坪内逍遥没後70年シンポジウム

共催 楽劇学会・歌舞伎学会・舞踊学会・逍遥協会・早稲田大学演劇博物館21世紀COE演劇研究センター

日時 2005年6月5日(日) 13・00~17・50

会場 早稲田大学井深大記念ホール

 【第1部】13・00~15・20

1.映像上映「坪内逍遥博士シェークスピア最終講義実況」ほか

2.シンポジウム 『新楽劇論』を読む
   中島国彦・渡辺裕・竹内道敬・古井戸秀夫・
   (司会)羽田昶
 【第2部】15・30~17・50

1.映像上映・朗読音盤 坪内逍遥作『沓手鳥孤城落月』ほか

2.シンポジウム 「我が邦の史劇」を読む

   河田明久・神山彰・三浦雅士・渡辺保

   (司会)上村以和於

  *資料代 1000円(当日会場受付にて支払い)

随談第9回 観劇偶談(その3)

「野球噺」はまだ続くのだが、ときに別なものも突っ込むことにしよう。「観劇偶談」というのは、もちろん、最近岩波文庫から復刊された近代劇評家の祖といわれる三木竹二の『観劇偶評』のもじりである。まあ、偉大なる大先達への「トトまじり」ですね。「その3」としたのは、最初の勘三郎の話と、前進座の話をを「その1」「その2」と数えることにしたいからだ。

つい先日、新宿の全労演ホール スペース・ゼロで文学座公演の『風をつむぐ少年』というのを見た。ポール・フライシュマンというアメリカ作家の小説を坂口玲子さんが翻訳・脚色したもので、偶然の事故からひとりの少女を死なせてしまった少年が、少女の母親から、「風見の人形」を作ってアメリカの四隅に立ててほしいと頼まれて、シカゴからシアトル、サン・ディエゴ、フロリダ、東部最北のウィークスボロと旅をするというストーリイである。贖罪の旅であり、自己発見の旅でもある。

狭い舞台に役者は8人。行く先々で出会うさまざまな人物にとっかえひっかえ変わる。少年もさまざまなことに出会う。とくに脈絡はない。これは劇評のつもりではないから、平気でほめてしまうと、じつは坂口さんとは『白塔』という連句の会を一緒にやっている仲間なのだが、一見脈絡のないさまざまな出来事をつないでゆく感覚や呼吸に、付かず離れずという俳諧連句の付け合いの阿吽の呼吸が、実に有効に生きている。あとで聞くと、坂口さん自身、脚色に当たってそれに気がついたそうだ。もちろん、鵜山弘氏の演出の功もあるが、当世風の言い方をすればモンタージュ手法に、計算ももちろんあるが、連句の付け合いという計算づくだけでは出せない面白さがあったのが発見だった。

そう思って気がついたのだが、マジメな優等生だった主人公ブレント少年の姿が、いつしか三蔵法師みたいに見えてきた。つまりわれわれの住むこの浮世には、孫悟空も猪八戒も沙悟淨も、銀閣大王も金閣大王もいるのである。

上村以和於野球話(その2)まだつづき

やがてお払い箱になって帰ってきたが、日本での扱いは以前とは別ランクの扱いとなった。新庄が水際立った行動を見せたのは、北海道にフランチャイズを移した日ハムを選択した時点からである。

札幌が人口で大阪をしのぐ大都市になり、ドーム球場が当たり前になった以上、札幌を本拠地とする球団ができてしかるべきであり、差し当たり東京ドームに相乗りしている日ハムなどが最適任だとだと、私はかねがね思っていたので、その通りになったのはまさしく欣快事だが、その意義を、日ハムの選手の中で誰よりもワカッテイルのは新庄ではないかという気がする。

