随談第26回 観劇偶談(その10)

池袋の新文芸座で美空ひばり映画特集が2週間ほどあったので、2日ほど覗いてきた。メニューは一日二本立てで日替わりなので、その日都合がつかなければそれっきりである。

橋蔵・雷蔵・錦之助を相手にした『笛吹き若武者』『お夏清十郎』『ひよどり草紙』の3作を見ることが出来たから最小限度のお目当ては達成したわけだが、(ついでに『大江戸喧嘩纏』という橋蔵ものも見たが不出来な作だった。せっかくの機会なのだからもう少しマシなものはなかったか。たとえば東千代之介との『振袖競艶録』というのは実は『鏡山旧錦絵』を踏まえていて、ひばりのお初に千原しのぶの尾上、浦里はるみの岩藤という三役揃った配役は、これほどの柄と仁の揃うことは歌舞伎でだってそうざらにはないだろう)、『伊豆の踊り子』『お嬢さん社長』(佐田啓二が相手役だ)という松竹時代の作品が見られなかったのがちょいと心残りである。

昭和28,9年、ちょうど娘盛りになったころのひばりというのは、大家になってから後のイメージからはちょっと想像しにくい、高音のきいた歌声とともに、単に懐かしいだけでなく、「別のひばり」になり得た可能性を持っていたと思う。深尾須磨子がひばりのために作詞をした『日和下駄』とか、『お針子ミミイの日曜日』などという和風シャンソンを歌ったり、ひばり生涯のうちの「短日の秋天」の趣きがある。

『伊豆の踊り子』は野村芳太郎若き日の佳作だが、この中でひばりが歌う「三宅出るとき誰が来て泣いた、石のよな手でばばさまが、マメで暮らせとほろほろ泣いた、椿ほろほろ散っていた」で始まる曲は、何故かあまり喧伝されないので知る人もすくないようだが、ひばりの歌と限らず、日本の歌謡史という視点に立ってもユニークな名曲だと思う。短い旋律を繰り返し歌いながら、微妙にヴァリエーションがきいてゆく具合が絶妙で、ひばり歌謡としても屈指の名歌唱と、私はひとりひそかに信じているのだが・・・。ちなみにこの歌の最後は、「絵島生島別れていても、こころ大島燃える島」というのである。

ところで、『笛吹き若武者』と『ひよどり草紙』は大川橋蔵と中村錦之助のそれぞれ映画デビュー作だが、いま見ると、こんなに幼かったかなという感は否めない。それに比べると雷蔵は、デビュー作でこそないがデビューの年の作品であることを考えると、驚ろくほど、すでに大人の芸になっている。大店の手代としての清十郎にはさすがに上方歌舞伎の役者らしい和事味があるし、途中から流刑になって、島抜けをして戻ってくるという与三郎みたいな凄味な男に変貌するのだが、そのあたりも冴えている。はじめから幼さというものがない。これは雷蔵論に直結するものだろう。作品としても、あとの二作よりも出来がいい。

しかしそうはいっても、たとえば橋蔵の平敦盛が、一の谷で熊谷直実(大友柳太朗である)に呼び止められ、渚に引き返してくるあたりの優美さはハッとさせるものがあるし、錦之助の前髪立ちの若衆ぶりというものは、まず真似手がない初々しさと、奥に猛々しさを秘めた優美がある。これは橋蔵にも雷蔵にもないものだ。

ひばりをダシにした感もあるが、三人の原点を確認できたことは大収穫だった。

随談第25回 日記抄

年に一度の邂逅。名づけて「夏至の会」という。

かつて私は翻訳家、でもあった。今を去るざっと二十有数年のむかし、文春文庫が海外ミステリーをその一角にでんと据えた。いや、据えようと試みを始めた。始めたのは、その頃文庫部に着任した堀江礼一氏で、何か新しいことを始めたいと志したのが一切のはじまりであった、と私は理解している。その時点で、氏はその方面のことにはまったくの白紙状態であったはずだ。人も知る通り、文春文庫の海外ミステリーはいまも隆盛だが、その創成期の話である。神話伝説の時代といってもいいが、すべての種はここで蒔かれたのである。

