随談第77回 歳末偶談(その4)

若手花形プロ野球受賞者見立てのつづき。

勘太郎の首位打者に対し七之助は開幕戦の『鏡獅子』、最終戦で勘太郎と踊った『猩々』から『三社祭』がすばらしかった。『盲目物語』の茶々、『重の井』の腰元若菜もよかったが、総合成績として見ると、相応の好成績だがタイトルとして何がいいだろう? 最多出塁率を染五郎と争って第二位か。映画『真夜中の野次さん喜多さん』(だっけ?)は私にはようわからん。春先にあった場外でのニュースはだれよりも本人がよく自覚している筈だから、この際不問。

さてその最多出塁率は染五郎。父幸四郎と『魚屋宗五郎』の三吉をやり、文七をやり『連獅子』を踊り、直侍をやり、そうそう梨園座もあったっけ。叔父吉右衛門とも金比羅歌舞伎から凱旋公演でも『日向嶋景清』に出演、勘三郎襲名にも出演して『野田版研辰』でよき存在感を示した。小山内薫の『息子』なんていう味な芝居でも味なところを見せた。映画でも賞をもらった。いうことないほどの活躍ぶりだし意欲も充分だが、今年はこれでいいとしてさてそろそろ、古典の丸本物で快打を放つ姿を見たい。実盛、石切梶原など如何?つまり来年は打点王のタイトルを狙いたい。

その打点王だが、いまどき数字的に100打点に達しない打点王というのはちょっと物足りないのだが、最後に團十郎に代わって四番打者として光秀で打点を稼いだ実績で橋之助。余勢を駆っての『弁慶上使』も現在での力を示した。まずはおめでとう、さりながら・・・と続くのは、なんであんな苦しそうな声を出すのですか? 染五郎もそうだが、勘三郎・三津五郎に続く世代の旗手としてあなたが本格派として古典をきっちりやってくれなければ歌舞伎はどうなっちゃうんだ? と思うからだ。

最優秀中継ぎに『御所五郎蔵』の逢州を好演した松也。『児雷也』の当世コギャルも観察眼には感心した。お父さんの松助を亡くしての激励の意味も籠めての受賞。六月の歌舞伎教室で解説役と『毛抜』の秦民部で殊勲を挙げた亀三郎と二人受賞としよう。

新人王に岡村研佑改め尾上右近と『鳥羽恋塚』の以仁王で好演した梅枝。鷹之資クンはデビューを飾ったところだから、受賞云々はまだもうしばらく先の話。

猿之助一門の人たちをどうしようと考えている内にスペースが尽きてしまった。笑三郎・春猿の七月歌舞伎教室の解説は、大相撲だったら技能賞間違いなし。『桜姫』での扇雀の長浦とか『河庄』で小春を代役した翫雀も健闘したようだし、まとめてセーヴポイント賞としよう。

と、四月に開設したこのホームページもおかげさまで正味九カ月でクリック数9000を越えたところで越年となった。来年も基本的にはこの形式で続けるつもりだが、別枠として企画物も始めたいと考えている。なにはともあれ、読んでくださる皆様があってのこと、一層のご愛顧をお願いしつつ御礼申し上げます。どうぞよいお年をお迎えください。

(訂正・前回海老蔵の項、実盛でなく毛谷村六助でした。)

随談第76回 歳末偶談(その3)

歳末らしく年間回顧。但し若手花形を対象に、プロ野球各賞見立てという趣向。

まずホームラン王は菊之助だ。『十二夜』『児雷也』などプロデュースの面での特別賞もある。『十二夜』はさしずめ満塁打を含む一試合三本塁打というところか。すなわち企画力と実行力で満塁ホームラン。二役早替りで2本塁打。『児雷也』は大鷲にまたがっての宙乗りの美男ぶりは盛りの花だが、そればかりではない。玉三郎・菊五郎と堂々と渡り合った『加賀見山』のお初では見事な本格派ぶりを示して、MVPも併せ受賞。

