随談第231回 年の終わりに 『演劇界』同窓会のこと

話題にしたマスコミが果たしてあったかどうか? 今年は『演劇界』の前身である『演芸画報』の創刊から100周年に当る。『演芸画報』は明治40年、1907年1月が創刊、雑誌統合による終刊が昭和18年(1943)10月号だから、百年の内『演芸画報』が37年、百年の6割以上は『演劇界』の時代であったことになる。その百年目に、『演劇界』がこれまでの形では終わりになり、リニューアルという名目で新体制のもとに新出発することになったのは、天の配剤か、それとも、ここで終ったが百年目という神の冗談か? 少なくとも、戦後歌舞伎の語り部であり続けてきた『演劇界』が、一旦にせよここで終ったということは、ひとつの時代の終わりを思わないわけにはいかない。

旧の『演劇界』にとっては最終号に当たる今年の5月号で、「わたしの歌舞伎讃歌」という特集を組んでざっと六十人ほどが寄稿した中に私も入れてもらったが、案ずるにこの心は「わたしの演劇界讃歌」ということだろうと読んだから、『演劇界』は私にとっての学校であり教科書であって、歌舞伎についていっぱしのことが言えるようになったのはすべて、エライ学者・評論家の文章から雑報・投稿欄に至るまで、『演劇界』をむさぼり読んだお陰であるということを書いた。嘘でも衒いでもなく、これはその通りなのであって、少なくとも私よりもう少し上から、少し若い世代ぐらいまでの人なら、大なり小なり、共感してもらえるだろうと思う。もしかすると今の若い世代には理解の外かもしれないが、部数は小なりといえども、『演劇界』とはそういう雑誌だったのである。

そういう思いもあったので、旧『演劇界』の最後の編集長で、リニューアルと同時に身を引いた秋山勝彦さんにごくろうさまを言う会を、この歳末、山の上ホテルを会場に催すことにした。年若の友人の代表として声をかけた児玉竜一氏が即座に賛同してくれ、更に『演劇界』の小宮暁子・若井敬子・川島千芽留さんたちが協力を申し出てくれて、裏方が以上五人、出席者八十名たらずの大ならざる集まりだが、お義理の出席者はひとりもなしの、心のこもった会にすることができた。つまり私の狙いは、秋山氏をねぎらうと同時に、各世代こぞっての『演劇界』同窓会にしたかったのである。それはまさしく、そのとおりになった。発起人代表の役を快諾してくださった河竹登志夫氏を最長老として、つまり上は八十歳代からほぼ半世紀にわたる各世代の、何らかの形で『演劇界』に関わって来た人たちばかりの同窓会である。松竹の安孫子正・東宝の臼杵吉春・国立劇場の織田紘二といった方々も快く列席して下さったし、橋本治さんが、自分は他校へ転校してしまった人間だがと口では言いながら、最後まで居残り、『演劇界』こそ氏にとっての文筆家としての故郷であることを、身をもって語ってくれたのも嬉しいことだった。

秋山さんは最後の編集長としていわば千住大橋を渡ったわけだが、実は私が秋山氏を心から偉とするようになったのは、リニューアルが決まってから後のことだった。かつて『演芸画報』から『演劇界』へのバトンタッチは一号の空白もなく行なわれたが、今回は、危うく三ヵ月の空白が生じる恐れがあった。秋山氏はほとんど身を挺するような献身的な尽力でその間『演劇界月報』を刊行し、四月から六月までの空白を辛うじて防いだのである。

随談第230回 観劇偶談(その111) 杉村歌舞伎と玉三郎歌舞伎

歌舞伎座今月の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を見ていて、ある感慨に襲われた。それはまず見事な(と言って然るべきであろう)玉三郎歌舞伎である。すでに杉村春子の面影は、玉三郎がその芸を「盗んだ」、たとえばその口調や声音(むしろ「音遣い」と呼ぶべきか!)に偲ばれるだけで、舞台自体は、もし何の予備知識もない人がいきなり今度の舞台を見たなら、こういう歌舞伎の作品もあるのだと、なんの疑いもなく思い込んだに違いない。『妹背山』の「吉野川」で定高の「太宰の家が立ちませぬ」というところとか『忠臣蔵六段目』の勘平が「ずんと些細な内緒ごと。お構いなくともいざまずあれへ」というところは三代目菊五郎の「声色」を使うのが型になっている、といった「芸談」と同じように、あそこのところは杉村先生の声色でやるのよ、などと玉三郎が言ったとしても少しも不思議ではない。つまり『ふるあめりかに袖はぬらさじ』における杉村春子は、「吉野川」や「六段目」における三代目菊五郎と同じく、その演技の「風(ふう)」が「杉村屋の型」として伝えられる存在となったのである。

