随談第111回 観劇偶談(その52)コクーン歌舞伎『四谷怪談』(つづき)

歌舞伎を歌舞伎たらしめているものが、つきつめれば、歌舞伎俳優の身体だ、とは当然、その身体とは技術を叩き込んで作り上げた身体ということになる。とすると、その場合の技術とは、さしあたり、いまある歌舞伎を演じるために必要な技術ということになる。いまある歌舞伎とは、いろいろな歴史的条件の中で伝承された技術によって演じうる歌舞伎、という意味になる。現在の歌舞伎俳優の身体をもって演じうるものが現在の歌舞伎、という至極当り前の話である。この辺から、議論はうっかりするといたちごっこに陥りかねない。

ところでこんどのコクーン歌舞伎『四谷怪談』北番では、下座を使わず朝比奈尚行による音楽をつかったことが、最大の実験ということになるだろう。下座を使う南番では、串田和美による演出がいかに手を加えようと、またお岩と伊右衛門の愛の限界点というところに劇の焦点をしぼりこもうと、下座を使う限り、役者たちは見についた歌舞伎のコンヴェンションの中で演技をくりひろげてゆくことができるから、芝居は見慣れたいつもの『四谷怪談』から大筋においては逸脱することなく進行してゆくかに見える。印象からいえば、串田演出が施し得たのは細部に限られているようにも見える。

だが下座を取り払ってしまえば、それに頼って芝居をするという「安心立命」の拠りどころがなくなる。もっともこういうことは、考えてみれば、明治の活歴だって、大正・昭和の新歌舞伎だって、その他各種さまざまな新作歌舞伎だって、それなりに試みたことだともいえる。南北の時代はいまより下座を使うのはずっと少なかったろうとは前からいわれていることだ。

一方で、国立劇場がかつてさかんに復活上演を試みたころ、当時健在だった勘弥とか八代目三津五郎といった世代の役者の体得していた引き出しが大いにものを言ったというとき、それは、ここでこういう下座を使おうというような、現場に根ざした実践主義的知識であったであろうことは容易に想像がつく。一面からいえば、下座の使い方ひとつがその場面が「芝居になる」かどうかの分かれ目になる、というようなことでもあったろう。

それやこれやの果てにいまの歌舞伎のコンヴェンションが成り立っているわけだが、こんどの北番『四谷怪談』で、下座をはずして、南北の書いたセリフを言うことを求められた歌舞伎俳優がどういう演技をするかということは、たしかに興味ではあった。また、下座の代わりにロック系の音楽を用いたといっても(正確にいえばこの表現は正しくないだろう)、下座のように細かくセリフひとつ、しぐさのきっかけひとつに音楽をつけるという方法論がまだない以上、多くの場面では、音楽もなにもない状態でセリフを言い、芝居をしなければならない状況になる。あるいは、ポトリポトリと雫の音のみが聞こえる、といった状況で演技をしなければならない。

少なくともこんどの成果を見る限りでは、役者の側は、おおむね事態をクリアーしていたように見受ける。串田氏の演出の可否については、当然、いろいろな評価があり得るだろうが、歌舞伎のコンヴェンションから可能な限り離れて、ひとつの可能性を指し示す成果を挙げたとだけは、少なくとも言えるだろう。

随談第110回 観劇偶談(その50)コクーン歌舞伎『東海道四谷怪談』

コクーン歌舞伎の『四谷怪談』は北番・南番ともそれぞれの初日に見たが、ひと月あいだを置いてから、北番だけだがもういちど見直してみた。

串田的演出を随所に施しながらも、下座も使い、運びも現在普通の定番「四谷怪談」に沿って進行する南番は、北番と並べて見ると、やや影が薄く感じられる。下座を廃し、ロック系の音楽を使い、串田的読みで脚本を解体・再構築し、もちろんそれに伴って演出も南番以上に「串田的」(この言葉、これですでに3回目だ)手法を全面的に、自在に駆使した北番の方がはるかに刺激的でおもしろい。このことは、コクーン歌舞伎にとってだけでなく、歌舞伎そのものについて考える上でも、暗示的であるかもしれない。

南番は、12年前に勘三郎がコクーンに初登場したときの台本に、そのときは芸術監督の立場に控えていた串田和美が、全面的に演出したものだという。12年前のときは、勘三郎自身が、在来普通のコンヴェンションに沿いつつも、コクーンという空間を活用するための方法を、現場主義的に、手探りでこしらえていったという新鮮さと活気が、刺激的なおもしろさを確実に生み出していた。その活力は、もう12年もたったとは信じられないほど、いまなお鮮度を保ちながら私の記憶の中に生きている。南番はそれを超えているだろうか?