最多勝は前半戦と後半戦に分かれる。前半戦は愛之助。『封印切』の忠兵衛、『廿四孝』の本物偽者二人の勝頼、とくに偽勝頼はノーヒットノーラン達成といってよい。交流戦『五辦の椿』はやや不発だったが、ああいう形での交流戦に出場を乞われるというのも歌舞伎俳優としての実力と人気を期待されてのことで、すなわちこれも実力の内。後半戦は前期ほど場に恵まれなかったが、仁左衛門の『熊谷陣屋』での堤軍次などはワンポイント・リリーフで味なところを見せたポイントを稼いだ。

後半戦の最多勝は亀治郎だ。『十二夜』、亀治郎の会での『矢口渡』のお舟、『児雷也』の綱手姫。綱手姫はひとり古風な感覚でニクイところを見せた。一試合奪三振記録か。あれで『封印切』『鏡獅子』など、開幕戦での力み過ぎによるつまづきがなければ年間最多勝が取れたかもしれない。

首位打者は勘太郎。父の襲名公演の口切に『猿若』をつとめ、『源太勘当』で丸本物に着実な実力を見せ、夏の『雨乞狐』もさわやかな三塁打だったし、暮に踊った『猩々』から『三社祭』は快打一番のホームラン。という具合に、年間を通じて上昇カーヴを描き続けた。地味に見られがちだが本格派の長距離走者として20年後を見たい。『研辰』やコクーン歌舞伎『桜姫』でも稼いだが、古典派としていかに揺るがぬ実力を体得するかが今後の分かれ道になるだろう。

やや地味だが安定した実力を示した孝太郎が、防御率第一位。素人は最多勝の方に目が行きがちだが、防御率に注目するのが玄人というもの。『廿四孝』の濡衣をはじめ安定した実力はもっと注目されてしかるべきだ。ただし『絵本太功記』の森蘭丸で荒事まがいの立ち回りまでさせられたのは気の毒で、おかげで本役の初菊まで冴えなかったのは、実力派ゆえに便利に使われたあおりである。器用貧乏などと言わせないよう気をつけなければ。

松緑が『十二夜』と『児雷也』の大蛇丸で見せた好演にも何か報いたい。仄聞するところ『十二夜』でほめられるのを嫌がっているとか聞いたが、あれは演出者の要求に応じての役作りであり期待に充分以上応えたのだから、堂々と胸を張っていいのである。『鳥羽恋塚』の崇徳院の宙乗りも健闘。さて賞は何がいいだろう。短期決戦の日本シリーズだったら敢闘賞というところだが、年間という観点からして盗塁王としよう。

海老蔵にも何か賞をと思うが『源太勘当』の平次目が覚めるようだったが、開幕戦の実盛と『鳥辺山』はやや不発だった。それにしても後半戦、舞台姿を見ること稀だったのはどういうことか? というわけで不本意ながら今年は受賞を逃した。(この項つづく)

随談第75回 歳末偶談(その2)

夕刊を見て尾上松助の死を知った。ちょうど一年前の南座の顔見世を休んでから、久しぶりに11月の『児雷也』に仙素道人の役で出たが、鬘を深くかぶり白髯をつけ、セリフは機械を通した声という気になる出演の仕方だったが、今にして思えば一期の思い出のための出演であったのかも知れない。思えば昭和三十年代、『鏡獅子』といえばもっぱら梅幸の専売だった頃、胡蝶といえば松助の緑也か弟の現大谷桂三の松也、それに團蔵の銀之助とほぼ決まっていた。團蔵とはそのころからお神酒徳利だったわけだ。

やや長じて『め組の喧嘩』などが出ると、梯子をかついでわっしょいわっしょいと駆け出してくるトップあたりにいて、いかにも都会っ子らしいすっきりとイナセなちい兄いの風情があって、なかなかよきものだった。近年でも、昭和通りあたりを洒落たセーター姿で歩いている姿などを見かけたが、さりげないダンディ振りもいい風情だった。それにしても松助とか勘五郎とか、由緒ある脇役の名跡を継いだ人が、これからという年齢で早世してしまうのはどういうことなのだろう。松助のためにも、また歌舞伎界のためにも、この死は惜しみても余りある死である。

脇役の払底ということがよく言われる。事実そうには違いないが、しかし少なくともこの二、三年に話を限るなら、我当や彦三郎クラスがいい年配に達して、彼らなりの熟成した味を見せるようになったし、たとえばこの月の国立劇場を見ても、彦三郎の松江侯、左團次の金子市之丞、幸右衛門の北村大膳、歌江の上州屋の後家、鐵之助の遣り手と揃ったところなど、むしろ壮観と言ったって差し支えないようなものだ。11月の『絵本太功記』での吉之丞の操にしても、品格といい義太夫狂言の老女の演技といい、あれだけのレベルのものがそうざらにあろうとは思われない。

