随談第120回 スポーツ随談(続)[番外・昭和20年代列伝]

鶴ヶ嶺が死んだ。田村高広だの岡田真澄だの、今村昌平だの、いちいち書いておきたい人の訃報をここのところ続々(という感じで)聞くが、それはまた何かの折を考えることとして、いまは117回の相撲噺の続編ということにして(スポーツ随談という題にしたのは野球だのまた始まったサッカーの取らぬ狸の皮算用のことだの、いろいろ書くつもりだったのだが暇がなかったので、これもまた改めてということにしたい)、鶴ヶ嶺のことを書いて冥福を祈りたい。

前回も櫓投げの羽島山だの吊りの明歩谷だの内掛けの琴ケ浜だののことを書いたが、いま振り返っても、昭和20年代から30年代の相撲界というのは、大変な名人・上手の輩出した時代だったのではないかという気がする。ほかにもりゃんこの信夫という仇名がついた双差し名人の信夫山とか、速攻の北ノ洋や初代琴錦とか、左差し半身になって若乃花をもてあまさせ何度も水入りの大相撲をとった出羽錦とか、体重二十一貫五百(つまり80キロちょっとだ)で倍以上もある横綱鏡里に三場所連続で勝った鳴門海とか、怪力無双の荒法師玉乃海とか、決して強くはなかったが古武士のような風格が忘れがたい大蛇潟とか、理論家の若瀬川とか、まだまだ挙げだせば切りがないからこのぐらいにするが、みな、名人・上手であるばかりでなく、立派な風格(というのも相撲では大切なことであって、そこが、ただ強ければよいとする他の格闘技とは一線を画するところなのだ。今後大相撲が国際化することに私は賛成だが、この点だけはいい加減にしてはならない急所でだと思う)を持った名力士たちだった。

しかも肝心なのは、(琴ケ浜は大関になったが)これらの名人上手の名力士たちが、みな関脇までで全うしたことである。(鳴門海などはたしか前頭筆頭が最高位ではなかったか。)

関脇がいかに強かったか、ということでもあるが、それ以上に、勝ち負けがすべての筈の相撲というものの懐ろの深さを思うべきなのだ。

ところで鶴ヶ嶺だが、こうした名人・上手たちの中にあって、名人ぶりがちょいと違った風(ふう)をもっていた。風貌や相撲振りから察せられる人柄から、むしろ陶芸家かなにかと共通するような風韻が感じられた。安藤鶴夫がこの人のことが大好きで、絶賛する文章をいくつも書いているが、わたしも、なんとなく七代目三津五郎などにも通じるような、脱俗的な気韻を感じていた。

もちろん、これは私がただ一方的にそう思っているだけの話であって、そこからなにかを持ち出して語ることは、ご当人にとってはむしろ迷惑なことに違いない。鶴ヶ嶺はあくまでもお相撲さんであって、芸術家ではない。しかし単なるお相撲さんでもなかったのではないだろうか。

妙なことを覚えているのだが、この人は最後の土俵という日に朝稽古のあと氷を食べて胸が痛くなって、休場してしまった。安藤鶴夫が亡くなったときにも、たしか似たような椿事があったと思う。大袈裟なセレモニイなどをして野暮ったい最後を飾らなかったところも、脱俗の名人らしくて、この鶴ヶ嶺最後の土俵の逸話を、私はひそかに愛している。

随談第119回 観劇偶談(その57)

第114回の「今月の一押し」の中で、亀治郎の「火の見櫓」のお七の人形振りについて、人形振りというものの概念に変更を求めるもの、というような意味のことを書いたら、もう少し詳しく聞きたいという声があったと聞いた。じつは『演劇界』7月号に書いた五月の演舞場についての劇評の中でも触れているので、それを読んでもらえば、私の言う趣旨のおおよそは分るはずだが、しかし私としても、周辺的な意味合いのことも含めてもう少し書きたいこともあるので、いい機会だから書くことにしよう。

