哲学の賜物、これこそまさに反・新劇である。香川照之も、とくに巧いというわけでもないが、この芝居の鉄幹としてうまくはまっている。そのほかでは松金よね子の啄木の母が達者なのは当然として、岡本健一の啄木がいい。終幕がうまく決まったのは彼の好演によるところ大である。(岡本は先月新国立で見たオニールの『氷屋来たる』でもなかなか敢闘していたっけ。)

新橋演舞場は恒例の舟木一夫公演だが、今年は『銭形平次』である。身体にダンディズムと軽味があり、尻端折りに股引という目明し姿が似合う柄と仁のよさが得点になるが、俗に言う「決めゼリフ」(じつはこの言葉、便利ではあるが抵抗があって、使うのはいまがはじめてである)になればなるほど訛りが強くなるのが気になる。「舟木一夫のお芝居」で安住するなら別だが、そうでないなら、ぜひとも一考、一工夫ありたい。(昔の長谷川一夫も、関西なまりで江戸っ子の平次をやっていたが、「長谷川ぶり」として認めていいだけの味のあるセリフ術を確立していた。)

その長谷川一夫の遺児である長谷川稀世と、大川橋蔵の遺児の丹羽貞仁がヒロイン役と三輪の万七の子分の清吉役で活躍し、幕切れに長谷川と橋蔵の平次の写真パネルが二人のところへ降りてくるのは、舟木の大先輩への敬意の表現としての心ゆかせである。

というわけで、芝居の方は中ぐらいだが、第二部のシアターコンサートに感動があった。格別いつもと違うことをするわけではないのだが、それだけ、舟木の歌う曲そのものと、舟木の歌いぶりが、ひとつの時代を抱え込んだ「歴史」を感じさせるようになった、ということであろう。

随談第207回 相撲偶談(2)朝青龍談義

相撲の話は一回だけのつもりだったが、予期せぬ事態が起こって、もう一回書く気になった。こんどの一件についての朝青龍を弁護するつもりはない。しかし朝青龍に惚れて、一度薄れかけた相撲への興味を回復した人間として、またそのことを折に触れこの欄で書いてきた者として、やはりいま、何も言わないというわけにはいかない。

わたしが朝青龍に惚れた理由は、その土俵から発散する荒ぶるものの気迫であり、オーラである。新横綱のころ、たまたま、本当に久しぶりに土俵間近で見る機会にめぐまれて、目にした朝青龍は文字通り抜群に美しかった。むかしの若乃花を彷彿させた。わたしは昔の栃若では栃錦の方がひいきだったが、しかし若乃花もすばらしかった。栃が江戸の相撲なら、若は田舎の怪力が力士になったような、原初的な魅力があった。それを、朝青龍は思い出させた。

今場所中日、NHKの放送にゲスト出演した奥田瑛二が、朝青龍の仁王立ちのすばらしさということを言っているのを聞いて、いつも尤もらしい顔ばかりしているのが気に食わなかった彼を一気に見直す気になった。まさしく、名言である。とかく批判もある懸賞金を受け取る時の所作についても、奥田説に同意見である。荒ぶるものが漲った挙句のあれは、「朝青龍ぶり」と認めて然るべきである。明治の角聖常陸山は、あるとき大一番に勝って意気揚々と土俵を一周したことがあるそうだ。ほかならぬ「角聖」常陸山が、である。

もちろん、相撲が礼にはじまり礼に終わることは大切に守らねばならない。今後相撲が国際的になるとしたら、なおのことである。しかし、私がいまの相撲に物足りないものを覚えるのは、あまりにも力士たちがいい子になって、野趣が乏しくなりすぎたことである。野趣のないところに、本当の粋はない。お相撲さんのどこ見て惚れた、稽古帰りの乱れ髪、という昔の俗謡のうたった、あの野趣の中の粋こそが、男も惚れ、女も惚れる、相撲の美学なのだ。朝青龍は、おとなしやかに貧血症状になりかけていた相撲に野趣を注入し甦らせたカンフル剤だった。