勘三郎が岩亀楼の亭主でお弁当をたっぷりつける大御馳走で観客を喜ばせ、引付座敷で福助のマリア以下御曹司連の扮する唐人口の遊女が過剰なばかりにサービスにこれつとめるのは、『助六』でいえば白酒売りの登場から本筋が大きくワープし、股くぐりの通人だの国侍だのが続々登場する饗宴ぶりによく似ている。まったく、妙な奴らでござりましたなあ。『助六』が、わけても白酒売りや股くぐりの国侍や通人が活躍するくだりこそが、歌舞伎以外の演劇にありうべからざるものであるという意味で、あれこそ歌舞伎ならではの歌舞伎の華ともいうべく、その伝でいうなら、第二幕「岩亀楼引付座敷扇の間」の場こそ、歌舞伎狂言『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を歌舞伎たらしめている場ということになる。

『助六』もしかし、満江が登場し引け過ぎごろの宴果てての寂びしみの中を十郎を連れて帰るあたりから、深々とした風情が漂いだすように、『ふるあめりか』も藤吉が去り亀遊の死がある。その後のお園の虚実皮膜の間を往来する独り舞台は玉三郎オン・パレードであり、これあってこその玉三郎歌舞伎なわけだが、終幕、三津五郎・勘太郎以下の思誠塾の面々に引見されての愁嘆は、打て叩け、いくらも打てよ髭の意休、と助六が愁いの肚で言うセリフに似ていないこともない。大曲輪、大一座で大童の長丁場の大芝居でありながら、結局は助六ひとりでさらってしまうように、『ふるあめりか』もまた、大曲輪大一座、大童の長丁場でありながら、最後は玉三郎の独り舞台で終る。女形冥利に尽きるにちがいない。どんなに活躍しても最後に幕を切るのは立役に持っていかれてしまう歌舞伎古典の狂言と違い、これこそは女形玉三郎の独擅場で幕を切る。

そういえば、つい十月に出した『怪談牡丹灯篭』も、元は大西信行が杉村春子にお峰をさせるために書いた「新劇」だったのを、玉三郎がわがものとしたのである。思えば『女の一生』にはじまり『華々しき一族』だろうと『三人姉妹』だろうと、杉村がやれば新劇にあっても「杉村歌舞伎」たり得たわけだが、そういう見地から見れば、杉村歌舞伎がつぎつぎと玉三郎歌舞伎に塗り替えられていくのも、なかなかの見ものといえる。

随談第229回 観劇偶談(その110)今月の歌舞伎から&今月の一押し

歌舞伎座を見て、勘太郎が『紅葉鬼揃』の山神で目覚しい働き、『寺子屋』でも戸浪をしっかりやっているので、これを一押しとしよう。前者は踊りの骨法が体の中に入っているのがよく分かる快演だし、後者も、義太夫時代物については若手花形勢総崩れの情勢の中で、ほとんど勘太郎ひとり踏ん張っている形だ。間よし、呼吸よし、×十年後の歌舞伎はもっぱら勘太郎の肩にかかっている、なんてことになっているかも知れない。それにしても、今月の海老蔵の源蔵、染五郎の清水一角や大高源吾のセリフの手前勘的な癖やひ弱さはちと耳に不協和音を感じさせる。すでに一介の若手とはランクの違う存在となったいま、もう若いからではすまない時期に来ている。みっちり義太夫の稽古をするしかないのでは。

勘太郎とは別の意味で、今月面白いと思ったのは、国立劇場の「忠臣蔵」シリーズで『清水一角』の牧山丈左衛門と『松浦の太鼓』で其角をやっている歌六である。とりわけ其角がいい。じつは今度の歌六の其角を見て、なるほどこの役はこういう役なのだ、ということが得心出来た。この役は、宝井其角という歴史上の人物である大宗匠であり、十三代目仁左衛門とか近くは又五郎とか、生きながら神に入ったような風格の老名優がつとめることが多いので、ついそういう目で見てしまうが、しかしお縫をかばい松浦侯に翻意を訴える様子を見てもセリフを聞いても、殿様の御馬前に鉢巻をし尻端折りをしている姿を見ても、この芝居この脚本による限り、この其角はそれほどの人物ではない。歌六に感心したのは、そこらのことを的確に読み切ってつとめている点だ。