もちろん、部分部分の演出の面白さは随所にあるし、客席の熱狂は間違いない。しかし、串田氏という歌舞伎の外側にいて、歌舞伎を外から見ている人に歌舞伎に関わってもらう意味は、北番の方がはるかに大きいのではないかというのが私の考えである。

現在普通のコンヴェンショナルな『四谷怪談』が、コンヴェンショナルであるがゆえのすぐれた魅力をもちつつも、そこだけに安住したくない思いからすると、さまざまな不満も感じずにはいられないのも、また事実だろう。以前は定番の内に入っていた「三角屋敷」が通し上演からはずされてから久しいのは誰でもいうことだが、じつは、原作に書かれていながら省かれてしまった場面や人物は「三角屋敷」だけではなく、しかもそれゆえに、南北の書いた戯曲『東海道四谷怪談』の全体像が見えてこないという事実は、だれも否定できないことだ。

北番では「三角屋敷」も「夢の場」も「小平内」も出る、というだけのことではない。伊藤喜兵衛の存在を際立たせて社会悪を形として象形させたり、喜兵衛とお熊と宅悦の三役を笹野高史に兼ねさせて、コンヴェンショナルな演出でお岩と与茂七と小平をひとりが兼ねる効果を裏返しにしたり、群像劇としての視点を導入したり、背景の巨大な仁王像と終幕の地獄の縄梯子を対応させたり、こうしたことこそ、歌舞伎の外側にいる者ならではの目であり、方法である。だがそれだけなら、新劇俳優を使って「新劇版四谷怪談」を作ればいいともいえる。それを歌舞伎俳優があくまで歌舞伎としてやる。そこにコクーン歌舞伎の意味があるのだとすれば、なによりも試されているのは、歌舞伎俳優の歌舞伎俳優としての身体だということになる。ここまで来てしまった以上、歌舞伎を歌舞伎たらしめるものといえば、それ以外にはないことになるであろうからだ。(つづく)

随談第109回 観劇偶談(その50)

俳優座プロデュースの『女相続人』を見た。なかなか面白かった。すべては緊密に書かれ、組み立てられたセリフのやりとりだけで成り立っている。欧米の近代劇のスタイルを絵に描いたような劇で、舞台も歌舞伎風にいえば一杯道具、イプセン流にいえば第四の壁を取り外した、ひとつの室内だけですべてがおこなわれる。そういう、いわば古典的スタイルでかっちり作られた劇が、むしろ新鮮に映る。

役者もまずまず。鈴木瑞穂のドクター・スローパーは現在の新劇人としてのそれらしき存在感を感じさせる適任者だし、主役のキャサリン・スローパーを演じる土居裕子もなかなかの好演だった。ヘンリー・ジェイムズの小説が原作の往年の有名なハリウッド映画の舞台化で、ドクターはラルフ・リチャードスン、キャサリンがオリヴィア・デ・ハヴィランド、キャサリンに求愛するアーサー・タウンゼントがモンゴメリイ・クリフトという配役が、いかにも絶妙であったことがこんどの舞台を見ながらでも改めてわかる。

場面は一場面に限定され、すべては言葉、言葉、言葉で成り立っている劇というのが、ひとつのテーマをめぐる人物の応酬を通じて執拗に追求する、求心力をもつドラマを成立させるのにいかに適切であるかがよくわかる。また、ヨーロッパ・アメリカという世界が、たとえば「愛とはなにか」といった問題について執拗に考えるということが成立しうる精神風土をもつ世界であることを、つくづくと思わずにはいられない。

