随談第8回 上村以和於野球噺(その2)

メジャー・リーグから帰った人に興味がある、とこの前書いたままになっている。

みずから先駆けをした野茂はまだ頑張っているが、吉井とか小宮山、近頃の高津のように、日本でさんざんやって、あと残った力をメジャーで試したい、というのが、ひとつのタイプとしてある。高津はまだ向こうで奮闘中だが、こうした場合、力がまだどのぐらい続くかという残酷な条件と絶えず直面しながらプレイをすることになる。もちろんそこには、プロフェッショナルとしてのプライドの問題もあるし、自分の限界をどう見極めるかという、仕事をする人間として一番厄介な問題がその背後によこたわっている。そこのあたりが、私には興味がある。

で、向こうでの活躍のほどはみなさん先刻ご承知として、私の興味はそのあと、つまり帰ってきてからである。

小宮山などは一度やめたあと、という難しい条件が付け加わった。この人は、テレビに素顔で出演しているときの風貌や語り口を見ても、どこかの企業のエンジニアみたいで、一流選手でありながらはみ出した部分があるのが面白い。清原のように、他人もそれを期待し、みずからも求めて、「野球バカ」に自分を仕立てていくのと対照的なキャラクターである。(野球バカは野球バカで私は決して嫌いではないどころか、あらまほしきナントカバカこそが、ジャンルを問わず最も理想的なあり方だと思っている。清原の場合は他から求められるイメージに縛られる自分に、自身がどれだけ気がついているかが、余計なお節介だがちょっと気になる。)そういう小宮山が、敢えて(客観的には実はすでにかなり難しそうに思われた)メジャー挑戦をし、帰ってからも若干じたばたしたところに、私には驚きと感動があった。源三位頼政の挙兵みたいに、自分を計算できる頭脳と客観性をもちながら、あえて「愚」を冒した人のように、私には見える。そこがいい。

吉井は小宮山に比べれば、もうすこし「野球バカ」的な要素があるのかもしれない。もっともそれは単に見た目だけのことに過ぎないのかもしれない。いわゆるクレバーな野球をする選手であることは共通している。この人はメジャーでももっと若ければもっと活躍できたかと思わせる業績を残したが、帰ってからも、力の衰えは隠せないながらいまなお執着を見せているらしい。そこに私の興味がある。あの吉井が、だからである。

いわゆるきれいな引き際というのがある。そうしてたしかに、みごとな引き際というものが実在するのも事実だ。大きな決断には当然ある種の計算はあるわけだが、その計算が透けて見えると、形の上では「みごとな引き際」である筈のものが、一向にそうは見えなくなってしまうことが多い。「みごとな引き際」があるなら「みごとな野垂れ死に」もあっていいわけで、結局はその人の「仁」にあった「引き際」ができるかどうか、ということになる。ちなみに「仁」とは歌舞伎の用語で、もって生まれた自然な自分と、みずから鍛え上げた自分との融合の上に生まれる「もうひとつの自分」のことである。(つづく)

随談第8回 上村以和於野球噺(その2)つづき

吉井だの小宮山だの少し渋いところから話が始まったが、メジャーから帰ってきた選手たちの中で、何といっても面白いのは新庄である。あのキャラクターは、たしかにプロ野球選手の中でとび抜けている。もともと特異な存在ではあったが、「アメリカ」という体験がなかったなら、いまのあのキャラクターはなかったに違いない。キャラクターもまた成長する。体験を成長に結びつけたところに、端倪すべからざる聡明さを、私は新庄に感じている。もしかするとそれは、世の人たちの見ている「新庄」とすこし違うかもしれない。

中村錦之助に似ている、とプレイをしているときの新庄を見るといつも思う。素顔、といってもテレビで見る限りの素顔だが、素顔も似ていないこともない。中村獅童が錦之助に似ているのは血族だから不思議もないが、新庄が素顔も錦之助に似ているのは、他人の空似以上の意味がありそうだ。目鼻も似ているが、唇からやや縦長の笑窪、顎の鰓の張り具合、それに量感が重なり合う。但し、そっくりサン、という意味では必ずしもない。