つまりこの芝居の其角という役は、歌六がそうしているように、松浦侯をある意味で煽る役なのだ。其角と松浦侯とが芝居っ気たっぷりに入れ込んでやり合う面白さ、それがあって、俳諧をひねったりする高踏趣味も、鼻につく嫌味となるか、稚気愛すべき愛嬌となるかの分れ道となる。そのあたりのバランスが、こんどの吉右衛門と歌六のやりとりはじつに巧く取れている。松浦侯は、『仮名手本』でいえば石堂や若狭助を実録で行った穴であり、社会の要路にある人へ大衆が託した夢の、あれも反映なのだ。嫌味と取るのは、インテリが見たくない自分の顔を鏡にかけて見せられるような気がするからで、つまりは知識人の独り相撲である。

牧山丈左衛門の方も、不徳要領ともいえる人物をそれなりに存在感をもって見せてしまうところに、歌六代々の役者の血を感じさせる。今にして思えば、もっともふさわしい人が歌六の名を継いだのだということになる。扮装から来る連想だが、歌六に由井正雪をさせてみたくなる。

今月の海老蔵は、源蔵は先に言った如く、『紅葉鬼揃』の維茂は花道の出などじつに綺麗だが、さしたり為所もなく、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の攘夷浪人も同様、いい当たりのファウルを打ったりもしているが結局はノーヒットに終ったというところか。染五郎もまずその口。強いて取り得をあげるなら、『松浦の太鼓』の序幕、「両国橋」の清潔感。代わって、普段あまり名前が挙がる機会に恵まれない門之助が、『降るアメリカ』の終幕、三津五郎と並ぶ思誠塾の頭分の役でなかなか立派だったのが、オヤと目を瞠らせた。

随談第228回 観劇偶談(その109) 朗読新派&文楽

たぶん話題にする人もあまりいないだろうと思われる二つのことを書く。どちらも、今月のささやかな発見である。

水谷八重子がプレゼンターになっての「朗読新派」の公演というのを見てきた。八重子が毎年12月に『大つごもり』を朗読会を開いているのは知っていたが、掛け違って今まで見られずにいた。今年で五年目だという。場所はなんと麻布区民センターという、つまり地域住民のための区営の施設。六本木の駅から歩いて五、六分という足弁のよさとはいえ、二日間の公演で客席は両脇・後方に空席がある。それもどうやら、関係者やその家族に方らしい人が、かなりの部分を占めているようだ。PRがまだ行き渡らないのか、それとも、関心のある者かくまでいないのか? しかし少なくとも今回の公演を見る限り、内容はなかなか充実している。新派の本公演が少なくなっているいま、その渇を癒すものとさえ、言ってもいい。

やり方は試行錯誤を積み上げているらしいから、はじめから今回と同じではなかったらしい。今回のは、舞台に世話屋台を簡略化・抽象化した装置を作り、木戸、井戸、二重など、最低限度必要な道具が飾られている。この上で、久保田万太郎脚色の、つまり新派古典としておなじみの脚本で、芝居と朗読で構成した舞台が展開する。配役はみねが瀬戸摩純、石之助がなんと安井昌二の特別出演、それに柳田豊だの田口守だの矢野淳子だの、現在の新派の第一線のわき役たちが出ている。つまり真っ当も真っ当の新派なのだ。それへ、舞台の袖上手で、八重子が一葉の原文を、舞台下手に女子アナウンサーの内田まどかが島田雅彦の現代語訳を朗読する。この構成も、悪くない。

瀬戸摩純は、もっている風情といい芸質といい、新派のオーソドックスな女優芸を受け継ぐ候補として以前から注目していたが、その期待を裏切らないだけのものを見せていた。この公演の主役として懸命につとめているのが、そのまま役に通じているのも一得である。

それにしても、新派の脇役たちのもっている芸といい、自ずから醸し出す風情といい、これだけの人たちの集団というものが、いまの演劇界にいかに貴重か、認識している者がどのぐらいいるのだろう? 今月の新橋演舞場の『冬のひまわり』でも、松竹新喜劇と新派の面々が脇を固めているが、おそらくいま、プロフェッショナルとして最も確かな腕を持っているのは、この人たちではないだろうか?