Jリーグができたとき、まず思ったのは、後発のプロ組織として当然という以上に、プロ野球のことを、特にその弱点を、じつによく研究しているように見えたことである。プロ野球が1950年に二リーグ制になり、アメリカ流のフランチャイズ制を導入しながら、時代の制約もあったとはいいながら、いかにも不徹底なままに今日に及んでいる。Jリーグはその点を、よくあそこまで踏み切ったと舌を巻くほど、徹底した形とプリンシプルを確定した上で発進した。私はじつはサッカーという競技自体にはどうももうひとつ乗れないのだが、(Jリーグが発足したとき、これをいい機会としてサッカー・ファンになってやろうと務めて見たのだが、ついに乗りそこなった)、プロ野球はJリーグに研究され尽していることを自覚すべきだと、当時も思い、いまも思っている。

ところで新庄だが、身の落ち着け先に、ちょうど札幌に移転した日ハムを選んだ。それと同時に、その言動にアメリカを体験する以前とでは、大人と子供の違いが察知されるようになっていた。先に端倪すべからざる聡明さといったのはここら辺りのことをいったのだが、以前は面白くはあっても浮いていた言動が、ぴたりとツボにはまるようになった。一見同じに見えるおひゃらけぶりの、筋目の通り方が実はまるで違う。その豹変ぶりはみごとといっていい。

自分がまずあって、チームがありファンがある。その反対ではない。しかしチームがありファンがなくてはその自分もない。そういう関係が、しっくり身についているということがなければ、こうはならないだろう。阪神時代の新庄は、たぶんその辺がわかっていなかったか、それをどうアピールすればよいかがわかっていなかった。だから、なにかを言えば、物議をかもした。

錦之助のよさは、永遠ともいうべき若さと明るさである。一言で言えば、はつらつさである。それを新庄に連想するのは、はじめに言ったように、プレイをしているときの姿にであって、素顔がどうのという話ではない。

ちょっとほめすぎたかもしれない。しかしいま、一番面白い選手であることは確かだろう。

随談第8回 上村以和於野球噺(その2)更につづき

阪神時代の新庄というのは、まあ、一口に言えば、情けない男だった。スター性はあるが、本当には、まだスターとはいえなかったろう。相撲でいえば平幕である。もっとも、平幕でも、ちっとも面白みのない役相撲よりはずっと見るに値した。横綱と当たれば、一応、それなりに期待が持てる。どうなるだろう、とともかくも思わせる。むしろ、それだけが取り柄だったといってもいい。だから平幕でも役相撲なみの人気があった。

一度、もう野球をやめると言いだしたことがあった。私は情報通ではないから、何があったのか、それほどユニークな材料を持っているわけではないし、そうしたことを詮索しようという気持ちもないが、凡その想像はつく。しかしそれよりもいまなお印象的で、よく覚えているのは、荷物をまとめて、ぐしゃぐしゃになった髪をはらりと垂らした、みじめったらしいくせに、「おつゆがたっぷりある」風情である。あそこまでいけば、ただの二枚目を超えて、あっぱれ和事師といっていい。

歌舞伎で和事というのは、女にうつつを抜かす男の痴態を美的に優美に表現する「わざ」である。ほんらいは痴態だからそのままストレートにやられたら、とても見られたものではない。痴態をすら美にするのが歌舞伎の歌舞伎たる所以である。「わざ」と言ったが、技術だけではどうにもならない役者の身体と、身体の発散する匂いがあって、はじめて和事は芸になる。「わざ」と仮名で書いたのは、漢字ではいわく言いがたいものがあるからだ。

新庄はもちろん芝居をするわけではないから、そのみじめな姿に私が和事を感じたのは、新庄の身体が持っている感覚であり、そこから発散する匂いの故である。それは、ほとんど「いやらしい」ほどだった。そうしてそれは、メジャー入り以前の新庄について、最も印象的なことだった。