こういう風土こそ、日本にはないものだった。明治大正以来の近代文学の作家たちの中の一部が追求しようとして、そのためにはまずそういう風土を作品の中に成立させようとして、くたくたになってしまった。漱石が『明暗』あたりでしこしことやって、胃の持病を悪化させて死んでしまった。(その続編を『続・明暗』として完成させた水村美苗が海外で日本文学を耽読するという少女時代をもつ人であったというのは暗示的だ。)

この劇でも、スローパー父娘と求婚者が、結婚において愛とは何か、財産とは何かという問題をめぐって議論し、駆け引きをし、応酬する。愛という抽象的な思念と、財産という現実的な問題とが、絡まり合いつつ思弁を一層深めてゆく。ヘンリー・ジェイムズは19世紀のアメリカとイギリスの精神風土の中で往来したが、この正月に見たジェイン・オースティン原作の映画『プライドと偏見』にしても、グレアム・グリーンの小説の映画化『愛の終り』にしても、こうした精神風土がなければ生まれなかっただろう。

もちろんこんなことをいくら考えたところで、正解があるわけではない。キャサリンが、自分が相続する財産が第一の目的だった求愛者の愛を拒まず、数年後にこんどは愛こそが第一と悟ってふたたび現われた男を拒否するという結論が、絶対の正解かどうかはわからない。しかし彼女は、そのように考えるしかなかったのだ。つきつめれば、自我とそれを存立させるプライドの問題である。

さてひるがえって、『小判一両』の浪人小森孫市は、なぜ死を選ばねばならなかったのか。私の見るところ、この作品は極めて西欧劇の古典的な構造と相似形の構造をもった作品のように思えてならない。人情話の体裁をとった思弁劇なのだ。

随談第108回 観劇偶談(その49)

国立演芸場の中席に桂歌丸が人情噺「小判一両」を出すというので聞いてきた。ついこのあいあだ、歌舞伎座で当代の菊・吉でやったばかりの、あれである。

作者の宇野信夫がつとに人情話に書き直して、NHKでわざわざ長講一番を企画した番組で円生がやったのをリアルタイムで聴いたことがある。わたしの知るかぎりではそれ以来のことであり、高座で話すのを聴くのもはじめてだ。

歌丸は、夏につづけている「牡丹燈篭」や「累ケ淵」もそうだが、円生によく学んでいるとおぼしく、この「小判一両」もそうだった。かなりストイックに円生の特徴をよく取っていて、きわめて辛口の語りである。しかし、自分の語り口を確立している噺家の話を聞くのは、もうそれだけで気持がいい。敢えてちょっと大仰にいえば、こういう日本語を「語る芸」として聞けるというのは、そのことだけで、現代の日本でできる実行できる数少ない贅沢のひとつといっていい。

最近は、大阪弁をはじめとする方言がもてはやされているが、近代の東京でかつてはぐくまれたこうした言葉が、私などには最も近しく、もっとも胸と肚に染入る、もっともなつかしくも親密な言語なのだ。それは、かつての江戸弁ともちがうだろうし、いわゆる標準語ともちがう。歌丸の語り口には、そうした言葉が、現役として生きている。

ところで歌丸の語る笊屋の安七も浅尾申三郎も、菊五郎や吉右衛門が演じたそれらの役よりも、はるかに辛口である。その言葉も、その言葉が作り出す人物像も、辛口というだけでなく、苦味をももっている。菊五郎の安七は、気のいい、ちょっと可愛らしげな人物だってが、歌丸のは、もとはぐれてばくち打ちになったこともあるような、そうしてそこから足を洗った過去を苦味として、自分を律しているところがある。因業な凧売りをなだめたりすかしたりして頼むところが、そうした、この男の生きてきた、この男の背負っている人生をもおのずから語っていて、とりわけ圧巻だった。

さてこの話、この芝居がむずかしいのは、貧窮の浪人者の小森孫市がなぜ自害をしたかを、いかに演じ、いかに見せるかにある。芝居だと、説明めいたセリフを役者に語らせるわけにいかないからどうしても曖昧になりがちだが、噺だとその点、もっと明確に人物の口から語らせることができる。しかし歌丸のすぐれているのは、単にそれだけではない。それを安七に語って聞かせる申三郎の、またそれを聞く安七という人物が、彷彿としてくるところにある。