文楽は師走公演で例によって偉い人たちはお休みだが、そのなかで『野崎村』の切を語った竹本文字久大夫が、オヤという出来だった。要するに浄瑠璃は、人物が的確に語り分けられ、情景が間合いよく語られれば、聞く方は気持ちよく聴くことが出来る。『野崎村』のような浄瑠璃だと、それが端的にわかる。

文字久大夫という人は、私は不明にしてこれまであまり明確な印象を持ったことがなかった。顔すら、いつも見ていながら、はっきりとは認識していなかった。だが今回語った浄瑠璃は今月中でのよき物だった。拾い物、といってはむしろ失礼だろうが、私にとっては、予期せぬ収穫であった。

随談第227回 50年代列伝(13) 昭和29年という分水嶺

稲尾の死を伝えるテレビのニュースで往年の映像が流されたのに思わず見入った。ピッチングフォームのダイナミックにして流麗なこと。いざ投球に入るときに、膝だか足首だかわからないがバネのように全身がグッと浮かび上がるようになる。それでいて流れるようだ。この、ヒョイと伸び上がるのは金田正一もそうだった。中西太をはじめいろいろな関係者が画面に登場して稲尾の思い出を語ったが、中に川上がまだ元気な顔で口調も衰えを見せずに登場したのにはウームと唸った。この人だけ、世代が違うのだ。思えば戦前派は、もうこの人だけになってしまったのかも知れない。(ついでにいうと、川上と同年の生まれに雀右衛門、森光子、原節子という顔ぶれが並ぶのだそうだ。)

矢野誠一さんが最近『オール読物』に大下のことを書いた文章を読むと、野球に関する私の最古の記憶に触れる名前が続々出てくる。野球の話というと王・長嶋以降の話をする人はわんさといるが、一リーグ時代の話が出来る人というのはじつに貴重である。二リーグになっても、まだしばらくは、選手も観客も球場も、気風も雰囲気もそれまでのものを引きずっていたような気がする。やはり長嶋以前と長嶋以後、で時代が変ったのだ、という私の持論からすると、大下のような存在は、福沢諭吉ではないが一身にして二世を生きた人ということになる。そうして稲尾はというと、世代からいえば長嶋世代なのだが、雰囲気としてはむしろその前の世代と重なり合っていた人、という気がする。

折から出た『談志絶倒・昭和落語家伝』という本が噂に違わず面白いが、昭和29年という時点で切り取っているのが、実に効いている。まさに、二リーグにはなったがまだかのN氏は登場せず、一リーグ時代からの空気が続いていた時代と重なり合う。田島謹之助氏の、これまた昭和29年で切り取った高座の写真が素敵にいいが、みな若いこと。円生などいやらしいぐらいに色気があるし、小さんも気味が悪いほど若いし、馬生がある種のプリンス的な風情を備えていたことに、いま改めて見ると改めて驚く。しばし見入った。

その中で談志が、柳好のことを書くのに大下を引き合いに出している。誰のどの噺が一番か、と絞っていったら柳好の『野ざらし』になるというのだ。川上だ藤村だと強打者を指折り数えていって結局残るのは大下だ、という論法に拠ってのことだが、しかし柳好と大下という取り合わせは談志でなくては思いつかないし、言えないだろう。そうしてその大下は、やはり西鉄ではなく、セネタースの紺のユニフォーム姿でないとピントがフォーカスしない。(同じように、張本や金田も、元巨人でなく、元東映であり元国鉄でなければならない。少なくとも、その方が彼らははるかにかっこいい。選手のイメージというものは、見る側からは、活躍したチームのイメージと固く結びついて記憶に残るものなのだ。だからこの頃の選手が、FAなどといってチームを変えるのはちと考え物だと思う。)

中日が日本シリーズに勝って53年ぶりというニュースがしきりに流れた中で、そのときのメンバーというのが出たが、服部受弘がライトになっていたのでアアと思った。私の中では、服部は髭の剃りあとが青々とした投手なのである。新聞のOBの談話記事の中に杉山悟の名前があったのも、こういう人のインタビュウを取った記者のヒットである。