『演劇界』に書いた趣旨を敷衍すると、亀治郎のお七の獅子奮迅といった趣の働きを見ていると、お七の一心不乱が乗り移ったかのようで、人形振りというものが本来、文字通り「懸命」(つまり命懸け)という人間の姿、心の有様を表現するために考え出されたもののように思われてくる。つまり人形振りとは、人間が人形の真似をしてみせることに目的があるのではなく、人間のままでは表わしきれない人間の姿を、人間がみずから人形に憑依することによって表わそうとするためにあるのではないか、と思われてくるということを言ったのだった。

よく言われるように、人形振りは近代歌舞伎の中で永いこと、ケレンとして、一段下がった芸とされてきた。五代目・六代目の二代にわたる歌右衛門が、たとえば『金閣寺』の雪姫の爪先鼠でも、『廿四孝』奥庭の八重垣姫でも、決して人形振りで演じようとしなかったことが、人形振り=ケレン論の聖典のように受けとめられてきた。無論それに対する反論もないわけではなく、坂田藤十郎が八重垣姫を人形振りで演じたのなどその代表だろうし、ケレンに対する認識が様変わりした現在、むしろ歌右衛門のような意見の方が少数派に違いない。かえって希少価値が生じたかもしれないほどだ。

だが、亀治郎の『櫓のお七』を見て私が驚嘆しつつ思ったのは、そうした紋切り型の公式論のような「人形振り復権の論」などではない。抽象論として人形振りの復権を説くのなら机上でもできる。私はあくまで、目の前で人形振りのお七を演じる亀治郎を通じて、人間が人形になって演じるということの意味を考え(ざるを得なかっ)たのだ。私にそれを強いたのはあくまでも亀治郎の演じる人形振りのお七であって、翻って言えば、私にそういうことを考えさせた亀治郎という役者とは一体何なのか、ということでもある。

専門的な技術論として、亀治郎の人形振りがどの程度に巧いのか、または巧くないのかは、この際(少なくとも直接には)問うところではない。しかし私には、亀治郎のお七は、人形振りというものの本質を示すものであるように思われた。もっと言えば、人形振りというものの本質を演じてみせるものだった。

そういうことを考えさせてしまう人形振りの演技というものは、もしかすると褒められることではないのかもしれない。もっと、見るものをただうっとりとさせるようなものの方がいいのかもしれない。しかし少なくとも、これだけは言える。お七の人形振りを通して、亀治郎はまぎれもなく、お七という娘を生きていた。お七という娘の情念が、亀治郎という役者の身体を通して、わたしの目の前にあった、と。

随談第118回 観劇偶談(その56)

新国立劇場で永井愛の新作『やわらかい服を着て』を見た。イラク攻撃反対を唱えるNGOのメンバーたちを、イラク開戦前夜から開戦3周年まで、活動や挫折、葛藤から再生をとおして描くというのが趣意である。

(1)イラク開戦直前の2003年2月16日、(2)三人の日本人人質事件のさなかの2004年4月12日、(3)昨秋の小泉劇場衆院選前の2005年9月10日、(4)イラク開戦3周年の今年3月20日の4場面を、途中休憩を一回入れるが暗転だけでつなぐ。場面は活動の場として借りているさる町工場の一室に終始する。つまり同じ場面で、月日だけが移ってゆく。登場人物も9人の活動メンバーと、場所を提供している工場経営者の計10人に限られるから、月日の経過とともに揺れ動き、変化する心境や環境が的確に映し出される。この構成が巧みである。

巧みなのはそればかりではない。群像劇としてメンバーたちを等間隔から、だれにも温かい目と辛らつな目と双方を平等に注ぐ永井愛独特の「相対性理論」はこの作品でも健在、どころかますます冴えている。俳優たちも、みなそれぞれに、いかにもいそうな人物の臨場感を感じさせる。成功作であり、秀作であることは疑いない。