メジャーでは、大方の予想を裏切って、結構やった。日本でうじゃうじゃお茶をにごしているよりは、アメリカのほうがむしろ合っているだろうと予測したが、その通りになった。取材に応じる新庄が面白いというので、報道陣がいつも追い掛け回す。やや洗練は欠くものの、当意即妙の応対をする。新庄を中心にして事が廻り出す。そうなると、力が二倍にも三倍にも発揮されるタイプである。メジャーって新庄でもやれちゃうんだ、と誰かが書いていたが、掛値なしにそう実証してみせたのだから、これも新庄のあまり人が言わない功績である。アメリカの新庄は、阪神の新庄とは別人のように表情が明るかった。錦之助を連想するようになったのは、このころからである。ただ似ているというだけでは、こうはならない。新庄は何かをつかんだのだ。おそらくそれは体感したのだろう。

(まだつづく)

随談第8回 上村以和於野球噺(その2)

メジャー・リーグから帰った人に興味がある、とこの前書いたままになっている。

みずから先駆けをした野茂はまだ頑張っているが、吉井とか小宮山、近頃の高津のように、日本でさんざんやって、あと残った力をメジャーで試したい、というのが、ひとつのタイプとしてある。高津はまだ向こうで奮闘中だが、こうした場合、力がまだどのぐらい続くかという残酷な条件と絶えず直面しながらプレイをすることになる。もちろんそこには、プロフェッショナルとしてのプライドの問題もあるし、自分の限界をどう見極めるかという、仕事をする人間として一番厄介な問題がその背後によこたわっている。そこのあたりが、私には興味がある。

で、向こうでの活躍のほどはみなさん先刻ご承知として、私の興味はそのあと、つまり帰ってきてからである。

小宮山などは一度やめたあと、という難しい条件が付け加わった。この人は、テレビに素顔で出演しているときの風貌や語り口を見ても、どこかの企業のエンジニアみたいで、一流選手でありながらはみ出した部分があるのが面白い。清原のように、他人もそれを期待し、みずからも求めて、「野球バカ」に自分を仕立てていくのと対照的なキャラクターである。(野球バカは野球バカで私は決して嫌いではないどころか、あらまほしきナントカバカこそが、ジャンルを問わず最も理想的なあり方だと思っている。清原の場合は他から求められるイメージに縛られる自分に、自身がどれだけ気がついているかが、余計なお節介だがちょっと気になる。)そういう小宮山が、敢えて(客観的には実はすでにかなり難しそうに思われた)メジャー挑戦をし、帰ってからも若干じたばたしたところに、私には驚きと感動があった。源三位頼政の挙兵みたいに、自分を計算できる頭脳と客観性をもちながら、あえて「愚」を冒した人のように、私には見える。そこがいい。

吉井は小宮山に比べれば、もうすこし「野球バカ」的な要素があるのかもしれない。もっともそれは単に見た目だけのことに過ぎないのかもしれない。いわゆるクレバーな野球をする選手であることは共通している。この人はメジャーでももっと若ければもっと活躍できたかと思わせる業績を残したが、帰ってからも、力の衰えは隠せないながらいまなお執着を見せているらしい。そこに私の興味がある。あの吉井が、だからである。

いわゆるきれいな引き際というのがある。そうしてたしかに、みごとな引き際というものが実在するのも事実だ。大きな決断には当然ある種の計算はあるわけだが、その計算が透けて見えると、形の上では「みごとな引き際」である筈のものが、一向にそうは見えなくなってしまうことが多い。「みごとな引き際」があるなら「みごとな野垂れ死に」もあっていいわけで、結局はその人の「仁」にあった「引き際」ができるかどうか、ということになる。ちなみに「仁」とは歌舞伎の用語で、もって生まれた自然な自分と、みずから鍛え上げた自分との融合の上に生まれる「もうひとつの自分」のことである。(つづく)