それから何より、濡れている感じ。これは男としての色気に関わる。あの色気は、在来の日本の野球選手としてはたしかにちょっと異質だ。私としては悪口のつもりはまったくなしに言うのだが、ある種「異常」といってもいい。阪神時代、人気者でありながら、ちょっと変な奴、と思われていたのは、直接的にはその言動の故だが、その奥を穿てば、あのプロ野球選手としてはやや過剰に「濡れた感じ」が、そうさせていたのに相違ない。(役者はおつゆがたっぷりなければいけません、とは、かつての新派の名女形の花柳章太郎の言である。「おつゆ」といったところがミソである。)

要するに新庄は、役者にしてもいいような色気を生まれながらにして備えている男である。素顔からしてすでに錦之助に似ているというのはそういうことなのだ。そういう男を、昔は、女にもみまほしいいい男、といった。女にもみまほしいとは、女にしてみたいほどの、という意味だろう。美男なのはもちろんだが、美男なら誰でも、女にもみまほしいわけではない。

中村錦之助とはもちろんのちの萬屋錦之介だが、同一人物とはいえここは是非とも中村錦之助でないと論旨の辻褄が合わない。萬屋錦之介とは壮年になって、みずから役者としての「仁」を変えてしまってから名乗った名前であって、錦之介論をはじめるなら、この二つの名前の相克を論じることが不可欠なのだが、いまは新庄の色気についての話である。いまここでいう錦之助とは、『笛吹童子』の丹羽ノ菊丸とか『紅孔雀』の那智ノ小四郎といった若衆役者としての錦之助であり、『ゆうれい船』の次郎丸のような「永遠の少年」としての錦之助である。(嘘だと思ったらこれらの映画のDVDをみてごらん。なるほど、女にもみまほしいとはこういうものか、と合点がいくに違いない。)

さて、新庄である。阪神時代の新庄は、錦之助ばりのいわば前髪立ちの美少年風の色男としてデビュウし、挫折を繰り返している男だった。(つづく)

随談第7回 上村以和於野球噺(その1)続きの続き

よく覚えているのは、巨人の攻撃で走者一塁のとき、誰だったか痛烈なゴロを一、二塁間に放った。一塁手が横っ飛びに取って二塁へ投げてホースアウト、二塁手がすぐ矢のような送球を一塁へ。誰もがハッとしたが、ワール投手という、おなじみのシールズから大リーガーとなったピッチャーが、いつの間にか一塁塁上にいてパチンと球を受けて(という表現は、そのころ愛読していた『おもしろブック』に載ったルポ風観戦記の一節の記憶による再現である)ダブルプレイが成立した。

いい勉強になったね、キミたちもよく覚えておくんだよ、という口調で、たしか中沢不二雄さんだったか、エライ評論家が書いていたのを思い出す。つまりそんな連携プレイも、当時の日本野球では珍しかったのだ。

もうひとつ、こちらは妙な意味で覚えているのは、何戦目かで、中日の西沢と毎日の別当がホームランを打った。もちろん、ふたりとも大変な強打者なのだが、このとき何かもやもやした感じがあって、彼らを祝福してやる声が何故か盛り上がらない。「誰か」より先に日本人第一号を打ってしまったのがいけなかったのだろうか? いま思い出してもおかしいのは、これはたぶん『ベースボールマガジン』か『ホームラン』かどちらかだったと思うが、日本人が大リーガーからホームランを打って悪い理屈はない、というようなことを書いている記事があったことだ。(たしか鈴木惣太郎さんだったか。)

要するに、そのころの日本野球というのはそういうものだったのだ。

記憶を手繰ればまだまだ切りがないが、まあ、こうした記憶を原点として持っている人間からいうと、野茂から吉田松陰やジョン・万次郎を連想したりするのも、まんざら大袈裟なことでもないのだ。メジャー礼讃を得々と語るアメリカ通の人たちを見ていると、鹿鳴館で得意そうにダンスを踊る洋風紳士とダブルイメージになってくるし、日本のプロ野球のさほどでもないゲームを、スゴイ試合ですねー、などと一生懸命面白がろうとしているアナウンサーの声には、攘夷派の志士を連想してしまう。ハイカラーの洋風紳士がかつての攘夷浪人と同一人物であったりするのは珍しいことではないが、いま本当に大切なのは、日本の野球の実力を掛け値なしにしっかりと見極めることだろう。