随談第226回 観劇偶談(その108) 新国立劇場、三つのギリシャ劇

新国立劇場が開場10周年記念のフェスティバル公演として、『クリュタイメストラ』『アンドロマケ』『アンティゴネ』の三つのギリシャ劇を、現代のドラマとして書替えるという試みをした。狙いは結構、興味も津々、期待もなかなかだったが、結果はというと、まあ1勝2敗がいいところ。その1勝といえども、まず合格点だったというまでで、成功とまで言えるかどうか・・・という結果であった。原因は、いつにかかって脚本の貧困にある。

ドラマの状況を現代の日本にするといっても、原典のストーリイを忠実に守るのではなく、人物設定とモチーフを押さえるだけで自在に書き換えるというのが、三作を通じての方針のようだ。これはいい。昔の歌舞伎では書替え狂言というのはお手の物、どころか、むしろそれが常道であったので、そこから「世界」というものが成立していた。『仮名手本忠臣蔵』は「太平記の世界」であり、『助六』は「曽我狂言」の一演目であり、この伝統は映画のシナリオライターやテレビの脚本家のDNAにも染み込んでいて、「水戸黄門の世界」や「新撰組の世界」その他その他が成立し、無数の書替狂言ならぬ書替ドラマが次々と作られては放映されている。「NHK大河ドラマにおける世界の成立」などという研究論文を書く演劇科の大学院生が出てきたっておかしくない。「新劇」作者にだって、日本人である以上当然、そのDNAは体内に宿っていないわけはないので、だからこの企画は、それを思いついたご当人の考えた以上にさまざまな意味も意義もある、じつにインタレスチングな企画だったのである。

「クリュタイメストラ」の『アルゴス坂の白い家』はアガメムノンが映画監督、クリュタイメストラがその妻で大スターの女優、アイギストスがカメラマンという設定。こういうのは実にいい。なんなら役名も、アガメムノン、などと原典のままほっぽり出さないで、映画監督赤目能平実はアガメムノン、などとして、引き抜きやぶっかえりがあったりすれば、もっとダイナミックに、現代日本と古代ギリシャを往還する芝居が出来たかもしれない。などというのはもちろん冗談だが、エレクトラの待ち焦がれたオレステスが、性同一性症者で女性になって帰ってくる、などという程度でアッと言わせたつもりだとしたら、まだまだ、小せえ小せえと五右衛門に言われても仕方がない。その証拠に、ラストのアルゴス坂の家で、ちんまりと家族傷を嘗めあう日本的ホームドラマになってしまった。それなぐらいら、「サザエさん」や「ちびまるこチャン」や「クレオンしんちゃん」の方がずっと時代や社会を反映していることになる。

二作目の「アンドロマケ」『たとえば野に咲く花のように』は素直に見ることが出来た。時を朝鮮戦争勃発の年、場を狭い海ひとつへだてた九州F県のある町、と明確に定め、作も演出もてらいもはったりもなく芝居を作っているからだ。新劇はやはりナチュラルな芝居作りに長けてもいれば慣れてもいるのだ。これも新劇人という人種の体内に流れるDNAのなせる業であるのかも知れない。アンドロマケこと安田真貴役の七瀬なつみなど、なかなかの好演だった。三作目の「アンティゴネ」『異人の唄』は周回遅れの第三位の成績だった。設定があいまいで、一番最近に見たのに、一番記憶にうすい。現代といいながら設定を曖昧にしたのがいけなかったのだろう。

随談第225回 今月の歌舞伎から:坂田藤十郎と勘三郎

このところブログを書く暇がなかなかできない。先月も書けなかった。証文の出し遅れにならない内に、二ヶ月分のお噂をまとめて伺っておこう。

今月ではなんといっても坂田藤十郎の玉手御前がぴか一である。今月の、というより、坂田藤十郎生涯の総決算というべきだろう。私にはこれが初見参だった。音に聞きながら、これが東京での初の上演なのだ。思えば藤十郎も、随分と長い遠回りをしてきたものである。武智鉄二の光と影の、その影に蔽われていた中から、ようやく光の中に歩み出てきたのだ。