錦吾にしても、和泉屋清兵衛はちょいと貫目不足だったが、前月の『文七元結』の藤助など、あの狂言に出た誰よりもあの芝居の世界に生きている人物になっていた。幸太郎の上州屋の番頭にしても、番頭の演技として今後のお手本になるだろう。(もっとも蕎麦屋の亭主は蕎麦をゆでる仕種に張り切りすぎて、直次郎がせっかく股火鉢をしたり猪口に浮いた塵を割り箸の先でのけたりする「細かい」芸を見せているとき、観客の目を奪いかねなかったのは、勇み足というべきだろう。)千代春と千代鶴を遣った京妙と段之は国立養成所の出身だが、このクラスの連中もここまで来ているという好見本だった。

たまたま印象に新しい最近の舞台から例を取ったが、もっと丹念に洗っていけば実例はたちまち更に挙がることは間違いない。秀調のいい仕事ぶりなども、ちょっと思い起こすだけでも、年間を通じて印象的である。あの狂言のあの役に人がいない、というようなことを考えていけば、確かに、脇役が手薄なことは否定できないが、さればといって、脇役払底を紋切り型のように唱えて、憂国の士気取りで歌舞伎衰亡論を嘆じてばかりいる批評家や見巧者という存在も、あまり感心したものではない。少なくとも、現に成果を上げている脇役者たちの努力や精進を、見れども見えずという視野狭窄はいただけない。松助の死は大きな痛手だが、紋切り型の憂国論だけは見たくもない。

随談第74回 歳末偶談(その1)

あっと言う間に歳末である。『お茶漬の味』メモをだらだら続けていても仕様がないからもう打ち切りにして、「歳末偶談」ということにしよう。

波乃久里子がこんど出した『菊日和』という本が面白かったので、一息に読んでしまった。いわゆる面白い本というのともちょっと違うが、しかしこれはきわめてユニークな一書である。書名は何だか小津安二郎の映画の題みたいだが、この「菊」というのは六代目菊五郎を利かせてあるのだろう。六代目菊五郎の愛娘久枝、というのはすなわち著者やその弟、つまり当代勘三郎等の母親が、女学校を卒業する前後、昭和17年1月から4月までの4ヶ月間、毎日欠かさずつけていたに日記をつい最近、勘三郎の襲名興行のさなかに発見した著者が、それを包み込むように、母を語る文章を綴って一冊としたものだが、この4ヶ月になにが物語られているかというと、満18歳だった久枝に縁談が持ち上がっていて、その相手というのが、(いうまでもないが)のちの十七代目(つまり先代の)勘三郎になる当時はまだ中堅俳優だった中村もしほ、というわけである。

この縁談は、しかし、かなり難しい縁談だった。久枝数え歳19歳に対してもしほは34歳という年齢差に加え、不遇の位置にあったもしほにはさまざまな屈折が多くあったからである。「その頃のボクは酒飲みで仲間内で評判が悪かったし、年が十五も違うママには変なオジサンだと嫌われて」いたからだよと、後年十七代目は久里子に語っていたというが、著者の言によれば、万年筆で書き直しも書き損じもない、つまり推敲して清書した、誰かに読まれることを意識して欠かれたものに相違ない、つまり王朝時代の女流の日記から一葉日記に至る、フィクションならぬフィクションとしての日記を思い浮かべたという。

たしかに、「もしほさん」として登場する、われわれが舞台を通じて知っている大俳優十七代目とは随分と落差のある、惑いの日々にあった若き日の十七代目の姿も、われわれの興味を掻き立ててやまないが、しかしこの本を読んでの感興は、決して裏話的興味にあるのではない。「父」として登場する六代目菊五郎はこの年58歳、まだ衰えを知らぬ全盛期の姿であり、「大きい兄さん」つまりのちの七代目梅幸が28歳、「小さい兄さん」のちの九朗右衛門が21歳という時代であり、そこに語られる満18歳の少女の目を通して切り取られた日常それ自体が、時代を語るかけがえのない証言だということである。