最初の五冊。一冊につき五万部も出したのだから,いまと世の中が違うとはいえ、豪勢な話である。が、売れなかった。思うほどには、という意味だが。あの五冊は人柱だ、とやがて言われることになる。その五冊の中の一冊を、私が翻訳したのでありました。

人柱の甲斐あって、ほどなくシリーズは定着し、隆盛となった。その間の堀江氏の努力のほどはすさまじいもので、隆盛の基(もとい)がその努力によって築かれたのであることは、この業界で知らない者はないはずである。いくつもの新機軸が、いろいろの面で打ち出されて、それもこれも氏のアイデアの産物だった。しかしこういったことについては、私よりももっと詳しく且つ適切に、やがて語る人があるだろう。

ところで「夏至の会」だが、やがて堀江氏が他の部署に転出するまでに手がけた作品の訳者たち、ざっと十余人いるのだが、その連中と氏との間に別れがたき思いがおのずから沸いて出て、せめて年に一度会うことにしようということになったのが始まりであった。その最初が、折からたまたま夏至の頃であったので、毎年七夕ならぬ夏至のころに一夕を共にするという意から、その名がついた。

別に何をするのでもない。うまいものを喰ってうまい酒を飲みつつ歓談・閑談をする。ただそれだけである。商売がらみの話はその場では一切しない。だれが決めたともなく、そういう不文律がおのずから醸成された。一番肝要なのは、何を喰いながらかということで、そこで毎回事前に、堀江氏ほか一名が交代で、物見役として会場をきめる下検分をすることに、これはみなの合意で決まった。

以来四半世紀。その間、さまざまな変動がおのずからあり、関わり様に濃淡深浅ができるのは当然だが、ごく一部の例外を除いて、みずから離れていってしまったという人はいない。私のように、翻訳家でなくなってしまった者でも、一度の例外を除いて皆勤している。(「勤」はおかしいか。)

今年も、その年に一度のたのしみが、ついこの前の週末、もようされた。出席者は七名。みな変わりはないが、変わった点といえば、頭髪の黒白と濃薄のおのずからなる変容と、食べる量の若干の変化、ぐらいのものか。

随談第24回 観劇偶談(その9)

新国立劇場でベルリナー・アンサンブルの『アルトウロ・ウイの興隆』を見た。おもしろかった。ときにくどいような部分もあるが、概ね快適なテンポで進む。ハイナー・ミュラーの演出はブレヒトが作中に指定したことからかなり自由なであるらしい。しかしいまここに書こうと思うのは、主役アルトゥロ・ウイを演じるマルティン・ヴトケの卓抜な身のこなしと動きである。鍛え上げた訓練を思わせる連続技とスピード感がすばらしい。

ナチスの興隆をシカゴのギャング団の青果業界乗っ取りという卑小な話に視点をずらしておちょくり戯画化するのが作意だから、アルトゥロ・ウイなる小男のギャングがヒットラーのカリカチュアであるわけだが、ソックリさんを演じるということは取りも直さず「批評」を演じることでもある。つまり、ある距離感を感じさせながらソックリさんを演じ、しかもそれは「熱演」でなければ少なくともヒットラーにならない。そのあたりの計算が素敵に的確である。

前半、アアこの男がヒットラーなんだなということを、観客万人に分らせる、というか、観客がそれと実感するのと、卓抜な身のこなしで動き回るヴトケの演技を通じて確信してゆくのと、観客がどんどん乗っていくのが相乗し、舞台と客席のボルテージが高まっていく。そこのところが絶品だった。

新国立中劇場にこういう芝居を見に来るほどの観客に、もちろん、このブレヒトの戯曲がいかなるものであるかぐらい、知識として知らない者はないだろう。しかしそのことと、芝居として目の前で演じられているものを高揚を覚えながら実感し、「面白い」と感じることとは別のことである。そうしてそうでなければ「芝居」ではない。歌舞伎批評風にいうと、つまりこれは、ヴトケの「芸」である。