だが見ていくうちに、よしとして見る一方で、妙な感慨が起こってきた。あまりにも見事な作者の「相対性理論」が、やがてラヴェルかなにかの音楽ではないが無窮動の中に入り込んでいくように思えてきたのだ。小島聖の演じる新子という女性をめぐって、吉田栄作演じるリーダーの夏原(NGO運動のために勤めていた一流商社を退社したという設定になっている)が偽善者といって責められる場面が、芝居としては山場であり、みんないい人、という前提で書かれているから観客は安心して見ているわけだが、私はここで、この劇はもしかしたら連合赤軍のパロディなのかもしれないという思いが頭をかすめたのだった。

作意としては、ひとつ間違えばそうならなかったとも限らない危機をもはらみながら、何とか乗り越えてゆく姿をえがくところにあるのは分かっている。しかし、『ボレロ』を演奏しながら、指揮者が、もうこの辺でいいだろうというあたりで、ジャンとオケを鳴らして曲を終わらせるように、作者も程のよいところで事態を収めたからそうならなかったのだ、ともいえる。

私は、この作の弱点を突きたくて言っているのではない。むしろ、作者の、登場人物たちを、繊細な気配りで包みながら、暖かくも辛らつに痛いところををも容赦なく突いてゆく、あまりにも絶妙な相対性が陥ってしまう、底なし沼のような、無窮動のような、自分で自分の尾をのむ怪魚ウロボロスのような、なんともいえない矛盾を思っただけである。

随談第117回 スポーツ随談

夏場所が終わったが、優勝決定戦の白鵬と雅山の一戦を見てなつかしいような感動を覚えた。四つ相撲の醍醐味というものを久しぶりに味わった感動である。相撲ぶりといいふたりの風格といい、ふた時代前ぐらいの横綱同士の一戦を見ているような味があった。

白鵬は先場所ひと場所で見違えるように化けた。逸材であることはもちろんわかっていたが、しかしそれまでは何かヤワで、立会いにあらずもがなの変化をして軽くこなしてみたり(朝青龍がそれで怒りを露わにしたことがある)、賢そうなのが裏目に出て自己満足しているような風が見えるのが気になったが、先場所来まったくレベルの違う相撲取りになった。(いまここで栃東を引き合いに出すのは気の毒だが、栃東は遂に化けることができなかった。彼の頭脳と感受性は、勝負師であるより評論家に向いているのだろう。せめて名大関として全うさせてやりたいが、うっかりすると陥落しかねない危うさがある。)

双葉山は関脇で大化けして連勝を始めるまでは、うっちゃりで勝つ相撲が多くてあまり評価されていなかったというが、そういえば同じタイプの大鵬も、自分の相撲を確立するまでは、一気に出てこられると弱く、柏戸はおろか、栃光や房錦あたりにもときどき苦杯を喫していたものだった。(若羽黒がもちゃもちゃした押し相撲で何度か、あっという間に自分を追い越していこうとする大鵬を負かしては、鬱憤を晴らしていたのがじつに面白かったっけ。)白鵬もおそらくそれと同じで、ああいうタイプが自分の相撲を確立したら不敗の横綱になるに違いない。

雅山という力士は、これまであまり好きという感じになれずにいたのだったが、この一月場所、国技館で実際の姿を間近から見て、なかなか立派な風格を備えていることを知って、一転して好感を持つようになった。大関を陥落してからの心境によいものがあったのだろう。風格のあるよき大関になるにちがいない。

さっきむかしの横綱同士の一戦といったが、最盛期の栃錦と若乃花のがっぷり四つになった相撲などは、じっとしているように見えてもじつは瞬時のすきもなく、ぴりぴりと神経が通っているのがいまも残るフィルムをみてもよくわかるが、そうしたものと別に、照国とか鏡里のような昔風の、おっとりとした相撲人形のような横綱ぶりもよかった。

