随談第664回 『噫! 左團次、仁は人なり』

というタイトルで今月のブログを書き始めたのだが、木挽堂書店の小林順一さんから『劇評』誌に左團次の追悼文を書いてくれないかと話があったので、そちらに振り替えることにして引き受けた。がまあ、折角書きかけたところでもあるし、予告PRの意味合いも含めて、書き出しの一節を引き写すことにしよう。

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左團次が逝った。ちょっと格別な思いがする。いわゆる贔屓役者というのとも違う。劇評で褒めたことも、回数からすればそれほど多くはなかった。だがその死を知って、一入の感概に襲われたのは紛れもない。

同年だということもある。西暦で1940年、昭和の15年、もうひとつ、皇紀紀元2600年ということが現実の暦にあった年の生まれで、どれをとってもみな「切り」のいい数字が並ぶので齢を数えるには間違いようがない。「本土」にも敵機来襲が頻繁にあって「東部軍管区情報」と正式には言うのだがわれわれ子供はただ「情報!」という声がラジオから聞こえると鉄兜をかぶって防空壕にもぐり込んだり、戦争が終わった日のあっけらかんと晴れ渡った空に「敵機」の編隊が爆音を轟かせて果てしもなく飛び来たり飛び去ったり、といった情景を幼な心に見た記憶をいつまでも忘れずにいたりする、そういう年の生まれで、何で読んだのだったか、左團次が同じようなことを言っているのを見て、フームと思いを致したことがある。そういう記憶を共有し、「戦中」といっても「日米戦争」はまだ始まらない「古き良き戦前」のかすかな匂いも記憶の一隅にある、そんな生まれ合わせに、ちょっと格別な親近感を覚えるのだ。

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とまあ、こんな調子である。よろしければ、続きは『劇評』誌をお読みください。おそらく今月半ばに発売、一部1000円(の筈)です。

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「噫」と書いて「ああ」と読ませる感動詞。(この文法用語、どうも気になる。怒りも悲しみも喜びも、そりゃ「感情が動く」のだから「感動」には違いないが。)かつて『レ・ミゼラブル』を『噫!無情』と書く、黒岩涙香以来のタイトルが、少年少女向けの名作物語などでは、戦後でも私などの小学生時代にはまだ使われていた。「嗚呼」という表記もあって、どう使い分けるかその都度、考える。「ああ」とか「あゝ」とか書くのとは、やはりちょいと感じが違う。

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同年生まれの有名人というと、プロ野球に王貞治、大相撲に大鵬という超大物がいるから、何を稼業にしようとそれぞれの業界でこの二人にまさる仕事を仕遂げるのはまず困難であろう。この年の生まれには野球界にはもう一人、張本勲という人があり、角界には琴桜という横綱がいたから、「四横綱」が揃うことになる。(琴桜という横綱は、記録の上の成績ではB級ということになるかもしれないが、風格風情、お相撲さん(という時は、なるべく「お角力さん」と書きたい。いまでも「角界」という言葉は現役である)という言葉の持つ諸々の意味風合いに如何にもふさわしい風情を持った、いい横綱だった。立ち合いぶちかまして一気の押しという相撲ぶりは、どうしても取りこぼしが多く、不安定なので、横綱昇進の際にも議論があったのが、時の横綱北の富士が「あんな強い奴を横綱にしないで誰をするんだ」と言い放ったのが、「記憶に残る」名言だった。

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大江健三郎に続くように坂本龍一が亡くなって多くの傷む声が今なお聞かれ。今の人には坂本氏の方がずっと馴染みがあるのは如何ともしがたいところだろうが、それにしても、という話を聞いた。今回の死去に当って読み直してみたいと思って、某有名書店に行って大江健三郎のやや古い著書を尋ねたところ、店員が「大江健三郎」の名を知らなかったというのだ。それも「若僧」ならともかく、もう中年の、ベテランらしい店員だったという。仕事はきちんとするちゃんとした店員らしく、すぐにキーをパタパタ打って調べてくれて、無事入手することができたそうだが、それにしてもねえ。フームと思うが、まあ、それが世の現実というものなのだろう。

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4月歌舞伎座夜の部が、三日間だけ、休演となった。仁左衛門体調不良のため、という理由だそうだが、以前だったら、代役を立てて興行は続けるのが歌舞伎界の通例だったろう。もっともこれは慣行であって、規則というわけではなかろうから、問題はないわけだろう。つまりこれも、「コロナ前」と「コロナ後」で変わってしまった浮世の一例ということか。

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今月はこれ切りとします。ではまた。

眼中の役者たち-わが歌舞伎見聞録- (抄)