何がいいといって、『摂州合邦辻』という戯曲にある玉手を目の当たりに演じ出してくれたことである。玉手が俊徳丸の姉のような若い母であり、それゆえの愛であることを得心させてくれた。元より藤十郎はすでに70有余翁だが、それでも、戯曲の通りの若い母であった。歌右衛門も梅幸も、立女形としての立派な玉手だったが、理屈で批評家が何と言いくるめようと、若い母の恋ではあれはなかった。もちろん、それはそれでいい。(私は実は、大年増の玉手御前も好きだ。歌舞伎の『合邦』として、それもまた、ありだと思う。)

しかし藤十郎の見せてくれた玉手は、新たな目を開いてくれた。立女形が屹立し、合邦夫婦が泣き沈み、若い俊徳丸と浅香姫がふるえ慄くのではなく、合邦もおとくも俊徳丸も浅香姫も入平も、それそれが自己を主張し、ときに抵抗する。玉手は主人公ではあるが、歌舞伎のコンヴェンションが作り上げたスターシステムのピラミッドの頂点には立っていない。それはほとんど、目から鱗が落ちるような新鮮さだった。これは、義太夫狂言というものの核心に関わる問題である。かつての武智鉄二のしようとしたことが、歌舞伎への革命であったことが、よくわかる。一面からいえば、嫌われたのももっともだともいえる。

先月は、三座で『俊寛』が競演だった。他の二座がどうのというのではなく、勘三郎の俊寛が私には面白かった。この俊寛も、若い。若いがしかし、その人格、人間性を以って皆を統率している。そして気丈である。父の先代勘三郎の俊寛は、センチメンタルな俊寛だった。その代わり、あんなに泣かせてくれる俊寛もなかった。瀬尾が船から降り立つ。成経と康頼が駆け寄る。と、絶妙の間で、俊寛もこれにござる、と言いつつ進み出る、もうそれだけで、不吉な予感が舞台から客席へ広がる。(筋など、みんな疾うに知っているにも関わらず。)瀬尾が赦免状を読み上げる。俊寛ひとりの名前がない。成経も康頼も、観客もみなハッとする。と、また絶妙の間で、俊寛が進み出る・・・。そう、父勘三郎の俊寛は、あの間の絶妙さひとつにかかっていた。あの二つの絶妙な間で、喜界ケ島の場全曲をわがものとしてしまったのだ。

倅勘三郎のはそれとは違う。彼は、艫綱を追いかけてすがりつくような未練がましいことを拒否した。父もそれを試みたことがあったが、失敗だった。だって、泣かせてくれることが、父勘三郎の俊寛なのだから。倅勘三郎はもっと雄雄しい。絶壁によじのぼって、邪魔臭い松の枝を自らへし折る。それほどまでにして、やがて船影が見えなくなったとき、ほっと、かすかな微笑のようなものが頬に浮かぶ。あんな顔を勘三郎がするとは思わなかった。今まで見たどの俊寛にも、見たことのない微笑だった。

随談第224回 今月の一押し 鷹之資の太刀持音若、我当・吉弥の合邦夫婦

今月は『土蜘』における鷹之資の太刀持音若である。父の富十郎が頼光で、その太刀持ちの音若の役で、まるで縦横とも相似形のように、顔ばかりでなく姿形まで文字通り瓜二つで登場すると、誰だって頬がゆるんでくる。

だがこの音若という役は、幼い子役がつとめる役としては、重要な役目がある。蜘蛛の精が化けた僧の影が灯影に映るのを見て、「ノウノウわが君、ご油断あるな。灯影に映る僧の姿、いといと怪しく存じ候」と頼光へ呼びかけるセリフが、静から動へと局面を転回させる重要なポイントになっているからだ。この声を、声変わりした太い声で言ったのでは面白くない。声変わり前の甲高い声で、しかも凛然と言い放たなければ、効果は半減する。

鷹之資は、これを見事に凛然と言ってのけた。声よし、間もよかった。姿形だけでなく、声の質も父と同じ声音だった。

大人組では国立劇場の『合邦』における我当と上村吉弥の合邦夫婦がなかなかいい。吉弥は、先月も『牡丹灯篭』のお国で推したばかりだが、芝雀に筆を費やしてしまい、吉弥については詳しく書くスペースがなくなってしまった。その補いの意味からも、ここにちょっと書いておきたい。