ヒットラーのソックリさんを批評的に距離をもって演じたといえば、だれでもすぐに思い出すのはチャップリンだし、じじつチャップリンに似たところもあるが、しかし私に言わせれば、その似たところというのは、「西洋人」というものの身のこなしに共通するもので、もちろんそれはそれでおもしろいには違いないが、どちらかといえば、自然的なものだろう。つまり西洋人の俳優がたくみにヒットラーのソックリさんを演じれば、誰でも共通したものが出てくるに違いない。

それよりも、私が、似ている、と直感し、面白いとおもったのは、ヴトケがエノケンに似ていることだった。間というか、それが図ってするのではなくて、目一杯に身体を張って熱演している内に、一種のヴォリュームとして共通するものが立ち現れてくるのだ。そこの具合が、じつに面白い。

それにしてもこの日の新国立中劇場の客席およびロビーというものは、じつにインテリ顔標本室さながら、知識人ふうの人たちで充満していた。ほうぼうの大学のドイツ文学研究室が総見にきたかと錯覚するほどだが、もっとも、考えてみれば日本中のドイツ文学者を集めてもこれほどの数にはならないかも知れない。新橋演舞場や明治座のロビーや、つい翌日、美空ひばりの映画特集を見に行った池袋の新文芸座の客席とは大違いである。

随談第23回 上村以和於相撲噺(その3)

しばらくブログを書く暇がなかった。前回は、中学生のころ、日曜日には都電に乗って当時は蔵前にあった国技館へ通ったというところまで、話が進んでいたのだった。

36番線というのが大塚駅前から厩橋まで通っていて、当時西巣鴨に住んでいたので、これに朝始発間もないのに乗ると、最初の取り組みから全部見ることが出来る。弁当持ちで出かければ、交通費が往復20円、(当時もりそばが20円だった)、あとは芝居でいえば天井桟敷の大衆席。取り組み表は座方の兄イが放ってくれるから、つまり無料である。

当時栃錦が気鋭の大関。初代若乃花は小結に取り付いて三役に定着しようとしていた。ふたりともいまなら90キロ台だったろう。若乃花をはじめて見た日、48貫と号していた東富士を上手投げで倒したのを覚えている。その頃の若乃花はまだ細っこくて、一見やさ男風(先の貴乃花の初優勝のときの写真が先日来何度もテレビに出たがそっくりだ)でありながら、控えに座って天井を見上げたり、ふてぶてしいが格好いい。国語の文法の授業が退屈なので真似をしていたら、中高年の女性の先生だったが、物凄い剣幕で叱れてしまった。

大横綱羽黒山の最後の一番というのを、そうやって見ている。激戦地ガダルカナルからの帰還兵で六年もの空白を経てのしあがってきた、のちに荒法師と仇名がついた玉の海の外掛けに背中から崩れ落ちた。これが二日目で初日も琴錦の速攻に敗れていたから、(当時は土曜日が初日だった)それを限りに引退したのだった。

羽黒山はそれよりもっと前、いまの神宮第二球場のところにあった野天の相撲場で本場所をやったときにも見た記憶がある。終戦直後の苦難の時代を、もうひとりの横綱照国とともに、大相撲を支えた功労者である。それでいて、金剛力士の如しといわれた羽黒山と、相撲人形のような照国は、見た目も取り口もすべて対照的で、それぞれに風格があって、私にとっての横綱像の原点である。双葉山から栃若・柏鵬へと飛んでしまう現在の相撲史観はぜったい誤りで、その間に羽黒・照国時代を入れるべきである。記録だけ見たってこういうことは判らないだろう。

さて蔵前国技館だが、神宮だの浜町公園だのを転々とした挙句に当時建ったばかりで、白壁に黒い屋根のついた数奇屋風で、いうなら歌舞伎座などとも共通する和風の建物だった。いまの両国国技館は、いまのシアターXの場所にあった戦前の国技館のイメージを再現した、つまりドームが名物の洋風建築である。蔵前にも独自のよさがあったと思う。