随談第8回 上村以和於野球噺(その2)つづき

吉井だの小宮山だの少し渋いところから話が始まったが、メジャーから帰ってきた選手たちの中で、何といっても面白いのは新庄である。あのキャラクターは、たしかにプロ野球選手の中でとび抜けている。もともと特異な存在ではあったが、「アメリカ」という体験がなかったなら、いまのあのキャラクターはなかったに違いない。キャラクターもまた成長する。体験を成長に結びつけたところに、端倪すべからざる聡明さを、私は新庄に感じている。もしかするとそれは、世の人たちの見ている「新庄」とすこし違うかもしれない。

中村錦之助に似ている、とプレイをしているときの新庄を見るといつも思う。素顔、といってもテレビで見る限りの素顔だが、素顔も似ていないこともない。中村獅童が錦之助に似ているのは血族だから不思議もないが、新庄が素顔も錦之助に似ているのは、他人の空似以上の意味がありそうだ。目鼻も似ているが、唇からやや縦長の笑窪、顎の鰓の張り具合、それに量感が重なり合う。但し、そっくりサン、という意味では必ずしもない。

それから何より、濡れている感じ。これは男としての色気に関わる。あの色気は、在来の日本の野球選手としてはたしかにちょっと異質だ。私としては悪口のつもりはまったくなしに言うのだが、ある種「異常」といってもいい。阪神時代、人気者でありながら、ちょっと変な奴、と思われていたのは、直接的にはその言動の故だが、その奥を穿てば、あのプロ野球選手としてはやや過剰に「濡れた感じ」が、そうさせていたのに相違ない。(役者はおつゆがたっぷりなければいけません、とは、かつての新派の名女形の花柳章太郎の言である。「おつゆ」といったところがミソである。)

要するに新庄は、役者にしてもいいような色気を生まれながらにして備えている男である。素顔からしてすでに錦之助に似ているというのはそういうことなのだ。そういう男を、昔は、女にもみまほしいいい男、といった。女にもみまほしいとは、女にしてみたいほどの、という意味だろう。美男なのはもちろんだが、美男なら誰でも、女にもみまほしいわけではない。

中村錦之助とはもちろんのちの萬屋錦之介だが、同一人物とはいえここは是非とも中村錦之助でないと論旨の辻褄が合わない。萬屋錦之介とは壮年になって、みずから役者としての「仁」を変えてしまってから名乗った名前であって、錦之介論をはじめるなら、この二つの名前の相克を論じることが不可欠なのだが、いまは新庄の色気についての話である。いまここでいう錦之助とは、『笛吹童子』の丹羽ノ菊丸とか『紅孔雀』の那智ノ小四郎といった若衆役者としての錦之助であり、『ゆうれい船』の次郎丸のような「永遠の少年」としての錦之助である。(嘘だと思ったらこれらの映画のDVDをみてごらん。なるほど、女にもみまほしいとはこういうものか、と合点がいくに違いない。)

さて、新庄である。阪神時代の新庄は、錦之助ばりのいわば前髪立ちの美少年風の色男としてデビュウし、挫折を繰り返している男だった。(つづく)

随談第7回 上村以和於野球噺(その1)続きの続き

よく覚えているのは、巨人の攻撃で走者一塁のとき、誰だったか痛烈なゴロを一、二塁間に放った。一塁手が横っ飛びに取って二塁へ投げてホースアウト、二塁手がすぐ矢のような送球を一塁へ。誰もがハッとしたが、ワール投手という、おなじみのシールズから大リーガーとなったピッチャーが、いつの間にか一塁塁上にいてパチンと球を受けて(という表現は、そのころ愛読していた『おもしろブック』に載ったルポ風観戦記の一節の記憶による再現である)ダブルプレイが成立した。

いい勉強になったね、キミたちもよく覚えておくんだよ、という口調で、たしか中沢不二雄さんだったか、エライ評論家が書いていたのを思い出す。つまりそんな連携プレイも、当時の日本野球では珍しかったのだ。