今場所は話題の把瑠都が、吊り出しで二番も勝ったのがよかった。久しく見ることがなかった決まり手である。明歩谷という吊りの専門家みたいな力士もいたが、明歩谷ならずとも、以前はよく見かけたものだ。四つ相撲が少なくなったせいだろう。櫓投げに至っては絶滅品種に等しい。これにも羽島山というスペシャリストがいたが、いまどきの力士は知っているだろうか? 前にも書いた内掛けの琴ケ浜とか、いかにも曲者の職人芸だった。安馬が二枚蹴りをやってみたいと言っているそうだが、結構なことである。

それにしても把瑠都が土俵中央で岩木山を組みとめるとすぐにはりま投げで投げ飛ばしたのには驚いた。大内山という2メートル3センチの巨人大関が、これも長身の千代の山とがっぷり四つから上手投げで勝ったり、若乃花を両上手から引きつけて寄り切ったりしたのを覚えているが、大内山の大成をはばんだ巨人型力士の脆さが把瑠都にはなさそうなのが不気味だ。

随談第116回 観劇偶談(その55)

明治座の石川さゆり公演の『長崎ぶらぶら節』と新国立劇場の『Into the Woods』を同日のうちに見るという経験をした。どちらもなかなかよかったのだが、こういう対照的な芝居を(歌舞伎風にいえば)昼夜通して見たりすると、またなかなかおもしろい発見やら、物思うところがあったりする。

『長崎ぶらぶら節』は、いわゆる郷土史家の古賀十二郎という人物と長崎の丸山芸者の愛八とが、地元にひっそりと忘れられたような形で残る古い歌を発掘してまわる内、田舎のたったひとりの老妓が覚えていた「ぶらぶら節」を発見するというのが話の核だが、原作者のなかにし礼がこの秘話を知ったのは、以前創作オペラの台本を書くうちに歌と風土の関係について思うところがあり、全国の民謡を調べる中で、昭和初期に愛八が吹き込んだレコードを聞いたのが契機だという。

そのレコード化にあたって西条八十が登場するのがまたおもしろいのだが、いまはそれは措くとして、さて一方『Into the Woods』だが、こちらはグリム童話の有名作をひとつの盤上でばらばらにして組み替えたり、裏読みをしたり読み直しをしたという知的な操作(とそれにじつにマッチした作曲の妙と)を愉しみながら、現代われわれにきつけられている問題が頭をよぎったりするところにミソがあるのはいうまでもない。問題は普遍性があり、この作が秀作であるのは確かだが、しかし同時にふと思ったのは、これが日本の新国立劇場で日本人の(それも小堺一機だの高畑淳子だの、天地総子だの、しょっちゅう、またはむかし、テレビでおなじみの)俳優たちがやっているという安心感があるのだけれども、もしかすると、それでずいぶん、本当はこの芝居が持っている恐ろしさが減殺された形でわれわれは見ているのではあるまいかということである。

それというのが、昨秋映画の『ブラザーズ・グリムを見てげんなりしてしまった記憶が、まだ生々しいからでもある。映画の出来のことはいまは別として、グリム童話をむかし楠山正雄訳で読んだ(西欧というものの不気味さをそこはかとなく感じた、これがはじめだった)者として、ただのきれいごととは元より思ってなどいないにせよ、あの映画のような肉食人種のまがまがしさは、とてもすんなりと受け付けられるとは思えない。こんどの宮本亜門演出にしたって、すくなくとも無意識のうちに、米食(少なくとも麦食)人種的に「翻案」されているに違いない。

と、結局、文芸と風土という古くて新しい問題に返ることになるのだが、さて『長崎ぶらぶら節』だが、なかなかの出来である。石川さゆりは、ポスターやチラシに載っている芸者ぶりから、じつは一種の予感があったのだが、その予感は的中したことになる。劇中、来訪した西条八十の前で「ぶらぶら節」を歌う場面など、圧巻という表現をつかっても差し支えのない迫るものがあった。

また劇中で見せる横綱の土俵入りは、北の湖からマンツーマンで教わったそうだが、目の当たりに見る北の湖に、まるで地球を抱きかかえるかのような、大きなものを感じて、これが横綱というものなのだと思ったという彼女の弁が、印象的である。北の湖はまさに、相撲というものの根源を見せたことになる。