何よりよかったのは、相撲がはねた後、関取衆も見物の雑踏の中を帰っていくことだった。場外にある売店から、店のおばさんと談笑しながら千代の山がぬっと出てきたときのときめきは今も忘れない。こっちでは付け人がタクシーを止めている。さてはと思って見ていると、40貫もある横綱の鏡里がなんと小走りにやってきて乗り込んだ。タクシーがぐらぐらっと揺れる。オオ、と群集がどよめく。おすもうさん、という言葉が最近あまり聞かれないが、親しみと尊敬とが入り混じった、いい言葉だと思う。野球やサッカーの選手ではこうは行かない。だが館内の地下駐車場から車に乗り込んでしまったのでは、あの親しみは持ちようがないだろう。

随談第22回 上村以和於相撲噺(その2)

>前回のおわりに触れ太鼓の話が出たが、今年に入って正月と五月、二度も触れ太鼓に行き合わせるという幸運にめぐまれた。

前にもチラッとふれたが,毎月一回、神田は連雀町の老舗の御汁粉屋の二階座敷で、「白塔」という連句の会をもうざっと二十年来やっている。ハクトウと表向きは読んで、じつはシロウトと裏読みをするのだが、土曜日の午後から宵にかけて開く。ちょうど暮れなずんできた頃おい、触れ太鼓の音が聞こえてきた。アッと思っているうちに、そのあたり一帯、藪蕎麦だの鮟鱇鍋だの、有名な老舗が並んでいるのでほうぼうへ立ち寄って行くらしく、太鼓の音があっちへ遠ざかったかと思うと、こっちから不意に聞こえてきたりする。そうこうする内に当の汁粉屋に入ってきたらしい。当然のように、同人一同、句作は一時中断して階下へ降りる。

つまり触れ太鼓とは、初日の前日、土俵祭りという神事をやって無事を祈った後、呼び出しが太鼓を差し担いにかついで、撥音も勇ましく太鼓を叩きながら街を練り歩き、ひいき先を廻っては明日の取り組みのいいところを読み上げるのである。ひと頃までは、各新聞の夕刊に必ずのように写真入りで触れ太鼓の記事が載って、初場所なら初場所、夏場所なら夏場所と、季節の風物詩になっていたものだ。

すばらしかった。店には若い女性客などもかなりいたが、みんな大喜びだった。たぶん彼女たちはふだん相撲のテレビ放送など見ないだろうが、いいものを見たと思ったに違いない。わが同人も、みな感激の面持ちだった。もちろん、ほんものを生で見、聞く臨場感のなせるわざなわけだが、つくづく思ったのは、こしらえて、練り上げた声というものがいかに素晴らしいかということである。歌を聞いても、ドラマを見ても、芝居でさえ、地声で歌い、セリフをいうのが当たり前になってしまった現代だが、もちろんものにもよるが、そればかりというのは味気ない。

団菊爺いや菊吉じじいのデンでいけば私などは相撲に関しては栃若じじいなわけで、それしきの口を利くなら、それこそ前回書いた小鉄などに比べたらイマドキノ呼び出しなど問題にならない。にもかかわらず、この触れ太鼓はすばらしかった。とりわけ夏場所前日の、都会の中にも夏来たるらし、といった薄暮の中でのそれは、舞台効果もよくてじつに感動した。たぶん、ちょっと忘れがたい記憶として心に留まるだろうと思う。

あとで聞けば、相撲協会は今年から触れ太鼓を復活したのであるらしい。そうか、いままでやっていなかったのか。この情報時代の世の中に触れ太鼓なんて、というような考えからもしやめていたのだとすれば、とんでもない勘違いというもので、インターネットで情報が飛び交うこういう世の中だからこそ、触れ太鼓のようなアナログ感覚のPRが、かつてとはまた違う有効性を持ちうるのだ。だから触れ太鼓の復活は、決して単なる懐古趣味などではない。ともあれ復活してよかった。

中学生のころ、というのは栃錦の大関時代だが、日曜日には都電に乗って蔵前国技館へよく行った。相撲が跳ねて、雑踏の中を関取が浴衣がけで帰る姿の風情ったらなかった。

随談第21回 上村以和於相撲話(その1)