あのお国はちょいとしたものだった。毒婦役のツボを押さえながら、つまり『牡丹灯篭』という芝居を彩る人物としてのイメージを充分に満足させながら、同時に生き生きとしたキャラクターとして立っていた。大西信行の脚本は、もともと杉村春子にお峰をさせるために書いたのだから、杉村を意識してうまく書けていて、そうなると杉村も欲が出て、初演の東横劇場のときは伴蔵が北村和夫だったのが、なろうことなら松録さんとやりたいわと言い出して、殺生なことを言いやがると北村を嘆かせ、それで新橋演舞場で松録がやってから、いつの間にか「歌舞伎狂言」になってしまったのだが、さて閑話休題、歌舞伎になり遂せたようで、やはり本質は「新劇」だから、人物の捕らえ方に新劇作者らしい視点がある。その代表がお国なわけだが、吉弥は、幸手堤のかまぼこ小屋で足萎えになった源次郎を見舞うところなど、歌舞伎のお国と新劇のお国の間にみごとに橋を掛け渡していた。

ところで『合邦』で誰も何も言わないことで、不思議なのは、合邦の女房、つまり玉手の母親の役というのは、合邦が元は青砥藤綱の子で大名の数に入っていたとういうからには、あの老女も、元は奥方と呼ばれる女性であったことになるはずだが、誰がやっても、歌舞伎の役柄のコンヴェンションでいう「婆」の役としてやることに決まっているようだ。元は郷代官の家柄という『引窓』の婆どころではないはずだが、まあ、永い間の貧窮暮らしがしみついたのかもしれない。もちろん吉弥も、あくまでもそのコンヴェンションに従っているのだが、何といってもまだ婆役者ではない。いい意味での若さが程よく中和して、ある種、品格を保って見えるのが面白い。

我当の合邦にもちょっと感心した。羽左衛門とか十三代目仁左衛門とか八世三津五郎とか、偉い人たちのつとめる合邦とは違い、我当という人が持っているある種の若さが、悟っても悟りきれぬ「愚」を実感させる。その意味で、いままで見た誰よりも、合邦という人物の核心に触れていたと思う。

随談第223回 久しぶり野球随談 落合坊主論

ずいぶんしばらく、野球の話をしていなかった。落合の話をしようと思うのだが、その前に、いまどきのスポーツ紙って、日本シリーズの記事を二面以下にして、亀田のアンちゃんがどうしたという記事の方を一面に載せるんですね。まして大相撲など、本場所の記事すら、どこに載っているのか、何度も探さないと見つからない有様で、ようやく見つかっても、一般紙よりも中身はぽっちりだったりする。

ところで、ことしの日本シリーズは去年のを裏表ひっくりかえしたような内容と結果となって終った。去年はセ・リーグ制覇をしたところで落合が泣いてしまい、シリーズは新庄に引っ掻き回されて終った。あれはあれで、なかなかいいシリーズだったが、今年の、とくに最終戦は、落合と、すっかり苦労人風の人相になった中村紀洋がヒーローという、すっかり大人のムードのシリーズとして終った。ビール掛けの模様などを見ていても、中日というチームは随分地味なようだ。職人型の選手が多いせいだろうが、たしかに荒木や井端など、江戸時代に生まれていたら腕のいい指物師か何かになっていたに違いない。

さて、シーズン中からずっと、とりわけクライマックス・シリーズなるものと日本シリーズの落合を見ていて、まず思うのは、人相といい風情といい、この人ほとんど坊さんのようになってしまったということである。帽子を深くかぶって、まばたきというものをまったくしない。何かを見つめているようでありながら、なにを見ているのか、実はわからない。巨人の原監督などとは対極にある人間なのだろう。原に限らない、12球団の監督で、落合ひとり、並みの野球人とは違う人相をしている。シリーズ前に頭を丸めたという、その頭を試合終了後に見せたが、坊主頭を見ればかえって坊主臭くない素顔になるかと思ったら、坊主頭になってもやっぱり坊主臭いままだったので、ちょっと感心した。