日記の書きとめられた昭和17年1月から4月は、いうまでもなく、日米開戦後間もない日々だが、ここに書きとめられている菊五郎家の人々の日常は、まだ何という平和なゆとりの中で営まれていることだろう。それは必ずしも、「帝王」菊五郎の一家だからだけではない。歌舞伎座で「父」や「もしはさん」の舞台を見た帰りに、映画を見る。そこにでてくる映画の題名には、戦時色というものはほとんど見えない。4月には、ドウリトル爆撃隊による東京初空襲があるが、翌日もういちど警報が出て、三機の飛行機が空中戦をしている空をみていると、やがてそれは鳥が群がり飛んでいたのだと知れる。戦前の良き市民生活は、この時点でまだ健在だったのである。

18歳のみずみずしい少女の目の見た「時代」の、何と哀切なことだろう。

随談第73回 観劇偶談(その34)

今日は家にいたので、NHKのスタジオパークという番組に海老蔵がゲストで出演したのを見た。しばらく舞台を見ていなかったので、海老蔵を見ること自体、随分久しぶりの感じである。ところで、このスタジオパークの海老蔵が、素晴らしかった。

スタジオパークといえば、NHKで午後1時からの番組である。見るのは多く主婦を中心にした女性だろうが、しかしこの手の「教養」番組というのは、意外に多彩な視聴者を持っているもので、油断はできない。そもそもNHKの午後1時番組というのは、ラジオの昔から、古き良きNHKをある意味で代表する、上質の良識番組なのだ。なまじの第3チャンネルの番組より、対象の幅が広いだけむしろ奥行きもある。事実この番組にさまざまなゲストが出演するが、その人それぞれの奥行きが透けて見えるところが面白いのである。翻って言えば、こわさでもある。ゲストたちも、それを知ってか、みな真面目に対応をする。嘘がつけない。ついても、透けてみえてしまう。

海老蔵のどこがよかったかといえば、実に自然にふるまって、それでいて、常人ではないところを、おのずから見る者に納得させたところである。例のスキンヘッドにカジュアルな薄着姿で、それでいて折り目正しさを誰の目にも感じさせる。折り目の正しさが身についた者は、どんななりをし、どんな振る舞いをしても、人にそれを感じさせる。冒頭に『暫』の花道の引っ込みの映像が出て、すぐその後にスキンヘッドで軽装の海老蔵が登場する。もちろんその演出まで海老蔵が計算したわけではないだろうが、その効果を絶大にしたのは海老蔵自身の蔵している、役者として、また人としての力である。この人、常人ではないと相手に感じさせるのは、こういう、いわば立会いの一瞬にあるのだ。わざとらしい計算ではできない、才覚というか、一瞬の勘というか、こころの働きというか、海老蔵はそれが素晴らしい。一言でいうなら、「人間力」とでも言おうか。

立会いの一瞬に相手を、場内をつかんでしまえば、後は、一顰一笑、一挙手一投足、すべてがよい方へ転がってゆく。闊達でありながらナイーヴであること、質問者(いうまでもないが黒田あゆみアナウンサーである)のいうことを感度鋭くキャッチしていることを感じさせる応答ぶりであること、決まりきった応答の仕方がほとんど皆無であること、つまり質問にその都度自分の考えた応答を自分の言葉でしていること、つまり本当の意味でアタマがいいのだと見る者に思わせること。こういう対話ができる者は、たとえその人物がどういう人間なのかを知らない者が聞いても、面白いと思うものである。

話は違うが、たまたま今朝の別の番組で、いま話題になっている浅田真央という15歳のフィギアスケートの選手のインタビュウを見た。この浅田もまた素晴らしかった。幼さの残る愛らしい笑顔で、質問に素直に、しかし臆することなく答えてゆく。わずか2ヶ月の年齢差でオリンピックに出場権のないことを尋ねられ、もし出たら勝てると思うかという質問に、勝てると思う、といともあっさりと、しかもまったく衒いも嫌味もなく答えている様子を見て、これは本物だと思わざるを得なかった。30年前、玉三郎が登場したときの姿を連想した。海老蔵にしても、力のある若者というのは、実に素直なのである。

随談第72回 観劇偶談(その33・番外映画噺6)