野球噺につづく相撲噺だが、もっともいま話題の花田家騒動は、私にとっては二重の意味で遠い話である。そもそもいわゆる若貴兄弟なるものが私にはあまり興味を持ちにくい相撲取りだったし、その父親の、つまり先の貴乃花よりそのもうひとつ先の初代若乃花の方がはるかに懐かしいし、さらにいえばその若乃花よりも栃錦の私はファンだったのだ。

そうはいっても、もちろん先の貴乃花もいい相撲だったことは、死去のニュースが伝わるやテレビに流れた現役当時の取り組みのビデオを見ても間違いない。とりわけNHKの特集番組で流したのは、かつて引退のときに作った特集番組の再生で当時見た覚えがあるが、あらためて見て、再確認という以上の再確認をした。栃錦が死んだときもさかんに映像が流れて、そのスピード感と力感と技の切れ味の鮮やかさにあらためて酔ったが、貴乃花を見ても、力感とスピード感が一体のものであったことは共通している。

要するに、身体の隅々まで神経が行き渡っているのだ。その感覚が、見る者を興奮に酔わせるのだ。そういう感覚を味あわせてくれる現役力士といえば、朝青龍しかいない。しばらく相撲に興味を失いかけていたが、朝青龍を実際に見てから、身を入れて取り組みを見る面白さがひさしぶりに甦ってきた。あの、じっとしていても躍り出すような躍動感はかつての若乃花と共通したものを感じさせる。もちろん、栃若の、ホントの若乃花である。風貌や、素顔でインタビュウに答えるときの風格や気合に、角力取り、という感じを感じさせるのは、朝青龍のほかにあまりいない。欲にはあそこにもうひとつ、洗練された粋な感じがあればなあ。(そういえば、以前は「角力」という表記を、「相撲」と並んでよくしたものだった。いまは相撲協会が「相撲」という表記に統一しているようにも聞いたことがあるが、それはそれでいいとして、「角力」という表記と共に、ある感覚が大相撲から失われてしまったような気がしないでもない。)

むかしの粋筋で唄われた俗謡に、

おすもうさんのどこ見て惚れた 稽古帰りの乱れ髪

というのがあったそうだが、別にむかしの粋筋の姐さんでなくたって、こういう感覚はいまだってわかるはずだ。栃錦が関脇から大関になったころ、体重は当時はまだ尺貫法で二十七貫とたしかいっていたから、いまなら百キロもなかったろう。そういう身体ではげしい相撲を取ると、髷ががっくりと前に傾く。勝名乗りを受けながら、乱れた髷をすっと首を振って直す。そのときに、男の色気がさっと吹きこぼれる。相撲取りの粋というのはそういうことなのであって、最近でそういう感覚を一番もっていたのは寺尾だったろう。

そんなことが相撲の内容と何の関係がある、と言われればその通りともいえるし、いや、そういうことが大事なんじゃないの、とも言いたくなる。栃若時代から、柏鵬のころまでいただろうか。小鉄という名物の呼出しがいた。独特の高音の、それを聞くだけで陶然となるような美声だったが、たしかこの人が相撲界に入った動機というのは、触れ太鼓を叩いて初日まえに明日の取り組みを呼び出しが触れて街を廻る、その姿に惚れたからだというのではなかったかしらん。

随談第20回 俳優偶論(その2 市川染五郎)

歌舞伎座の『盟三五大切』で、染五郎が八右衛門をやっている。吉右衛門の薩摩源五兵衛の忠僕の役である。まさしく忠僕そのもので、わが身をいとわず主人に尽くすが,源五兵衛が三五郎と小まんにはめられるのをはらはらしながら見守っている。つまりこの一見愚直にみえる人物は、案外にも世間知をちゃんともっていて、それが異常に欠けている源五兵衛を笑う「目」すら、どこかに隠し持っているかに見える。