二年半前にこのブログを始めたとき、落合のオレ流というのに一脈の共感を抱くという意味のことを書いた筈だが、その一脈には実はかなり深く思いを致すところがあって、私はこの人物には相当の興味をもっている。好き嫌いとか、贔屓とかいうこととは、また別な話としてだ。まだ現役のころだったが、野球のユニホーム姿というのはいい大人のするものではない、ユニホーム姿がいちばん似合うのは小学生だ、とある番組で喋っているのを聞いて、興味を持った。こんなセリフは、原や長嶋の脳裏を一瞬だってかすめたことはないに違いない。つまりこの人物は野球というものに対して、「離見の見」を持っているのだと思ったのである。なにを見ているのかわからないあの目は、普通の野球人が見ようともしないものを見ているのに違いない。

最終戦で8回まで完全試合目前だった山井を、最終回ですこしの迷いもなく岩瀬に変えたことを、楽天の野村監督は、あんなことをする(出来る)のは監督が十人いたら十人できない、出来るのは落合だけだと言っていた。野村も面白い人物だが、しかし所詮は野球人中の変人である。この種の問題に正解は結果論以外にはないわけで、つまり理はどちらにもあるわけだが、きわめて「落合的」だという意味で、あれはやはり大正解だったのだ。つまり、オレ流を通したわけである。

随談第221回 閑な話・いま北の湖と赤福を弁護すると

弁護といっても彼らをストレートに支持しようというわけではない。しかし、テレビで北の湖理事長の仏頂面と赤福一件の事の起こりの所以を見ていると、少々彼らの側に立って弁じてみたい気になってきた。妙なところで出てくるへそ曲がり趣味もないではないが、よってたかって痛打を浴びせつづけている声々のさまざまを聞いていると、そうとばかりも限りますまい?と言いたくなってくる。

赤福の方からいうと、一番はじめにあったのが「もったいない」という一念だという、その一点がすべてである。「もったいない」。これはいま、環境問題に関わるキーワードではないか。しかもいうまでもなく、この言葉の発源地は日本である。そこから「再利用」という発想がでてくる。赤福のした一連の行為は視点を変えてみれば、まさに再利用である。かつては、ああした「工夫」は社会のあらゆるところで、ごく自然なこととして行なわれていたのではないだろうか? 理由はひとつ。まだ生かすことが出来るものを捨てるのは「もったいない」からである。もったいないことをするのは申し訳ないからである。誰に対して? 「お天道さま」にである。

惜しむべし。赤福はそうした視点から、環境問題という極めて現代的なテーマをターゲットに据えて、生産・販売工程をシステム化し、営業戦略として積極的にキャンペーンをすればよかったのだ。そうすれば、時代の求めるところを他に先んじて行なう先端的な優良企業として賞賛を博していたかもしれないのだ。だが、テレビに映る社長なる人の目先を取り繕うことしか見ていないお寒い弁明を見ていると、まあ、かく成り果つるも理の当然かと思わないわけには行かないのは、残念ながら事実だ。しかし、賞味期限が一日過ぎたからといって当然のように捨ててしまう人が、赤福を尤もらしい顔で批判しているのも、実は赤福の社長と五十歩百歩なのではあるまいか。少なくとも確かなのは、三十年前から「不正行為」をやっていたという、その三十年間に、赤福を食べてお腹をこわした人や、味が落ちたと言い出した人はいなかったということである。この、何たる喜劇!

北の湖の方は、そういう話とはちょっと違う。前に朝青龍問題のときにも書いたように、今度の事件についても、相撲協会の考えや立場をもっと社会に向けて言明すべきであるのは間違いない。また、今度の一件が朝青龍問題などとは次元の違う深刻な問題であるのも間違いない。しかし、テレビに写る北の湖の仏頂面を見ていると、現役時代の土俵態度とダブラせて、少し同情したくもなってくる。巨象の荒れ狂うような激しい相撲を取って圧倒し、相手が土俵下に転落しても敢えて手を差し伸べない。それを批判的に言う声もあったが、私はそうした北の湖の非妥協的な厳しい土俵態度を、むしろ好もしく思っていた。

去年石川さゆりが明治座で『長崎ぶらぶら節』をやったとき、お座敷で土俵入りを見せる場面のために、北の湖に手ずから教わったが、セリ上がりを目の前でやってみせてくれたときは、まるで地球を持ち上げるような迫力と男の色気を覚えてボーっとなったと語っていたが、まさにさもありなんと思われる。あの困惑し切った仏頂面の中に直情な男のカワイサを感じ取れるかどうかで、北の湖への好悪も評価も裏と表に別れるだろう。