随談第1回 「エイリアン感覚」

4月2日

きょうから書き始めることにしよう。ちょうど区切りのいい日にめぐり合わせた。形式上は昨日からだが、16年間の学校勤めにケリをつけて、また元のフリーの身となった。もちろん隠居でもなければ、これからはのんびりやります、というのでもない。現役はたぶん脳ミソがぼけて使いものにならなくなるまでは続けるだろうから、この区切りは、ボーナスというものを貰う専任職というものからフリーになったという意味が一番強い。

もちろん年収はがた減りだから、暢気な話では全然ないのだけれど、まあそのことはちょっと措いておくことにすると、なんともきれいさっぱりとして爽快だというのが、いちばん率直な感想である。このあたりが、企業にせよ学校にせよ、組織というものにずっと身を置き続けた人と、ちょっと感覚の違うところかも知れない。

思えばこの16年間というものは、私にとっては稀有な体験をさせてもらった日々だった。私のいたような小さなところでも、組織であることに変わりはない以上、組織の論理で物事は動き、人もそれに従って仲良くしたり反発し合ったりする。自分もその中で蠢きながら、同時にそれは、「私流人類学」の生きた教科書であり、実習教材でもあった。早い話が、この16年の体験がなかったら、私はいまほど芝居が分からないままだったのではないだろうか。「私流」とは、中日ドラゴンズの落合監督の「俺流」みたいなものと思ってくださればいい。

ちょっぴり白状すれば、私は、エイリアンとしてこの16年を過ごしたのかもしれない。もちろんそれは、ちゃらんぽらんに働いたという意味ではない。考えてみれば、私はごく若いときから、自分はいまここにいていいのだろうか、という思いを、いつも伴奏者のように連れて歩いているような気がする。いつもどこでもエイリアン。それはいまでも変わりがない。よそ目には、大きな面をしているように見えたとしても。

ところでこの『隋談』だが、これを第1回として、この欄に書いていくことにする。随想、というとモンテーニュを連想して固くなりそうだし、随筆というとまた独特のニュアンスがつきまとう。随談という言葉は、林家彦六になって亡くなった八代目の正蔵が、自分の会などで時間が自由になるときに、噺のマクラに心にうつりゆくよしなしごとを語ったのを、随談と呼んだのが最初らしい。「ブログ」とルビを振ろう。とかく締まりがなくなりやすいのがブログの欠陥らしいから、分量も決め、相成るべくは定期的に、新聞か雑誌のコラムでも書くつもりで、つまり自分にタガをはめて書き続けることにしよう。

と、まず本日はこれきり。