もうひとつ、こちらは妙な意味で覚えているのは、何戦目かで、中日の西沢と毎日の別当がホームランを打った。もちろん、ふたりとも大変な強打者なのだが、このとき何かもやもやした感じがあって、彼らを祝福してやる声が何故か盛り上がらない。「誰か」より先に日本人第一号を打ってしまったのがいけなかったのだろうか? いま思い出してもおかしいのは、これはたぶん『ベースボールマガジン』か『ホームラン』かどちらかだったと思うが、日本人が大リーガーからホームランを打って悪い理屈はない、というようなことを書いている記事があったことだ。(たしか鈴木惣太郎さんだったか。)

要するに、そのころの日本野球というのはそういうものだったのだ。

記憶を手繰ればまだまだ切りがないが、まあ、こうした記憶を原点として持っている人間からいうと、野茂から吉田松陰やジョン・万次郎を連想したりするのも、まんざら大袈裟なことでもないのだ。メジャー礼讃を得々と語るアメリカ通の人たちを見ていると、鹿鳴館で得意そうにダンスを踊る洋風紳士とダブルイメージになってくるし、日本のプロ野球のさほどでもないゲームを、スゴイ試合ですねー、などと一生懸命面白がろうとしているアナウンサーの声には、攘夷派の志士を連想してしまう。ハイカラーの洋風紳士がかつての攘夷浪人と同一人物であったりするのは珍しいことではないが、いま本当に大切なのは、日本の野球の実力を掛け値なしにしっかりと見極めることだろう。

その意味でひとつ気になるのは、去年のアテネ・オリンピックが銅メダルに終わったことを、なるべく触れずにいようね、というような感じが、関係者と一般ファンとを問わずありはしないかということだ。もちろん短期決戦だから、強いチームが緒戦敗退ということはあり得る。だから結果をいうのではなくて、しかし認めるべきは認め、指摘すべきは指摘するオープンな感覚が大切なのではないだろうか。自分たちに都合のいい解釈ばかりしていると、太平洋戦争のむかしの軍人たちみたいな夜郎自大に陥りはしないかしらん。

メジャーから帰ってきた人たちに興味があると書きながら、そのままになっているが忘れたわけではない。ちっとも歌舞伎の話にならないではないかと思う人もあるかもしれないが、これでまんざら関係のない話をしているつもりでもないのです。

だいぶ長話になった。きょうの話はこれでおしまい。(その1おわり)

随談第7回 上村以和於野球噺(その1)つづき

小学生のころ、サンフランシスコ・シールズというのがやって来た。メルトン投手とか、スタインハウアー選手とかいう名前を覚えている。格好いいというより、名前からして凄味があるような感じだった。オドール監督というのはヤンキースのディマジオの師匠で、ディマジオの弟弟子のミッキー・マントルというのもついこないだまでシールズにいたのだが、今度は来ないらしいという話だった。

第一戦の相手はその年優勝した三原監督(!)率いる巨人軍(と言わないと当時の感じが出ない)で、この年に南海ホークスから移籍してきた別所が先発したが10対0で負けた。(スコアはもしかしたら少し違うかもしれないが、ともかく大敗だった。横綱の前田山が、負けがこんで途中休場中なのに見物に行って問題になり、引退に追い込まれるというおまけがついた。)

そのあと全日本軍だの何だのが戦ったが、まったく歯が立たなかった。でもシールズってアメリカでは二軍なんだってさ、と情報通みたいなことを言う同級生もいた。つまりシールズは3Aで、実はマイナー・リーグなのだということを、当時の日本人の理解の及ぶ範囲内で日本風に表現したわけである。二軍でもあんなに強いんだから、大リーグというのはどんなに強いのだろうと思ったが、大人たちだって、認識の程度にたいした違いはなかったろう。