孫市が自害したのは、それまで自分を支えていた自負の拠りどころを見失ったからである。安七に、自分の顔、自分の姿を見ざるを得ない鏡を差し付けられ、自分では気づいていなかった(気づこうとしなかった)、他者の目に映じている、自分の姿を客観視させられたからである。自負というものは、自分の内面だけでは完結できない。他者との関係の中ではじめて存立し得る。孫市の自死は、そういう人間のあり方を語っている。

などと、むずかしい理屈をならべたくなったのは他でもない。ついその前日に、俳優座劇場でヘンリイ・ジェイムズの「女相続人」を見ながら、同じようなことを考えた後だったからでもある。というわけで、次回はその「女相続人」のおはなし。

随談第107回 観劇偶談(その48)こんぴらかぶ記(下の巻)

「歩み」という古い劇場用語がある。本花道と仮花道をつなぐ、いわば第三の花道である。『沼津』で重兵衛と平作が客の間を歩くとき、いまは一階席の後方にある通路を使うが、金丸座のように「あゆみ」があればそこを通るわけだ。出方やお茶子もそこを通る。花道も、幕間には客も使う。前にも言ったが、すべては桟敷の仕切りの枠の延長なのだ。このことが生み出す臨場感や役者との距離感というものは、改めて考えるに値する。相撲だって、桟敷で見る一体感というものは想像をはるかに超えたものだ。

コクーンの『四谷怪談』で、小仏小平が秋山たち追われて逃げるときなどに、桟敷席に見立てた客席を通ったりするのも、同じ効果を狙ったものだろうが、『まかしょ』で三津五郎が花道で踊るときの客席の湧き方というのも、椅子席の花道ではおそらくないことだ。

幕間に見ていると、見知らぬ同士だったらしい客が、前やうしろの人とおしゃべりをはじめている。椅子席だったら、すぐ前ならまだしも、ふたつ前や後ろ同士で、赤の他人だったのがなかよくおしゃべりを始めるなど、ありえないに違いない。プログラムを持たない客が、持っている客に、おかる役の亀治郎の素顔の写真を見せてもらったりしている。

さてその亀治郎のおかるが大当たりである。正月には浅草で同じ『忠臣蔵』五・六段目の千崎をやったが、情感も豊かな上に、引き締まっている。こんどの亀治郎は三つの狂言で大役ばかりの大奮闘だが、そのどれもがきっかりした出来なのは驚嘆に値する。お国、かさね、「六段目」のおかる、どれもに共通するのは、一途な思いの中に自分を生かしきろうとする意志を感じさせる点である。そこに亀治郎の役への共感と、それを表現する集中力の強さが生きている。いまの時点で不足があるとすれば、葛城にやや華やぎが乏しいことだが、それを占う意味からも、こんどは「七段目」のおかるを見てみたい。

海老蔵の勘平は、仁・柄・風情、すべて申し分ないが、惜しむらくは、やはりこの人のセリフの癖について言っておかなければならない点があることだろう。荒事の場合だと、それもまたひとつの行き方かと思わせるものがあるとしても、とりわけ丸本物の場合には、やや奇異なイントネーションと、とくに語尾の音程の不安定さは、義太夫をきちんと稽古することを通じてなおすべきだと思う。

父親の團十郎も、若いころよくセリフの難を言われたものだが、海老蔵のはそれとは違う性格のもののような気がする。團十郎は、自身の努力もあるが、もうひとつには芸容の立派になるに従って、あまり気にならなくなった。海老蔵が、これさえ克服した暁は、まさしく鬼に金棒というものだ。前回書いた「鞘当」の睨みなど、それだけを見るために金比羅まで出かけてくる価値があるといっても過言ではない。

三津五郎が『朝妻船』から『まかしょ』に変わる踊り二篇は、もう本当に名手の妙手を愉しむ幸福というに尽きる。私は残念ながら七代目は見ていないが、八・九・十代目と三代にわたって見てきて、大和屋の踊りの風という点から、七代目もある程度想像はつくつもりである。三津五郎の踊りをみる愉しみは、当代自身の芸だけでなく、それを通じて、大和屋代々の芸の魅力をも、重ね合わせて愉しむ贅沢さにある。

随談第106回 観劇偶談(その47)こんぴらかぶ記(中の巻)