『お茶漬の味』メモも間が空いて少し気が抜けてしまったが、昭和27年という年にもう少しこだわってみたい。商社マンである佐分利信が最後に南米の任地へ向かって立つのはもちろん当時の羽田飛行場(空港という言葉はあったのだろうが、小学生であるわれわれの耳にはまだ馴染みのない言葉だった。羽田は「空港」ではなく「飛行場」でなければならない!)で、プロペラが四つある大型旅客機というのが、いかにもアメリカという国の豪勢さを代表するようにみえた。B-29をふたつくっつけた「空飛ぶホテル」というのが、元があのB-29だけに(子供ながらも)日本人には威圧的に思われた。いまでも戦時中の映像でB-29が映ると、ある種の畏怖を感じるから不思議だ。(実際に空襲にあった体験などなくてもだ。)湾岸戦争のとき最新鋭の軍機の映像がテレビによく出てきたが、そのどれよりも、B-29がいまなお一番強そうに思える。

この作品が名作と言われない最大の理由として、本来この映画は戦時中に企画され、だからこのとき夫婦和解して見送りに行かなければ一生悔いを残すことになるという思いが切実なわけだが、戦後の平和な時代に設定が変ったために話に無理ができたためとされているらしい。しかしこんど見直してみると、それほどの傷という気はしない。もっともそれだけ、昭和27年が遠い過去になったせいかも知れない。

昭和27年のもう一つ大きな出来事はヘルシンキのオリンピックというやつで、戦後はじめて日本が参加して、みじめなほど負けてばっかりだった。水泳の古橋がすでに盛りを過ぎていて辛うじて400メートルの決勝には出たもののビリだったというのが、いかにも、まだ情けないニッポンの象徴のように感じられた。その古橋のために常に二位に甘んじることが運命付けられたかのようだったのが橋爪四郎という、今で言えば仁左衛門ばりの長身痩躯のハンサムな選手で、この橋爪がこのときは好調で、1500メートルの予選を一位で通過したので期待が集まった。結局やさ男の橋爪は二位の銀メダルに終わるのだが、このとき優勝したのがハワイ出身のフォード紺野という日系二世、三位になったのがオカモトという日系人だった。つまり三人ともジャパニーズだったのである。

日系二世といえば、与那嶺選手がジャイアンツに入ったのが前年の途中からで、この27年には中日の西沢と首位打者を争って最終試合に安打が出ず、二位に終わったが、私はこの与那嶺のファンだった。王貞治氏が少年時代にあこがれの与那嶺選手のサインを貰ったという話をいつかテレビでしていたが、同世代人としてその感じ、よくわかる。このあと広田捕手だの西田投手だの柏枝三塁手だの、日系二世の選手が次々と巨人に入るのだ。

『お茶漬の味』から話が脱線しっぱなしだが、つまり昭和27年という時点での外国の距離というものを、子供なりの実感から思い出してみたのである。佐分利が女房の木暮実千代に愛想をつかされるきっかけになったのが、味噌汁をぶっかけ飯にして食べたからというのは昭和27年に限った話ではないが、この終戦直後というにはささやかな安定を取り戻し、もはや戦後ではないというにはまだ傷跡が生々しいこの季節のことを、もう少し、人は認識していい筈である。

随談第71回 観劇偶談(その30・番外映画噺5)

松竹110周年から昭和8年制作の『伊豆の踊子』を見た。数あるこの作の第一作であり、まだサイレントである。私にとっては一番なつかしい第2作の美空ひばり・石浜朗コンビの野村芳太郎監督版が昭和29年の春、そのころ購読していた『平凡』の新作・新輸入映画紹介欄で、あの『ローマの休日』と同じ号に載っていたのではなかったか知らん。その主題歌としてひばりが歌ったB面の歌が名曲であることは大分前に書いた。

おもしろいのは、今日見た昭和8年版が、サイレント映画であるにもかかわらず主題歌を持っていることで、四家文子と市丸が歌っている。レコード会社とのタイアップなのだろう。歌詞は画面に出る。「泣くんじゃないよ、泣くじゃないよ」という歌詞とメロディは子供の頃から聞き覚えていたから、戦後までもずっと歌い継がれていたわけだ。