その意味でひとつ気になるのは、去年のアテネ・オリンピックが銅メダルに終わったことを、なるべく触れずにいようね、というような感じが、関係者と一般ファンとを問わずありはしないかということだ。もちろん短期決戦だから、強いチームが緒戦敗退ということはあり得る。だから結果をいうのではなくて、しかし認めるべきは認め、指摘すべきは指摘するオープンな感覚が大切なのではないだろうか。自分たちに都合のいい解釈ばかりしていると、太平洋戦争のむかしの軍人たちみたいな夜郎自大に陥りはしないかしらん。

メジャーから帰ってきた人たちに興味があると書きながら、そのままになっているが忘れたわけではない。ちっとも歌舞伎の話にならないではないかと思う人もあるかもしれないが、これでまんざら関係のない話をしているつもりでもないのです。

だいぶ長話になった。きょうの話はこれでおしまい。(その1おわり)

随談第7回 上村以和於野球噺(その1)つづき

小学生のころ、サンフランシスコ・シールズというのがやって来た。メルトン投手とか、スタインハウアー選手とかいう名前を覚えている。格好いいというより、名前からして凄味があるような感じだった。オドール監督というのはヤンキースのディマジオの師匠で、ディマジオの弟弟子のミッキー・マントルというのもついこないだまでシールズにいたのだが、今度は来ないらしいという話だった。

第一戦の相手はその年優勝した三原監督(!)率いる巨人軍(と言わないと当時の感じが出ない)で、この年に南海ホークスから移籍してきた別所が先発したが10対0で負けた。(スコアはもしかしたら少し違うかもしれないが、ともかく大敗だった。横綱の前田山が、負けがこんで途中休場中なのに見物に行って問題になり、引退に追い込まれるというおまけがついた。)

そのあと全日本軍だの何だのが戦ったが、まったく歯が立たなかった。でもシールズってアメリカでは二軍なんだってさ、と情報通みたいなことを言う同級生もいた。つまりシールズは3Aで、実はマイナー・リーグなのだということを、当時の日本人の理解の及ぶ範囲内で日本風に表現したわけである。二軍でもあんなに強いんだから、大リーグというのはどんなに強いのだろうと思ったが、大人たちだって、認識の程度にたいした違いはなかったろう。

その二年後に、こんどは本物の大リーグ選抜軍というのがやって来た。中にディマジオもいた。ディマジオはその前年にも単独でやって来て、川上とホームラン競争をやって川上が勝った。ラビット・ボールというよく飛ぶボールや、ゴルフ・スイングといってしゃくり上げる打法が全盛で、ホームラン隆盛の日本野球に対して、自分が目指しているのは二塁打になるようなヒットで、それが本当にいい当たりだったらホームランになるのだ、というようなことを言ったと思うが、少し違っているかもしれない。しかし翌年大リーグ選抜軍の一員としてやってきたディマジオは、それが引退の年で、日本の投手を相手にしてもあまり打てなかった。

今度も第一戦は巨人が相手だった。たしか先制点のチャンスだったと思う。ランナー二塁で川上の打順だった。ここで打ったらエライ、と(当時から既にいた)アンチ巨人のオトナたちが顔を見合わせて含み笑いをしながら言った。川上は右中間にライナーを放って走者を進めた。(つづく)

随談第7回 上村以和於野球噺(その1)

しばらく野球の話をしよう。

まず当面の話題は、メジャー・リーグである。もっとも、イチローや松井の大活躍礼讃みたいなことは、いまはやらない。彼らの活躍はもちろん喜ぶべきことだが、すでに賛辞の山が聳え立っている上に、いまさら賛辞をつみかさねても仕方がない。

それよりも、メジャーから帰ってきた人に興味がある。

メジャー行きを目指す選手に対して行くなという声がある。もっと日本の野球のことを考えろというわけで、尤も至極なのだが、あれは言ってもあまり効き目はないだろう。最高の舞台がある以上、最高の舞台を踏んでみたいのだと巨人の上原投手が言っていたのが、何よりも正直な言葉だろう。こういう場合の正直というものは実も蓋もないものなのだ。アイツの方がカッコイイと思ってしまった以上、もうどうにもならない。たしか江川卓氏の言だったと思うが、黒船が渡来して開国してしまったいま、海を渡りたいと思う思いを縛るわけには行かないのだ。

その意味で、数あるメジャー入りした選手たちの中で誰よりも天晴れだと思うのは野茂である。あの実行力は、黒船に小舟で乗りつけた吉田松陰に匹敵する。野茂はまた、ジョン・万次郎にもちょっと似ている。(松蔭ほどインテリでない点も。)