随談第115回 観劇偶談(その56)

前進座の国立劇場公演の『謎帯一寸徳兵衛』がなかなかいい。この公演が劇団創立75周年だそうだが(狂言半ばに幕前で梅之助のやった「口上」もなかなかよかった。75年の歩みを極端な自画自賛も手前味噌もなくしっかり振り返り、真情がこもっていた)、創立直後の昭和六年と九年にやったきり、72年ぶりというのも不思議なようだが、それだけに、嵐圭史だけがいわゆる第二世代だが、あとは若いメンバーが中心で蘇らせたのが一層新鮮味があり、意義深かった。

圭史の団七、梅雀の徳兵衛、国太郎のお梶・お辰という主役トリオがみな役にはまっているので、芝居の形がゆがまずに明確に見えるのがまずいい。小池章太郎の改訂脚本も取捨選択がじつによろしきを得ていて、復活台本にありがちな曖昧さがまったくない。大鳥佐賀右衛門だの奥女中琴浦だの、ほんとうはこれだけではよくわからない人物も当然ながら出てくるのだが、それがわけのわからなさを助長するようなことはないのは、小池脚本が、上演台本だけでひとつの演劇空間を作ることに徹底しているからだ。「夏祭」の世界を踏まえながらも、それに足を取られていない。渋滞する感じがないのが、復活上演として成功の第一条件ともいえる。

圭史の団七は、ときどき南北劇の様式(というものは、やはりおのずからあると私は考える)からはずれて普通の時代劇のような感覚に近づきそうな危うさもないではないが、それをも含め「色悪」としての「仁」のよさがすべてを救っている。ある種の軽さと、その半面として、悪の凄みを利かせる場合には根の生えたような大きさと、両面が必要なところが難役たる所以であり、今後の課題だろう。

梅雀の強みは、自分の呼吸で芝居を運べることでこれは天性といっていい。それがもっとも端的に現われるのがセリフの息のよさだが、ますます父梅之助を通じて祖父翫右衛門そっくりになってきたのは、もちろん努力も工夫もあろうが、よほど強力な遺伝子に恵まれているのでもあるだろう。徳兵衛の方がタイトルロールなのだということが納得させられてしまう「芝居力」が何よりものを言う。

国太郎はお梶とお辰をきちんと仕分けたところに、努力ももちろんだが芸としての成熟を思わせられる。つまり、よく言う言い方をすれば、役者があがった、のだ。役者としての個性が明確になると、役を演じ分けることが的確にできるようになる。演じ分ける、のでなく、仕分けるのだ。お梶が、二幕目の「団七住居」になると序幕とはちがう「女房」になっているあたりにも、芸の成熟がある。

藤川矢之輔の三河屋義平次、瀬川菊之丞の琴浦(この役ばかりは不得要領な役だ)、山崎龍之介の大鳥佐賀右衛門といった人たちが、ちゃんとツボにはまっていることにも、ご本人たちの努力はもちろんだが、劇団としての成熟を思わせられる。菊之丞は『魚屋宗五郎』でも女房のおはまを好演している。

『魚屋宗五郎』は梅之助の出し物だが、みごとに「前進座歌舞伎」である。

随談第114回 観劇偶談(その55)今月の一押し

観劇偶談の一環として「今月の一押し」というのを始めることにしよう。といっても、ベスト・ワンなどと、あまり堅くならないでください。もう少し自由で、もう少し洒落っ気のあるものにしたいのです。いうなら、馴染みの店にあなたを案内したとして、この店これがおすすめなんだよ、と小皿の一品を注文する、といった感じですかね。

さて今月だったら・・・いろいろありそうですな。新橋演舞場で染五郎と亀治郎が『寿式三番叟』というのを踊っている。要するに「二人三番叟」なのだが、一応それとは別に、こんどふたりが踊るについて新しく振付けたものだ。いまいちばん覇気と客気のあるふたりがむきになって踊りくらべをしている感じで、活気があってなかなか見せる。

いや亀治郎なら夜の部の『湯島掛額』の「火の見櫓」お七にした方がいいか。あの人形振りは凄い。人形振りとして巧いのどうのというより、人形振りというものの概念の変更を迫るものだといってもいい。まだな人は是非見るべきだという意味では「一押し」にふさわしいかもしれない。

もっとも、既成概念の変更を迫るというなら歌舞伎座の海老蔵の『藤娘』だってそうだといえないこともない。とにかくあんな『藤娘』は見たことない!