英語ではそういう知恵をプルーデンスといい、たとえばドン・キホーテにおけるサンチョ・パンサの知恵のようなものである。(そういえば今月、父親の幸四郎が帝劇でキホーテを演じている。)サンチョ・パンサはキホーテをひそかに笑いはしても、軽蔑したり裏切ったりは決してしない。そういう役をやると、染五郎はなかなかチャーミングである。

先月は、勘三郎の髪結新三に下剃りの勝奴をやった。これもある意味では忠僕である。ただしやくざ者だし生意気な男だから、しばしば新三をからかってみせたりする。家主に鰹は半分貰って行くよと謎をかけられて気がつかない新三より先に、謎を解いたりもする。この勝奴でも、染五郎はなかなかチャーミングだった。

さてここからが、染五郎解剖である。八右衛門も勝奴も主人持ちである。少なくともいまは、主人には頭が上がらない。しかしたとえばその頭脳の切れ具合をみても、彼等がそれぞれの主人よりも人間としての実力で劣っているわけではない。もっとも八右衛門の場合は主人の源五兵衛があまりにも異常な男だから、少し話が難しいが、すくなくとも染五郎がやると、八右衛門が源五兵衛を見ている目が印象的である。(以前段四郎がやったときは、八右衛門はひたすらに純朴に主人のためにおろおろする男だった。してみると、あの「目」は染五郎自身の目だったことになる。)

染五郎の目は不敵な目である。不羈な、といった方がいいかも知れない。もちろん染五郎はよき家庭にしつけよく育ったジェントルマンだが、それとこれとは別の話である。しかし敢えてひとつアナロジイをいえば、父の幸四郎という大きな存在が常に頭の上にある。そう考えればまんざら勝奴と似ていないこともない。はじめは新三に勝つことなど思いも寄らなかった勝奴も、新三が鮮やかに弥太五郎源七をへこまして覇者交代をやってのけたまさにそのとき、いままでは見ても見えなかった新三の弱点がくっきりと見えた。染五郎にも、たぶん同じ思いはあるに違いない。

しかし賢明で鋭敏な勝奴は、いや染五郎は、必要もないのにその鋭鋒を新三、いや親の前でひけらかしたりはしない。当分はまだ従順な勝奴でい続けるだろう。いまエディプスのように「父殺し」をやってしまうよりも、もっと力を蓄えよう。そのためには、いつも父とばかりではなく、たとえば叔父といっしょの舞台も踏むこともやってやろう。もしかしたら、そうした外交官的な能力も自分には備わっているのかも知れない。いや、きっとそなわっているような気がする。そうだとすれば、自分のこうした行動のお陰で、父と叔父がひとつ舞台で競演することだってあるかも知れない。

染五郎で見たい役。『フィガロの結婚』のフィガロ。勝奴より似合うかもね。

随談第19回 観劇偶談(その8)

ここ連日、歌舞伎座、国立劇場、坪内逍遥没後70年記念シンポジウム、明治座、コクーン歌舞伎、ラ・マンチャの男という風に、立て続けに、見たり聞いたり喋ったりということが続いた。その中で、コクーン歌舞伎の『桜姫東文章』と『ラ・マンチャの男』を続けて見るという体験をしたことから、ふと妙なことを考えた。

こんどの『東文章』は、串田和美のアイデアで舞台全体が、というより芝居そのものが、見世物小屋に仕立ててある。特に序幕の新清水の豪華絢爛の大道具の代わりに、中央に姫、下手に残月の部下の僧たち、上手に姫の家来のお局たち、と三つの台に分乗させてくっつけたり離したりに苦心のほどが偲ばれたが、さてそうなってみると、『東文章』と『ラ・マンチャ』とが、ふたつながらに同じような構造を持ったドラマだということになる。

『東文章』では、あさひ7オユキが口上役として、別の台にのって登場し、進行役をつとめる。あれをもう一歩、串田演出が鶴屋南北に遠慮しないで踏み出せば、『ラ・マンチャ』が作者のセルバンテス自身が獄中で自作自演しているドラマであるように作り直すことも可能だったに違いない。