いまはむかし、江夏が現役を退いてからメジャー入りのテストを受けに入ったことがあった。あれは凄かった。同時に、ちょっと突拍子もなかった。スゲエナアと思う一方で、実はまだあまりピンときていなかった。だから、結局ダメだったということになっても、攘夷思想みたいな情感を刺激されたりはしなかった。林子平が、江戸湾の水はテムズ川に通じているといっても、あまりピンと来なかったようなものかも知れない。

随談第6回 ここらでちょっとひと理屈

随談を書き始めて一週間。これが6回目だから、開店の売り出しのように短い間に詰めて書いて店先を賑わしたが、第1回にも書いたように、そろそろ週一回程度にペースを定め、連載のコラムでも書くようなつもりで書いていくことにしよう。それも、これまでのように、雑然と日記のように書くよりも、月替わりか何かでテーマを立てて書いた方が、バラエティが出来て面白そうだ。もちろん、テーマを決めるといっても、そこは随談だから融通無碍、話はどうワープし、飛躍するかわからない。

劇評を書くつもりはないと言ったが、いわゆる劇評集をつくることを目的にはしないということを言ったまでで、何かを言えばおのずと、なんらかの意味で批評になってしまうのは、性(さが)のようなもので避けようがない。同じように、正面だてて歌舞伎を、役者を論じなくとも、おのずと話はそこへ巡ってくるに違いない。目刺を論じて話は勘三郎に及び、レタスを語るうちいつしか玉三郎の話になっている、というのがもし批評の醍醐味だというなら、ちっとは目新しいタイプの評論集ということにならないとも限らない。

というわけで、次回からはしばらく野球談義を始めよう。題して「上村以和於野球噺」。

随談第5回 私家版 問題な日本語 「は?」の巻

何かを言われる、あるいは命じられるか頼まれるかして、「は?」と問い返す。若い世代に始まって、近頃はかなり年配の女性にも聞くようになった。不満、不同意、ノーの婉曲表現、おとぼけ等等等。

「はア?」と半拍ほど長くなると、その分「不」の意思が露骨になる。つまりノーの直接表現に限りなく近くなる。

せいぜいここ十年か、よく耳にするようになったのは。二十年とはさかのぼらないだろう。

かつても「は?」はあった。多くは男性、上司に対して「は?」と問い返す。返答を考えるための時間稼ぎ。ときには本当に聞きなおすため。いずれにしても、うやうやしい態度であることに変わりはない。

つまり文字で書けば同じだが、昔からの「は?」と、近年になってはびこりだした「は?」とは別物と考えるべきである。にもかかわらず、昔ながらの「は?」と同じ表現を採用している。おそらくそのふたつの「は?」の間に、どこかで連動しつつ、ここ十年かそこらの間に生じ、あっという間に広まってしまった意識の変動があるに違いない。

随談第4回 ときにはこういうものも

上演日わずか8日間。9日で終わってしまうようだから、いまさら奨めても遅いかも知れない。だからせめて書いておくだけで満足しなければならない。

昨日、吉祥寺の前進座劇場で小山内薫作『息子』、真山青果『玄朴と長英』の二本立てを見た。「本近代劇名作選」というタイトルがついているが、それぞれ大正12年と13年の作である。登場人物は前者が三人、後者が二人。音楽もない。ほんのわずかな効果音があるばかり、あとはひたすらセリフ、セリフだ。もちろん仕草はあるがごく普通のリアリズムで象徴的な意味などはない。あるのは対話、言葉の応酬だけだ。

演技評はいまはしない。嵐圭史とか藤川矢之輔など、座の実力派で締めているから、まず相当の出来だったとだけ言っておこう。

見ながらつくづく思ったのは、こういう言葉のやりとりだけで成り立っている舞台が、いま改めて、懐かしいほど新鮮に感じられたということである。観客がじっと聞き入っている芝居。ああ、芝居ってこういうんだったよな、という感じ。懐かしいと言ったのは、それだ。近頃よくいうデジャヴィ、というのは既視感と訳すように視覚に関する言葉だが、それの聴覚版は何というのだろう。