と、いろいろあるのですが、この人たちはどうせこれからもいろいろ候補に出るだろうから、この際相討ちの痛み分けということにして、歌舞伎座昼の部『江戸の夕映』で舟宿網徳の娘お蝶というのをやっている尾上右近を、今月の一押しに挙げることにしたい。

その序幕第二場、築地の舟宿網徳の家の場の幕があくと、寿鴻だ辰緑だ新蔵だ新七だといった連中の勤める船頭たちを相手に、適当に無駄話をしながら大の男どもを見事に仕切っている小娘がいる。まるぽちゃの小娘にはちがいないのだが、船頭たちをちゃんと押さえるだけの貫禄のようなものすら、すでに身に備わっている。だからといって、大人子供みたいにこまっしゃくれているのとは違う。ちゃんと、かわいいのである。

作者の大仏次郎が生きてこれを見たらきっとよろこぶに違いない。しゃきしゃきと生きがよくて、下手な巾着切りの腕ぐらい捩じ上げてしまいそうだ。将来、必ずやいい女将になるに違いない。

誰だろう、と配役を見直す。(こういうことをさせる若手というのはきっと出世するというのは、戸板康二説である。)尾上右近、とある。つまり清元延寿太夫の子でつい去年、役者として立ってゆくつもりか、音羽屋にとって由緒ある右近を名乗るようになったあの子だった。まだ中学生、13歳だと、後で聞いた。

踊りに天分のあることは、何度か舞台を見て知っていた。(今月も『雷船頭』の雷を踊っている。)勘三郎、三津五郎世代以降、名子役というものを何人か見てきたが、まず間違いなくそういったクラスである。べつに先物買いをするわけではないが、末恐ろしいというべきか、末頼もしいというべきか。

わが時代劇映画50選(その3)『紅顔の若武者・織田信長』河野寿一監督、東映1955

しばらく錦之助映画を続けることにしたい。戦後時代劇を語るとき、誰かひとり、と言えば、煎じ詰めれば錦之助、ということになると私は思っている。錦之助ほど、哀切なまでに、馬鹿の字がつくほど正直に、戦後の時代劇の動向と運命を共にした時代劇俳優はないと思うからだ。

錦之助が『笛吹童子』で売り出したとき、見る者を唸らせたのは、水もしたたる美少年ぶりだった。『里見八犬伝』では犬飼現八の役でありながら女装をする場面があった。子母沢寛の小説を映画化した『お坊主天狗』でも、これは設定がそうなっているのだが女姿で親の敵を討つという役だった。もっとも、東千代之介だってデビューは『雪之丞変化』だし、『蛇姫様』でも女形になるが(この人はこちこちしていて女姿はだめだった)、こういう路線は雷蔵でも橋蔵でもやらされているから、歌舞伎や舞踊の出身者の一度は辿らされるコースともいえる。

しかしそればかりでなく、錦之助の柄から見て、長谷川一夫の路線で売ろうという考えが会社にもあったようで、『怪談千鳥が淵』ではでれでれと優柔不断な役で和事の味があるとほめられたりした。しかし当の錦之助はそれがいやだったらしいことは、『揚羽の蝶』という自伝風の文章を新聞に連載した中で書いている。