前書き 

わが目で見、今もわが眼中に生きている役者たちについて、わが想いを書き留めておきたいと切実に思うようになった。本にするつもりで書いた草稿が実はあるのだが、出版が難しいという事情もある。そこで、その一端をホームページという場に「抄」という形で載せることを考えた。

抄録に当ってひとつの原則を立てた。人数を絞り字数を絞って二万字という小さな壺に収めること。かつて歌舞伎に馴染み染めた頃、既に私の目に一個の存在であった人、すなわち、わが歌舞伎イニシエーションを彩った年代の人たちに絞ること。それとて、我が眼中にある思い出の役者たちはこれに留まるものではないが、これで精一杯と容認していただければ幸いである。配列は一部の例外を除いて生年順にした。

1.市川寿海(18861971

私の見た寿海は既に八十翁で腰も少し曲がっていた。その『鳥辺山心中』を見たのは昭和42年の正月、梅幸のお染に門之助の坂田市之助、後の富十郎の源三郎という配役だった。富十郎は当時市村竹之丞の名で、三島由紀夫がブリリヤントと評した勢いの盛りだったから、口論から表へ出ろということになって河原で二人が切り結び、どう見たって強そうな源三郎の方が斬られてしまうのは、正直、ウソ臭かった。だがそのあとお染とふたり、比翼の衣装に換えて「濁りに沈んで濁りに染まぬ、清き乙女と恋をして」というセリフになると、この気障といえば気障なセリフがこうでなくては叶わぬと思わせることになるのだった。音吐朗々という以上に、神韻縹渺といった方がふさわしく、おそらくそれは寿海の若き日、澎湃と沸き起った新思潮という時代の香りであったろう。

同じことは青山播磨にも藤岡外記にも、更に『頼朝の死』の頼家や『御浜御殿』の綱豊卿や『将軍江戸を去る』の将軍慶喜にも通底していて、他の誰が如何に名演好演しようとも寿海のようにはいくまいと思わせた。

初代猿翁没後は孤高を持すという感じで地位の上では歌舞伎界の頂点にいたから、襲名披露などの「口上」の席では一座の中央に座ってまず口を切り、最後に「隅から隅までズイと」と締めの口上をいうのが長老としての役目だったが、その「ズイとおー」という節回しが独特だった。他に耳にしたことのない音階だったが、そこにも寿海の人と成った時代の匂いが仄かに漂っていた。

寿海を見た最後は、昭和45年11月の顔見世で、楽日近くに三島由紀夫の割腹事件があったという忘れ難い興行だった。十七代目勘三郎と二代目松緑の十郎五郎に歌右衛門の虎に少将が我童という、私が見た限りでの大顔合わせの『対面』だったが、そこで工藤を勤めた寿海は初めから高座に座ったなり、幕切れに立ち上がることもしなかった。彫像のような古典美に静もり返った風格は、この顔合わせの中で工藤をつとめるのはこの人を措いてないことを確信させた。これが東京での見納め、暮れに京都の顔見世に出たのを最後に、翌年四月に逝ってしまう。

2.尾上多賀之丞(18871978) 

初めてのとき、あゝ、この人がと思って見たのを覚えている。『忠臣蔵』六段目のおかや、『加賀鳶』のおさすりお兼といった定評ある役を幾つも持っていたが、『鏡獅子』で幕開きに梅幸の弥生を連れ出す老女の役をするのが、菊蔵の局とささやかな父子共演の形になるのも、多賀之丞をめぐる光景として懐かしい。

おかやといえば、一文字屋の女房お才と勘平のやりとりの間、木戸の外へ出て余市兵衛の帰りを案じて遠くを眺めやっている姿が目に浮かぶ。こういう時、観客は舞台中央の勘平とお才に釘付けになっていておかやの存在は念頭にないわけだが、その邪魔をせず、しかしこの場のおかやはかくあらなくては叶うまいと思わせた。

『伊勢音頭』の万野というと歌右衛門や二代目鴈治郎を挙げる人が多いが、なるほどそれもさることながら、黒の絽の単衣を着た夏姿の風情という点で、多賀之丞のこそがつきづきしかったと私は思っている。お紺になじられてカッとなって振り返る貢へ、知らぬ顔で莨をふかしていた万野がふーっと煙を吹きかける。その軽み。大立者がする万野だと、どうしてもこういうところが仰々しく感じられてしまうのだ。