映画主題歌というのは、つまりサイレント時代から始まって、戦後もずっと盛んだった。大概は歌謡曲の歌手が歌うのだが,時に主演スターが歌うこともある。美空ひばりはもともと歌手だから当り前だが、昭和2,30年代の彼女のヒット曲のかなりの部分は映画主題歌の筈だ。石原裕次郎の場合は、逆に映画スターが歌ったら大当たりしたケースだが、いま話題にしている昭和20年代でのその手の「歌うスター」の典型といえば高田浩吉だった。鶴田浩二が片耳に手を当てて歌うのも元は主題歌の吹き込みからきているのではなかったか。黒川弥太郎なんていう人も、歌うスターの一員だった。つまり時代劇俳優も歌えるに越したことはなかったわけで、中村錦之助もナントカ月夜笠とかいうのをレコードにしているはずだ。「月が出ている一本松に」という出だしで、たしかセリフが入るのだったが、歌はご愛嬌でこれ一曲でやめてしまった。

ところで『伊豆の踊子』だが、田中絹代の映画的演技には驚いた。いまの女優には出せない古風さと、ヴィヴィッドに躍動する自然さが不思議な共存をしている。つまりあの旧制高校生の伊豆の大島から渡ってきた踊り子への恋ごころは、サマセット・モームの小説の主人公がタヒチの女の野生の自然さに心惹かれたのと同じ種類のものなのだ、ということが、田中絹代によってわかった。

その高校生役の大日向伝の大根役者ぶりというのも驚きに値いするが、あの手の無手勝流の朴訥さというのも、日本映画がごく当初から求めていたキャラクターに違いない。大友柳太朗とか藤田進などという人たちもそうした系譜に属するスターたちだろうし、佐分利信だってそういう中から生まれた一変種と考えるとわかりやすい。つまり映画というのは、何もしないでヌーッと突っ立っていても名演であり得るメディアなのだが、このことはおそらく、歌舞伎しか知らなかった日本人が、新派や新劇や映画など、新しい演技のあり方を「自然さ」に求めはじめた時から生まれ、底流としていまも流れ続けているものである。その証拠に、ヌーッとして男っぽいのが売り物のタレントはいまも絶えない。

小林十九二などという、『二十四の瞳』の老校長みたいな年寄り役者としてしか知らない俳優の若い時の顔を見られたのも一得だったが、ところでこの回は話がわき道にそれたが、『お茶漬の味』メモ集、まだ続けるつもり。

随談第70回 観劇偶談(その31)

都合で新橋演舞場の『狸御殿』を今頃になって見た。しかも前夜、コンピューターの接続の不都合でおそくまで引っかかっていたために、その疲れが夕方になって出て、第一幕を最悪の条件で見る破目になったのは、出演者諸氏に申し訳ないことだった。その点は心して書くことにしよう。

結論から言うと成功だったのではないだろうか。少なくとも、こちらの体調も回復してから見た第二幕以降は、舞台の方のノリも尻上がりによくなっていった。右近の若殿織部のやつしが、この人をちょっと見直すようなよさがあって、小島秀哉や小島慶四郎以下昔の新喜劇の面々がこれもやつしなりで登場してギャグ沢山の場面であったにもかかわらず、あそこから俄かに舞台がしまったのは、右近の手柄である部分も少なくない。藤山直美も、はじめは少し強引に自分の芝居にひきつけるような感もなくはなかったのが、こういう場面になると引き締めるべきは引き締めてかかっていたのはさすがである。

藤山と右近に加え、藤間紫も出るので、九尾の狐ならぬ三頭の怪獣になりはしないかと案じたのも杞憂だった。このあたりは、主演者の舞台人としての良識と脚本の捌きのよさを認めるべきだろう。紫が出たのは、少なくとも結果論から言う限り成功だった。九尾の狐が憑いた奥方が時代の悪から世話の悪に一転するあたりの妙味といい貫禄といい、たしかに余人を以って替えられない芸に違いない。さすがに高齢のためにやや面やつれたかに見えるのもかえって凄みに転じて見せるあたり、お見事というべきである。