段四郎といえば、この二月の『道明寺』の宿弥太郎が素敵な出来栄えだった。仁左衛門の木彫の菅丞相もなかなかよかったが、宿弥太郎もまるで木彫りの質感さえ感じさせるようなおもしろさだった。そもそも太郎のあの人形芝居そのままのような扮装は、同じような姿の『阿古屋』の岩永が人形振りで演じられるように、人間離れした感触を必要とすればこそ、考え出されたものにちがいない。段四郎のあの宿弥太郎をこの金丸座で見たらどんなに面白いことだろう。谷崎潤一郎が見たら涙を流して喜ぶかもしれない。

さて段四郎氏と別れて『かさね』が始まる。海老蔵の与右衛門に亀治郎のかさねである。この踊りは、知られているように大正歌舞伎が復活したものだ。当然、照明の使い方も、近代的な照明設備のととのった大劇場を想定して考えられている。それを、金丸座でやるとどういうことになるか。興味の半面、別の意味での懸念もあった。

だがそうした懸念は幕が開いて何分もしないうちに掻き消えた。「山三浪宅」もそうだったが、両脇の板戸を全部閉めて場内を暗くする。その闇の感覚が、歌舞伎座や国立劇場で「照明を落し」て作り出すのと、決定的に違うのだ。もちろん金丸座とて、蝋燭の照明は使えない。この決定的な違いがどこからくるかといえば、電気を全部消せば(停電になれば)おそらく無機的な意味で真っ暗闇になってしまう鉄筋コンクリートの大建築と、板戸をあけ放せば自然光が入ってくる木造の劇場構造の違い以外にはない。

「山三浪宅」のあと、板戸も障子も開け放って外気が流れ込んできたときの爽快さというものはなかった。雨上がりの後に晴れ上がったために、やや蒸し暑かったせいもあるが、流れ込んでくる風の心地よさというものをあらためて知った。

それで思い出すのは、昭和三十年ごろ(つまりあの『三丁目の夕日』の時代である)、東武東上線で池袋の次の北池袋駅の線路際に北映座というちっぽけな三流の映画館があって、中学生だった私は、東映と松竹と東宝の映画をそれぞれ三週遅れで三本立てで見せてくれるのでよく通ったものだった。錦之助千代之介の『笛吹童子』(これが東映)に木下恵介監督の『女の園』(これが松竹。田村高広の映画初出演である。父の阪妻が死んだのでむりやりひっぱりだされたのだ)に『ウッカリ夫人とチャッカリ夫人』(これが東宝)というような、じつに不思議な取り合わせになったりする。ところでこの映画館は、休憩時間になると片側の板戸をはずして、金丸座と同じように風を入れ、縁台を出して客を休ませていた。つまり昔の芝居小屋の構造は、都内でも二流三流の映画館には受け継がれていたのだ。

さて閑話休題として、この『かさね』は期待にたがわぬものだった。亀治郎のかさねはお国ともども屈指の適役だろうし、海老蔵の与右衛門も、持ち前の集中力で異能ぶりを魅力に転換するのにもって来いの役といえる。

それにつけても、海老蔵が仮花道からダダダダッと駆け出してきたときの興奮というものはなかった。臨場感だの迫力だのと(いえばそういう言葉を使うよりないのだが)言うのがあほらしくなる。花道は、出の瞬間には桟敷の枠と同じ高さであり、間に通路というものがないから、そもそも客と役者を隔てる空間というものが存在しないのである。

随談第105回 観劇偶談(その46)こんぴらかぶ記(上の巻)

11、12日の両日、こんぴら歌舞伎を見てきた。前日は東京もそうだったように、四国も三月のような寒さだったとのことだが、一泊して二日がかりで見た両日は、さいわい春らしい陽気に恵まれた。もっとも朝羽田を立つときは、高松空港の天候次第で伊丹に降りるかもしれないなどとおどかされたが、前日にはじっさいに伊丹に着陸ということがあったと聞いた。讃岐は霧の多いところらしい。

昼前に着いた当初は時おりぱらぱらと落ちてきたりしていたが、やがて晴れて、桜もちょうど見ごろ、金丸座へのぼってゆく中腹にある、いまは公民館になっているが元は由緒ありげな神社だったとおぼしい建物の庭の桜はひとしお風情があった。聞けばつい先日、そこで出演者・スタッフ等でお花見をしたとのこと。