その二年後に、こんどは本物の大リーグ選抜軍というのがやって来た。中にディマジオもいた。ディマジオはその前年にも単独でやって来て、川上とホームラン競争をやって川上が勝った。ラビット・ボールというよく飛ぶボールや、ゴルフ・スイングといってしゃくり上げる打法が全盛で、ホームラン隆盛の日本野球に対して、自分が目指しているのは二塁打になるようなヒットで、それが本当にいい当たりだったらホームランになるのだ、というようなことを言ったと思うが、少し違っているかもしれない。しかし翌年大リーグ選抜軍の一員としてやってきたディマジオは、それが引退の年で、日本の投手を相手にしてもあまり打てなかった。

今度も第一戦は巨人が相手だった。たしか先制点のチャンスだったと思う。ランナー二塁で川上の打順だった。ここで打ったらエライ、と(当時から既にいた)アンチ巨人のオトナたちが顔を見合わせて含み笑いをしながら言った。川上は右中間にライナーを放って走者を進めた。(つづく)

随談第7回 上村以和於野球噺(その1)

しばらく野球の話をしよう。

まず当面の話題は、メジャー・リーグである。もっとも、イチローや松井の大活躍礼讃みたいなことは、いまはやらない。彼らの活躍はもちろん喜ぶべきことだが、すでに賛辞の山が聳え立っている上に、いまさら賛辞をつみかさねても仕方がない。

それよりも、メジャーから帰ってきた人に興味がある。

メジャー行きを目指す選手に対して行くなという声がある。もっと日本の野球のことを考えろというわけで、尤も至極なのだが、あれは言ってもあまり効き目はないだろう。最高の舞台がある以上、最高の舞台を踏んでみたいのだと巨人の上原投手が言っていたのが、何よりも正直な言葉だろう。こういう場合の正直というものは実も蓋もないものなのだ。アイツの方がカッコイイと思ってしまった以上、もうどうにもならない。たしか江川卓氏の言だったと思うが、黒船が渡来して開国してしまったいま、海を渡りたいと思う思いを縛るわけには行かないのだ。

その意味で、数あるメジャー入りした選手たちの中で誰よりも天晴れだと思うのは野茂である。あの実行力は、黒船に小舟で乗りつけた吉田松陰に匹敵する。野茂はまた、ジョン・万次郎にもちょっと似ている。(松蔭ほどインテリでない点も。)

いまはむかし、江夏が現役を退いてからメジャー入りのテストを受けに入ったことがあった。あれは凄かった。同時に、ちょっと突拍子もなかった。スゲエナアと思う一方で、実はまだあまりピンときていなかった。だから、結局ダメだったということになっても、攘夷思想みたいな情感を刺激されたりはしなかった。林子平が、江戸湾の水はテムズ川に通じているといっても、あまりピンと来なかったようなものかも知れない。

随談第6回 ここらでちょっとひと理屈

随談を書き始めて一週間。これが6回目だから、開店の売り出しのように短い間に詰めて書いて店先を賑わしたが、第1回にも書いたように、そろそろ週一回程度にペースを定め、連載のコラムでも書くようなつもりで書いていくことにしよう。それも、これまでのように、雑然と日記のように書くよりも、月替わりか何かでテーマを立てて書いた方が、バラエティが出来て面白そうだ。もちろん、テーマを決めるといっても、そこは随談だから融通無碍、話はどうワープし、飛躍するかわからない。

劇評を書くつもりはないと言ったが、いわゆる劇評集をつくることを目的にはしないということを言ったまでで、何かを言えばおのずと、なんらかの意味で批評になってしまうのは、性(さが)のようなもので避けようがない。同じように、正面だてて歌舞伎を、役者を論じなくとも、おのずと話はそこへ巡ってくるに違いない。目刺を論じて話は勘三郎に及び、レタスを語るうちいつしか玉三郎の話になっている、というのがもし批評の醍醐味だというなら、ちっとは目新しいタイプの評論集ということにならないとも限らない。

というわけで、次回からはしばらく野球談義を始めよう。題して「上村以和於野球噺」。