それにしても『狸御殿』という題材は、たしかに戦前日本のモダニズムのジャパナイズ化の一典型として好材料であることが、今度のバージョンをみても改めて知らされる。最初の『狸御殿』物が作られたのが昭和14年という「古きよき」季節がまだ辛うじて呼吸をしていた時点であったことは、深く思いを致すに値することだろう。紋切り型のモダニズム論でも、紋切り型の戦時批判でも、指の間から取りこぼしてしまう微妙な面白さがそこにあるのだ。(それにしてもパンフレットにある往年の『狸御殿』映画の宮城千賀子の颯爽たる若殿ぶりの素晴らしさよ! 昭和20年代に歌麿美人で売った喜多川千鶴も若殿役をやっていたとは知らなかった。宮城千賀子の男装の若侍といえば私などがリアルタイムで見はじめた時代でもまだ売り物になっていたのだから、宝塚をやめて後までこんなに長く男装の役を続けた人もいないだろう。昭和28年にのちの松本白鸚が映画初出演した『花の生涯』にも、たしか男装姿で出ていた筈だ。)

この芝居のもうひとつの興味は、右近以下の猿之助一門の連中の今後を占う試金石としてのそれだが、その点でも、かなり明るいものを感じさせた。とりわけ伏見稲荷の白狐というもうけ役とはいえ、笑也がのりに乗っていたのがヘエと思わせた。猿也にせよ春猿にせよ使い方もいい。笑子だの喜昇だのの性格俳優的要素もうまく使っている。来年は国立劇場で彼らだけで『小栗判官』を出すとの由だが、国立が彼らをうまく使うのは、双方にとってさまざまな実りをもたらす可能性がある。

もしかしたら苦肉の策だったのかも知れない。しかしアイデアには筋が通っていた。

随談第69回 観劇偶談(その30、番外映画噺3)

『お茶漬の味』メモの続き。

この作品の制作が昭和27年であることの意義を少し考えてみる。小津作品としては『麦秋』の翌年、『東京物語』の前年で、このふたつの名作の狭間に落ち込んだどちらかといえば失敗作というのが、どうも定説らしいが、昭和27年という戦後史の中でも特別な年をショットとして切り取っているという意味では、それだけでもユニークな意味がある。

戦後史年表風にいえば、この年は講和条約発効の年であり(つまり進駐軍が帰った年である。あの三角帽をかぶったアメリカ兵たち!)、メーデー事件やもく星号墜落の年なわけだが、小津映画の例によってそうした社会的大事件は一切出てこない。戦争の影は、貿易会社の部長をつとめるあの裕福そうな主人公の身辺には、鶴田浩二演ずるノンちゃんと呼ばれている暢気者の青年が、佐分利信と酒を飲みながら、兄が戦死して母親がそのことをいまだに苦の種にしているということを、ややしんみりと語る場面以外には出てこない。鶴田浩二のノンちゃんは目下就職運動中で、放出の背広を着たりしているが、そういう貧乏生活をも愉しんでいるかに見える暢気者のノンちゃんというのが、脚本の設定であり、そのノンちゃんがわずかに見せた影としての「兄の戦死」なのだ。

その鶴田浩二が、佐分利を安飲み屋やパチンコ屋に連れて行き、津島恵子をラーメン屋に連れてゆく。のちに30年代になって、高橋貞二や岡田茉莉子に(やはり佐分利信が)連れて行かれるのと同工異曲な訳だが、しかし同じラーメン屋でも昭和27年のラーメン屋には、単に初老の男が若い世代に当世流の社会教育を受けるというだけでは片付けられない鮮烈な「時代性」が、ショットの中におのずから切り取られてしまうのだ。

歌舞伎座でのお見合いをすっぽかした津島恵子をノンちゃんの鶴田浩二がラーメン屋に連れて行ってラーメン哲学を一席ぶつ。六本木に昭和29年創業ということを麗々しく謳っているラーメン店があるが、こちらはそれより更に2年古いのだ。「支那そば」が「中華そば」になり更に「ラーメン」と名称が三転する、そのプロセスの原点が「昭和27年のラーメン屋」には凝縮されている。

佐分利信が鶴田に案内されてパチンコ屋に行き、ここでは佐分利がパチンコ哲学をぶつ。笠智衆演じる店主が佐分利の軍隊時代の部下だったというところから、ここでは戦争そのものの影がくっきりと落ちてくる。しかし笠智衆が軍隊時代をなつかしがり(班長どのと佐分利は呼ばれている)はては軍歌を(かなり陶酔的に)歌うのへ、佐分利はシンパシイを見せつつも傍観者の位置から動こうとはしない。