テレビよりもラジオで育った世代だから、子供のころはラジオドラマが全盛時代で、シリアスなのから茶の間向き、子供向き、いろいろあったが(ラジオドラマの話は、いずれまた改めてしよう)、いま思うと、ラジオの作者というのは新劇の作者とかなり重なり合っていた。『息子』の小山内薫調がなつかしく響くのもひとつにはそれだ。しかしそういう個人的な回顧とは別に、改めて思うのは、こういうセリフまたセリフという芝居こそ、やはり舞台の基本なのだということである。

もちろん、歌舞伎から「歌」と「舞」を引いて「伎」だけになってしまった新歌舞伎への反逆からスーパー歌舞伎が発想されたように、パフォーマンス隆盛にはそれ相応の理由があるのはいうまでもないが、時にそれへの反省があってしかるべきである。少なくとも、吉祥寺での二時間は、きわめてすがすがしい二時間であったことは間違いない。

随談第3回 勘三郎の『籠釣瓶』(続き)

まもなく勘三郎ご本人から「怒るわけないじゃありませんか」という手紙をもらった。やがて京都の南座で『籠釣瓶』を再演したが、私は見に行けなかった。すると今度は浅草公会堂のロビーで会った。わざわざ向こうから近づいてきて、今度はうまくいった、という話だった。しかしそれからしばらく、上演はなかった。

心に期するところがあったのだ、と知ったのは,襲名披露の演目の中に入っているのを見たときだっだ。正直、三分の不安があった。だがその不安は、序幕を見て消えた。芝居が進んでからも、不安や疑問は入り込む余地がなかった。

問題は笑うのがいいか悪いかではない。次郎左衛門の心情がいかに得心できるかだ。

勘三郎は理解していたのだ。また市蔵たちの演じる同郷の絹商人たちにも、にがりが出来てこの前とは格段の違いである。

私の書いた劇評がどのぐらい役に立ったかはわからない。しかし間違いないのは、勘三郎がこの前の不発の理由をきちんと捕らえ、解決すべきは解決して、襲名の座に上ったということである。勘三郎にその意図があるかどうかは別として、私としては、あちらのコートに打ち込んだボールが、逆にこちらのコートへ打ち返されてきたような気持ちである。

随談第2回 勘三郎の『籠釣瓶』

この欄では劇評はしないつもりである。しかし劇評からはみ出してしまうようなこともいろいろある。

18代目勘三郎襲名披露公演が2ヶ月目に入ったその4日目を見た。いまここで書こうと思うのは、夜の部の『籠釣瓶』のことである。佐野次郎左衛門を初役でやったのは、1999年の12月だから五年半前になる。いいだろうなと思って見に行って、「序幕」の吉原仲ノ町の見初めのところで、はやくも私は首をかしげてしまった。

なにかが変だ。玉三郎の八ツ橋が花道を入るのを呆然と見送って、ニヤリ、というか、なんとも表現のしにくい感じで笑いを見せる。私の知っている次郎左衛門といえば、先代つまり17代目勘三郎か先代幸四郎、つまり白鸚より後だけだが、ここで笑う次郎左衛門ははじめて見た。なんでも初代吉右衛門が若いときにやったのを勘三郎(ややこしいが、もちろん当時は勘九郎だ)が調べたかしての、試みだったらしい。笑うこと自体がいけないのではもちろんない。だが舞台を見ている限り、ここで笑う次郎左衛門の心象をわたしは掴み兼ねた。

もうひとつは、勘九郎だけでなく、後の「縁切り」の場に出てくる同郷の同業者たちにしても、うまい下手ではなく役が持っている灰汁がない。八ツ橋を身請けしようというまでになった次郎左衛門が、自分のモテモテぶりを見せようと、仲間を連れてくる。しかし思いがけない愛想尽かしにあって面目丸つぶれになる。アテがはずれて仲間たちが不機嫌になる。一皮むけば酷薄な人間関係の上にわれわれも生きているわけで、『籠釣瓶』という芝居の面白さというか怖ろしさはこういうところにもあるわけだが、ここで肝心な先代たちにあった役者の灰汁がない。つるっとしていて、コクがないということになる。

そういうことを、私は当時の『演劇界』の劇評に書いた。ついでによせばいいのに、勘九郎よ怒るな、と書いた。よけいなことを書かない方がいいのに、と心配した友人もいた。だが、その一言のせいかどうかは知らないが、この劇評が、私と新勘三郎のつながる縁の端となったのは事実だった。(つづく)