まず『比翼稲妻』。三津五郎の山三、海老蔵の不破、亀治郎のお国に葛城という配役は、聞くだに魅力的だが、金丸座の空間で見るとひときわ、南北劇の中でも私がとりわけ気に入っている、奇あり怪あり、諧謔あり洒落あり、人の世を直視しながら斜めに見ているような、関わりながら達観しているような、悠然としながらとぼけているような、回り灯籠を眺めているようなこの作の面白さを改めて知ることになる。「山三浪宅」の雨漏りに傘をさす場の、いかにも珍奇でありながら自然な、リアリズムなどということとは全然違う演劇観のつくりだした異空間の「真実味」。そう、歌舞伎という異空間が、同時にきわめて自然なものとしてそこにあるのだ。

あとで三津五郎に話を聞くと、先年国立劇場でこの芝居を出したときから、金丸座でやることを考えたのだという。国立の舞台空間の水っぽさは誰しも言うところだが、三津五郎の読みはまさしく的中したというべきである。お国と葛城の明と暗とが交錯して、その後にくる「鞘当」の美しさ。いわゆるチョン・パで舞台がいっときに明るくなる、だれでも知っているその華やぎに、歌舞伎座や国立劇場で見るのとはひと味、いやふた味三味違う、明のなかにかすかに揺曳する暗の匂いがなんとも言えない。

三津五郎の二枚目ぶりに中に漂う和事味は、国立劇場で見たときも魅力的ではあった。だがここで見ると、その和事味の熟れ具合がぐっと深まって見える。亀治郎のお国の可憐の中に秘めたひと筋の自尊は、予期にたがわぬしなやかさと強靭さを併せ持っている。葛城の傾城ぶりも、もうすこしあでやかに咲こぼれるようになればいうことないが、金丸座独特の明度の中で見ると、まだ咲ききらない花なりの美しさがある。

なによりも驚いたのは、「鞘当」で不破がかっと目を剥いたときの海老蔵の睨みの凄さである。これこそ、金丸座でなければ見られないものだ。「明」の中に揺曳する「暗」の匂いとさっき言ったが、まさしくその賜物である。

幕間の廊下で思いがけなく段四郎氏と出会う。そのまま長々と立ち話をするなどということも、こういう時、こういう場所ならではだろう。金丸座ははじめてだという。もちろん亀治郎パパとしての「父兄参観」なのだろうが、劇場としての金丸座にも興味津々らしい。宙乗りもできるそうですねと言う。やっぱりオモダカヤである。

随談第104回 「1周年目のブログ」(その2)

前回の終りに、文章というものは本質的に他者に対してなされるものだ、と書いた。他者に対して、ということをもう少し正確にいえば、他者との関係の中で、ということになる。読者を想定しないと文章というものは書けない、と言ったのも同じことである。

読者を想定するといっても、べつに具体的な誰それという意味ではない。現に私は多くの場合、不特定多数という、顔の見えない大勢の読者を相手に書いている。仮想というなら、あくまで仮想に違いない。そういう、何らかの仮想を成立させることで、文体というものが定まるのだ。(それは、手紙のような具体的な相手の定まっているものとは、おのずから異なる文体になる。未知の相手に出す手紙が書きにくいのは、この仮想が定めにくいからで、ふつうの手紙の文体というのは、具体的に定まった相手に向かって書くようにできている。)

文体論の講釈をはじめるつもりではない。批評、とりわけ劇評というものを、インターネットを通じて書くことに、私はまだ若干のためらいを感じているが、そのことの意味を考えてみようとしているのだ。もしかしたら、そのためらいは、単に私がまだインターネットというものに馴染みきっていないからに過ぎないのかもしれない。既に「観劇偶談」という形で書いているのも劇評ではないかと言われれば、そうでないとは言えない。あれを書くのと、新聞や雑誌に書くのと、どれだけ違うのかと問われれば、明確な答はたしかにむずかしい。