ついでにいうと、この前相撲話に書いた栃錦が関脇で初優勝し、土俵から四本柱がなくなって屋根をロープで吊るし、四本柱に替わって四本の房を下げるようになったのも同じ昭和27年の秋場所のことである。前回書いた『晩春』の横須賀線で笠智衆と原節子がボックスシートでなく横掛けの座席に並んで坐って鎌倉から東京まで行くのも、昭和24年という時代を切り取っている。車体も青とクリーム色のツートンカラーでない。湘南電車と称してグリーンとオレンジ色に塗り分けた車両が東京・沼津間に走り出したのが昭和25年、画期的な色彩車両だった。

随談第68回 観劇偶談(その28、番外映画噺2)

小津安二郎『お茶漬の味』メモの続きである。

野球場の場面でバッターボックスに入った別当のショットのことを前回書いたが、7年後の昭和34年作の『おはよう』の中でテレビの相撲中継が写って、入幕したばかりの柏戸と北葉山が画面に出てくる。それを見ている子役が設楽幸嗣だが、設楽孝嗣は『お茶漬の味』にも出てくる。『おはよう』では弟と一緒にミニ家出をする、ある意味では主役だが、7年前の『お茶漬の味』ではもちろんまだ幼い。(のちにこの人は三井物産の社員として、私の兄と仕事上の関わりを持つことになるという、意外な後日の姿を知ることになる。)

津島恵子が見合いをする場面では歌舞伎座が使われるが、前年の26年に再建されたばかりの歌舞伎座が当時の松竹映画ではしきりに登場する。宣伝になるからなるべく使えというような指示が、もしかすると松竹社内であったのかもしれない。『麦秋』でも高橋豊子の母親が歌舞伎座に見に行った留守番をしながら、淡島千景と原節子がラジオでその舞台中継を聞くという場面がある。先代吉右衛門の河内山の啖呵が聞こえてくるのだが、さる物知りの教えてくれたところでは、声は吉右門自身ではなく悠玄亭玉介の声色なのだという。27年作の山本有三原作の『波』でも佐分利信が笠智衆に誘われて出かけた歌舞伎座の二階のロビーで、岩井半四郎扮する気障な男と睨み合う場面がある。

ところで『お茶漬の味』では津島恵子が途中でお見合いをすっぽかして帰ってしまうので、木暮実千代がロビーを探す場面があるが、ひとつ腑に落ちないのは開演中であるにもかかわらず(『娘道成寺』の長唄が聞こえている。「成駒屋」と声がかかる。つまり前年の開場の年に襲名したばかりの歌右衛門が踊っているのだ)、その割りにはロビーの人通りが多いことである。小津を完璧な様式主義のように言う人が多いが、案外ぞろっぺいな面もあるように私は思っている。最後の夫婦でお茶漬けを食べる有名なシーンでも、佐分利信がお茶を茶碗にかける時間から想像される量に比して、いつまでもさらさら掻きこんでいるのが気になる。(『晩春』でも鎌倉と東京を行き来する横須賀線の電車の遠景がいつも同じフィルムの使い廻しだ。白い帯のかかった「進駐軍専用車」が連結されている。)

木暮実千代という女優はいかにも有閑マダムが似合う人だが、商社の部長であるあの家では女中をふたり置いている。年配の方はちょっと写るだけだが、小園蓉子がやっている若い方はかなり登場場面が多い。岸恵子と女学校の同級で、小園蓉子がニューフェイスの試験を受けるのにいっしょにくっ付いていった岸恵子の方がスターになってしまったというゴシップが、当時小学生のわれわれの耳に入るほどに囁かれていた。

ところであれは地方出の女中だからまあいいが、『東京物語』で末娘の香川京子がご飯をよそうのにしゃもじで一回盛りにしたのも、我が家の女たち、つまり母や姉などが問題にしていたものだ。二回盛りにしないのは行儀が悪いというのである。いきなりご飯に箸をつけずにまず味噌汁を一口飲むのだとか、お代わりのときは茶碗に一口分残してよそってもらうのだとかいったマナーが、当時はかなり几帳面に守られていたと思う。

(まだつづく)