『織田信長』は、錦之助がみずから進んで「ますらをぶり」の道を切り拓こうとした最初の作品ともいえる。山岡荘八の原作の映画化だが、題材は、大仏次郎が十一代目団十郎のために書いた『若き日の信長』と同じ、奇矯な行動が多くうつけと呼ばれた吉法師時代の信長が、大いなる魂を宿すが故に自らをもてあましながら成長してゆく姿を描くイニシエーション・ドラマで、それが錦之助自身の、周囲が自分に押し付けようとする型にはまった通念を打ち破ろうとする姿と重なり合って見えるところが、魅力と共感を感じさせたのだ。「童子もの」と呼ばれた、『笛吹童子』以来の絵のような美少年役からの脱皮という風に、当時それは理解されていた。

父の織田信秀に反発し、守役の平手政秀を唯一の理解者としながら、斉藤道三の娘濃姫を妻に迎えたのちも奇矯な行動を続けていた信長が、やがて政秀の諫死に翻然と悟り、舅道三と対面するとき、それまでと打って変った颯爽たる美丈夫に変貌するというのが、見せ場だった。錦之助は、後段の美丈夫ぶりと対照させるために、前段の汚れ役の扮装に凝りに凝って、いくらなんでも信長は乞食ではないのだからと批判されたりした。道三との対面の場では、大時代な台詞回しで、前段の怒鳴るようなセリフと対照させようとした。つまりほほえましいほど、のちの萬屋錦之介の原風景がここにあるのだが、それにもかかわらず、私にはこのむきになった錦之助がこよなくなつかしい。ここにもまた、錦之助の永遠の少年性を見るからである。

父信秀が柳永二郎、平手政秀が月形龍之介、斉藤道三が進藤英太郎と大物ぞろいの脇役陣だが、この政秀は月形としてもとりわけの逸品である。濃姫の高千穂ひづるもなかなか毅然として彼女の代表作に入るだろう。

随談第112回 昭和20年代列伝(その2)

突如という感じで、昭和20年代列伝というのを始めることにした。近頃、昭和30年代というのが流行現象となっているようだが、その担い手の主力は、たぶん私よりやや若い世代から始まって、下っては実際には30年代を体験していず、いろいろなジャンルを通じて興味をもった世代なのではないかと思う。テレビのCMに30年代の流行歌を使ったのが目、いや耳につくが、ああいうのは、製作者もそれをよろこんで見る視聴者も、実際体験はない世代なのだろう。

私ももちろん、30年代にも充分興味があるが、敢えてもうひとつ前の20年代のことを書こうと思うのは、ふたつの理由がある。

ひとつは、20年代こそ私にとって記憶の、ということは自分の歴史の源泉だからである。断片的な記憶なら、もっと古いものもあるが、それは語るに由ない。

記憶の原点というのは、単に一番古い記憶という意味だけではない。むしろ、自分の外の世界というもののあることを知り、世の中とか社会とかいうものが、はじめて意識の中に入ってきたことを意味する。大人たちがどんなことを喋っているのかとか、どんなことがニュースとして話題になっているのかといったことが、意識の中に入ってくる。それは、なつかしい、という心の働きが目覚めることでもある。それが、私にとっての20年代なのである。(当節の30年代の流行の担い手の主力を私よりも若い世代に違いないと推測するのは、そのためである。つまり30年代に記憶の原点をもつ人たちである。)

もうひとつは、昭和20年代に対する共通認識としえの総括のなされ方が、時の風化と共にあまりにも概念的で、紋切型になってしまっているのに、いささかの疑問と不満を覚えるからである。たしかに20年代は終戦直後であり、焼け跡や闇市や進駐軍のGIたちが闊歩する時代であったことは間違いないが、そういう概括的な認識だけで語られてしまう「戦後」というものに、(ここでもまた「時代劇映画50選」のときと同じように)擬痒を覚えるからである。新聞や雑誌の特集から、年鑑年表のたぐいまで、この紋切り型は、一方ではやむを得ないと思いつつ、一方ではユルシガタイのである。

というわけで、この「昭和20年代列伝」は、一方ではきわめて個人的な記憶によるものになるだろう。しかしそういう子供の目というものは、大人が見落としたり、注意を向けないものを、案外鋭くキャッチしたり、記憶したりするものであることは、同感してくださる向きも少なくないのではあるまいか。厳密にいえば30年代のはじめにまたがる、むしろ1950年代というべきかもしれない。