「偶談」としたのは、いま以上にインターネットというものに不慣れだった一年前、手探りで読者を仮想しようとして思いついた、ひとつの方法でもあった。「偶談」という言葉にすでに表われているように、そこにはやや、話し言葉のニュアンスがある。少なくとも、筆を手に持って原稿用紙に書くときよりも、指先でキーを打つとき、スポークンの感覚に近いものを感じるのだ。指でキーを打つのはワープロでも同じことだが、決定的に違うのは、インターネットの先には、剥き出しの世界が直結している点だ。

私は自家用車の運転というものをしないが、何故しないかといえば、同じ乗り物でありながら、電車やバスやタクシーと違って、ハンドルを握る自分の手がそのまま、剥き出しの世界とじかに向かい合っていることを、恐ろしいと直覚するからである。これは、事故を起こしたらどうしようというような理屈以前のことだ。飛行機がこわいというのとは、まったく意味が違う。そうして、筆で紙に書くのと、インターネットのキーを打つのの違いは、どこかそれに似ている。

そうはいっても、もう既に、私の指先はキーを打つことにかなり馴染んでしまった。すでに一冊分、本も書いている。(出版はまだだが。)馴染みつつも、まだとまどいがあるのは、原稿用紙だと、いま何枚目を書いているという自覚が、全体の構成や論の運びを自ずから直感的に決めていけるが、それに変わる感覚がまだつかめずにいるためもある。このブログにしても、とりあえず「ワード」の一枚分ときめているのは、その分量を書くことで、ひとつの感覚ができつつあるのを感じるからである。

随談第103回 随談の随談「1周年目のブログ」

このブログを書きはじめてちょうど1周年になった。ホームページというものがどういうものだか、ブログというものにどんな面白みがあるのか、ろくに知らないままにはじめたのだから、まったくの無手勝流である。あんまり他人のホームページを覗いたりもしないから,ほかの人たちがどんなやり方をし、どんなことを書いているのか、いまもほとんど知らない。

私は、これまで新聞とか雑誌というメディアを通じて、原稿用紙の升目をうめるという書き方しか知らない人間である。読者というものは、そういう形(というか、関係というか)でしか、想定できない。読者を想定しないで、文章というものは、私は一字も書けない。結局、私の場合、いつも原稿用紙に書くのと同じように、私にとっての不特定多数の読者を想定して書くよりないことになる。

ただ、新聞や雑誌とは違う、新たな読者(というより読み手といった方がいいかもしれない)が得られるかもしれないという期待のようなものはあった。丸一年でアクセス数が1万6千強という数字が、多いのか少ないのかわからないが、やや希望的な見方をすれば、このブログを通じての読者も得られたのかもしれない。少なくとも、その日その日で増減はあっても、ある一定の数字が毎日増えてゆくのを見るうちに、わずかでも手ごたえのようなものが感じられるようになったのは確かだ。はじめる前には知らなかった面白みを知ったことは、少なくとも間違いない。

もうひとつ、始めた動機として、書きたいことを自分の方から開拓していければ、ということがあった。メディアを通じて書くことは、いわばお座敷がかかってはじめて芸をする場ができるわけで、基本的に受身の仕事である。ある一定の場に一定の注文があって、それに応じて書くわけだ。あいつに書かせよう、と思ってくれる人がいるということは有難いことだが、しかしそれは、書かせてくれる側の想定内にあることに限られざるを得ない。それ以外に書きたいこと、書いてみたいジャンルがあっても、そもそもそれは、自分以外の誰も知りようがないことだ。

いまのところ、野球や相撲や映画のことを随談風に書いているだけだが、最近はじめた「時代劇映画50選」のように、まとまった形にまとめるやり方ももっと試みていきたいと思っている。インターネットで歳時記を作っている人もあるそうだが、知恵をめぐらせればまだいろいろネタもやり方もありそうな気がしている。もちろん、「演劇評論家上村以和於オフィシャルサイト」と謳っている以上、芝居に関しても、いまの「随談」形式以外の試みもやってみたい。

それにしても、仮に劇評を書くとして、批評の文章というものが、新聞や雑誌に書くときとまったく同じに書けるものかどうか。はじめに書いたように、不特定多数の読者という想定を、どれだけ手ごたえあるものとして確信できるかという問題と、これは関わってくる。純然たる心覚えのためのメモのようなものは別として、文章というものは、本質的に、他者に対してなされるものだからだ。