とはいえ、今度の騒動のいきさつを見る限り、朝青龍を弁護できる要素はひとつもない。しかし相撲協会の対処の仕方をみていると、抜かっていることが少なくとも二つあると思う。ひとつは、朝青龍が処分を受けなければならない理由を、はっきりと明示することである。ファンの期待に応える、などと口当たりのいい、しかし曖昧なことを言わないで、地方巡業というのは本場所につぐ協会の重要な業務であり力士にとっては任務なのだということを、もっと明確に指摘した上で処分の量刑を示すべきだった。精神不安定とかいう処分後の朝青龍の報道を見ると、当人が事態をどれだけ認識していたのか、心もとない。本来なら、朝青龍の方から、処分より先に詫びをするべきだったのだ。

第二は、それをモンゴル側にもはっきり説明することである。モンゴルでサッカーをしたことがいけないのではない。本来ならあれはほほえましいグッドニュースであった筈のことだ。いけないのは、巡業という大事な任務をおろそかにしたことであることを、大使館や報道関係を通じて「広報」する必要がある。相撲を国際化するなら、そういう配慮も必要な筈だ。

随談第206回 観劇偶談(97)追悼・梅村豊氏、併せて、歌舞伎の舞台写真のこと

まことに迂闊なことだが、梅村豊さんの亡くなったのを知ったのは、演劇協会の会報の訃報欄でだった。今年6月5日のことという。83歳との由、ほぼ昭和の年数と同じ世代の、本来の意味での「戦後派」、終戦の日を、二十歳になるやならずで迎えた世代である。

梅村さんの名前も業績も、知ったのは『演劇界』を通じてであり、また『演劇界』を離れることもなかった。わたしが『演劇界』という雑誌の存在を知ったとき、すでにそのグラビアを飾っていたのは梅村さんの撮影した写真だった。まだカラーの時代ではなく、モノクロフィルムの陰影が、舞台の陰影を豊かな情感とエスプリによって捉えていた。といって、決していわゆる芸術写真ではない。写真が画像として自立するのではなく、あくまでも舞台を舞台として写し出している。写真としてどんなにすぐれていても、芝居としての舞台を伝えてくれるものでなければ、『演劇界』のような雑誌の読者は満足できない。梅村さんの写真は、舞台を彷彿とさせ、客席にいたとき気がつかなかったような舞台の瞬間や役者の表情を、捉えていた。

昭和30年代、映画界にワイドスクリーンが導入され話題になっていたころ、『演劇界』では、グラビアの1ページを折り込みにして、繰り広げるとワイド画面になるのということをやっていた。歌舞伎座のあの横長の舞台がうまく生きる。吉右衛門劇団健在のころの白鸚の幸四郎・先代勘三郎・歌右衛門顔合わせによる『五大力恋緘』のワイド写真など、芝居の臨場感を捕らえた舞台写真の傑作として世に知られるべきである。

だからといって、梅村さんは決して、単に舞台再現をもってよしとするのでもなかった。『風姿花影』など、『演劇界』のために撮り続けた写真の中から選りすぐったものを、演劇出版社で何冊かの写真集にしているが、そのあたりに、当時の利倉幸一編集長の梅村さんへの心遣いと男気が感じられる。本を出すのに合わせて個展を開かれるのを常としていたが、『演劇界』に文章を書くようになってから、個展を見に伺うととても喜んでくれた。まだ若い玉三郎の梅川の写真でいいのがあったので、そういうと、わが意を得たという面持ちで、梅村さん独自の玉三郎観を語ってくれたのが、とりわけ印象に残っている。

『新世紀の歌舞伎俳優たち』を三月書房から出すとき、梅村さんの写真を使わせていただこうと思って、三月書房の吉川志都子さんとお目にかかったのが、あるいは最後であったかもしれない。せっかくのチャンスだったのだが、若手花形が中心の本だったので、その時分すでに、やや第一線から引いた観もあった梅村さんにとっては必ずしも適任の仕事というわけにはいかず、話は実現しなかった。やむを得ないことではあったが、それきりになったのが心残りになってしまった。

『演劇界』で去年一年間、目次の次のページに「ゆめのつばさ」という題で梅村さんの作品が載った。都会人でダンディな梅村さんらしいのエスプリが利いていて、毎号、オアシスに行き逢ったような思いで、しばし目と心をなごませたが、それも立ち消えになってしまった。

さきに逝った吉田千秋氏といい、梅村さんといい、戦後の歌舞伎を撮り続けた写真家は、これでいなくなったことになる。