だがあさひ7オユキの口上役は、そんなことをふと考えさせたりするかと思うと、イヤホンガイド的な説明役に引っ込んでしまったりもする。桜姫が風鈴お姫になって出戻ってくる「権助住家」などは、装置や照明は変えてあっても、段取りに至るまで芝居はいつもの通りに運ぶので、真意はわからないが大分歌舞伎に遠慮しているようにも見えた。

コクーン歌舞伎は、脚本の中に眠っていて、「型」とか「役柄」とか「仁」とかいった歌舞伎の演出のコンヴェンションが掬い上げていない意味を掘りこして造形化したり、コンヴェンションでは構築できない原作戯曲の構造を新たな視点から構築するところに意義があるのだと私は理解しているのだが、どこまでそれが実現されているかということになると、さてどうだろうかと首をひねることもある。

演出の上ではもっと歌舞伎離れをして、それを歌舞伎俳優の身体に埋め込まれた芸と技術で造形したどうなるか、という興味から期待するのは、こちらの片思いが過ぎるのだろうか?

随談第18回 上村以和於野球噺(その6)

「野球噺」は前回でいったんおしまいのつもりだったのだが、「野球いろはガルタ」のことをもう少し書いておきたくなったので、もう一回だけ書くことにする。

この前書いたのは、小学校3年生のときに誕生日か何かに親が買ってくれたもので、昭和24年、1949年の暮れの発行だから、一リーグ時代最後のプロ野球の姿がそこには反映されているわけだ。もっともかなり速成ででっち上げたとおぼしく、いろは48枚の中に何故あの選手の札が入っていないのだろう、といったのがちょくちょくある。(たとえば、あの大下が入っていない。)しかし記憶の中では鮮やかに覚えていて、粗末な色刷りの絵札の幾十枚はすぐにでも眼前に思い浮かべられる。

そこで、読み札の覚えているかぎりをここに再現して、もし万一、これをご覧になった方で欠けを補うことのできる方があれば、ご教示願いたいと思ったわけ。でははじめます。

(イ)一打よく川上満塁ホームラン(この年4月の南海戦で、5対2を6対5にひっくり返した一打があった)

(ロ)ロビンスの荒川発止と球を受け(この荒川は荒川昇治だと思う)

(ホ)ホームラン別当藤村ともに打ち(この年、藤村が46本という破天荒な記録を作った)

(チ)中日のルーキー杉下健投し(あのフォークボールの杉下である)

(ヌ)ぬかりなくショート皆川目を配り(目立って背の低い、しかし名手だった)

(マ)真っ向に投げる別所の剛速球

(フ)フルベース キャプテン藤井緊張し(ロビンスの藤井勇。この言葉も使わなくなった)

(ア)アウドロを武器の中原好投し(アウトドロップ。縦に落ちるカーブを昔はドロップといった。中原は南海のピッチャー)

(ユ)柚木投げて南海ナイン奮い立ち(絵に描いたような優男。当時の南海はスマートな選手が多かった)

(ミ)見送ればボールの球を櫟(いちい)振り(それにしても不思議な読み札である)

(シ)慎重に白石ベンチのサイン見る(巨人のショート。のち広島の監督)

(セ)絶妙のチェンジオヴペース若林(上の5は違うかもしれない。チェンジオヴペースという言葉も聞かなくなった。若林は覚えている限りの最高の名投手のイメージ)

次に「上5」が思い出せないもの。

(1)・・・・・藤本得意のスライダー(翌年、初の完全試合を達成した中上のこと。スライダーという球種をこの年藤本によって日本野球は知ったのだった)

(2)・・・・・サード手塚の好送球(手塚明治という名前の明治大学出身の巨人の三塁手)

その他、今西・天保(阪急)、青田・千葉・山川(巨人)、山本(南海、つまりあの鶴岡)、木塚(忠助、南海の盗塁王)、白木・黒尾(東急のエース)、スタルヒン・伊勢川・森下(大映)などの絵札が思い浮かぶ。

愕然とするほどわずかしか再現できなかった。半分ぐらいはわけなく思い出せると思っていたのだが・・・。(これにて「野球噺」はひとまずおしまい。つぎは「相撲噺」。)