たとえば、はじめて読んだ大人の小説の記憶。わたしの場合、それは新聞の連載小説だった。小学6年生の秋、ふとしたきっかけから朝刊を取り込む役をはじめたのが、新聞小説を読むようになるはじまりだった。それまでにも、大人たちが話題にしている新聞小説の存在は知ってはいた。たとえば、吉川英治の『高山右近』とか、獅子文六の『自由学校』とか。だがそれはまだ遠い世界の話であり、自分で読むものではなかった。はじめて読んだ新聞小説。それは石川達三の『悪の愉しみ』というのだった。

随談第111回 昭和20年代列伝(第一回)

新聞の死亡記事で懐かしい名前をちょくちょく見る。つい先日は、川崎徳次の死を伝えていた。見出しが元西鉄監督ということになるのは、こういう際の常識的な基準に拠ったまでだろうが、私にとっての記憶の中の川崎といえば、まだ1リーグ時代の巨人の主力投手時代の、将棋の駒みたいに四角い顔をした、たのもしいおじさんといった感じの姿である。投げるとき、左足をいったん後ろのほうに巻くようにしてから踏み込むのが特徴だった。たしかナックル・ボールというのを得意にしていた。

こちらが小学生だったせいでもあるが、たぶんそれだけではなくて、当時のプロ野球選手というのは、ずいぶん大人っぽかったような気がする。川崎が投げていた時代の巨人の選手でいえば、投手が藤本英雄(前にも書いたが完全試合第一号の中上のことである)に別所が1リーグ最後の年に南海ホークスから強引に引き抜かれてきたのと、中尾(このひとはエースナンバーの18をつけていた。ふしぎだが、巨人で18という背番号をつけた投手にダメ投手の例はないが、超一流投手もあまりいないような気がする)、それに川崎あたりが第一線で、ときに投手と捕手を兼業する多田文久三などという選手もいた。みなおじさんである。捕手が多田のほかに内堀、それに藤原鉄之助というのがファイターで人気があった。

内野は一塁が川上、二塁が千葉、三塁が山川喜作(ここがちょっと非力に思われていた)、ショートが白石。外野はレフトが平山で、このひとは塀際の魔術師といわれて、ホームランになりかかった大フライを塀に手をかけてジャンプして捕ってしまう名人だった。オッサンという仇名がついていたように、ブリキ職人かなにかのようないかついがやさしそうな顔をしていて、私は大好きだった。たしか数年前に死亡記事を見つけて切り抜いておいた。センターが有名な青田。この人は相手チームの捕手の前を突っ切ってバッターボックスに入るのが特徴だった。ライトが台湾出身の萩原。この人は前名を呉といっていた。プロ野球草創時代の有名な呉とは別人である。

こうしてみると、なにもこちらが子供でなくたって、若々しいという感じの選手はひとりもいない。川上と千葉と青田がスーパースターである。この年の巨人の監督は三原だったが、七月にシベリアの抑留から水原が帰ってきて、それがのちのふたりの確執の発端になる。巨人がぶっちぎりで優勝したにもかかわらず、VIPは阪神の藤村富美男が取った。前年、川上と青田が25本づつ打って作ったホームラン記録を一気に46本も打って大幅に破ったのだ。買ってもらった野球カルタの「ほ」の文句は「ホームラン別当藤村ともに打ち」というのだった。

当時『おもしろブック』という少年雑誌が大人気で、山川惣治の「少年王者」、小松崎茂の「大平原児」と共に人気の連載小説「恐怖の仮面」の主人公の三きょうだいの兄というのがプロ野球選手という設定で、別村弘という名前だった。別当と藤村と、もうひとりのホームラン打者大下弘の三人から取ったのはあきらかで、なぜか川上が無視されている。作者の久米元一は巨人嫌いだったのだろうか? (これから不定期に続けます。)