安藤鶴夫作の『雪の日の円朝』を十七代目勘三郎がしたことがあった。山岡鉄舟に呼ばれた三遊亭円朝が、雪の降りしきる大川べりの料亭の裏手の桟橋に舟から降り立つと、奥へと案内される円朝の歩調に合せて舞台がゆっくり回って、やがて八代目三津五郎の鉄舟らが待つ座敷になるという贅沢なしつらえで、鉄舟に「桃太郎」を一席所望されるという有名な一件になるのだが、さてその座敷に多賀之丞の老妓が後ろ向きに座って三味線を弾いている。帯をゆったり締めたうしろ姿の風情というものはなかった。贅を尽くした配役としてこしらえられた、筋に絡むわけでもないこの一役を以ってまさか多賀之丞の当り役とするわけにもいくまいが、いまなお目に残る一役というなら、これを挙げてもいいような気すらする。つまりこれは、老境に至っての稀事としてある境地に達した者にのみあり得る、粋(いき)だの何だのを通り越してしまった先の、粋(すい)のまた粋とでもいうものであったろう。

3&4.中村霞仙(18931969)嵐璃珏(190080)  

私が上方の歌舞伎の面白さを知ったのは、鴈治郎や仁左衛門もさることながら、霞仙と璃珏のお陰だといってもあながち大袈裟ではない。

昭和40年9月、歌舞伎座で見た延若の半兵衛に先の芝翫のお千代という『心中宵庚申』は忘れ難いが、そう思わせたひとつには、霞仙の姑の嫁いびりの凄まじさがある。そのあまりの凄まじさを見て、半兵衛がこれはもうお千代と心中するしかないと心を定めるのがもっとも至極と得心させるのだが、そのいびり具合の巧いの何の。大阪という町人の町の、町家の暮らしのやり切れなさが、わが身に沁みるほどつくづくと思いやられた。

璃珏の鷺坂伴内を一緒に見ていた友人が、おい、あれは人形か、と感に堪えた様子で唸ったのを覚えている。加古川本蔵からの賂の目録を読み上げたり、駕篭の中の師直と本蔵を取り持つやり取りのおかしみは、これこそ半道敵というものと得心させられた。同じことでも東京の役者がするのとでは、良し悪しではなく歌舞伎に対する「思想」の違いと考えるほかはないと思い知った。但しこの人のせりふはもがもがと不明瞭で、聞き取れないのが玉に瑕だったが、瑕はあっても玉であったことは間違いない。上方役者らしく、二人とも爺婆どちらも行けて、延若の権太の『千本桜』の「鮨屋」は、璃珏が弥左衛門で霞仙が女房の時と、霞仙が弥左衛門で璃珏が女房の時と二度見ている。

霞仙は、明治上方歌舞伎史の第一ページにその名が出てくる中村宗十郎の孫に当たる名門末広屋の当主として、時に狷介と見えるほどの見識と誇り高い生涯を全うしたという。璃珏は、国立劇場の楽屋口から出てくる姿を見たことがある。純白のハイネックのセーターに紺のジャケットを羽織ったダンディぶりは、若き日には草創期の映画スターとして鳴らした過去を持つと聞いたが、むべなるかなと思わせるに充分だった。

5.市川左團次(三代目)(18981969) 

鶴のような、というが左團次はまさにそれだった。『三十三間堂棟由来』通称「柳」の横曽根平太郎の瓜実顔は、その言葉の由来を目の当たりにさせてくれる趣きだったし、歌右衛門のお三輪に七代目芝翫の橘姫と三福対で踊った『妹背山』の道行の求女などというものは、浮世絵から抜け出したようという比喩が比喩でないことを実証してくれた。歌右衛門はしばしば、これぞという舞台に左團次の出演を請うたが、それはひとえに、左團次の身に備わった和事師の芸の風格を求めてのことだったと思われる。それらは歌右衛門の狙いを見事に射抜くものであったと同時に、歌右衛門よりふた世代は古い芸の格を示して、歌右衛門の更に上を行くものを思わせた。芸格というものを形あるものと実感させた。

大佛次郎というと十一代目團十郎のために書いた諸作が言われるのが通例だが、個人として親しみを持っていたのは左團次であったようで、同世代人同士の持つハイカラな感覚と、長身でダブルの背広の似合う瀟洒な紳士、という二人に共通する外見は、互いに自分の似姿を見ていたらしいフシがある。『廿四孝』の勝頼が、謙信から託された文箱を手に花道まで行くと、すっと軽く持ち替えるような風情を見せて入ってゆく、ああいうところの軽みが余人にない味だ、というのが大佛の左團次評だった。左團次の側も、手すさびに削った茶杓を「天狗様参る」と箱書きして『鞍馬天狗』の作者に贈ったというのが、自ずからなるエールの交換のようでもある。

和事師としては十三代目勘弥から学ぶところが大きかったようで、十三代目の子の十四代目勘弥が若き日十五世羽左衛門に私淑したのと、微妙なねじれ現象があるようなのだが、『髪結新三』の忠七という役の持つある独特の感触は、この二人の二枚目役者の体にあった和事味を最後として現在の歌舞伎にはもはや求められないものとなっている。これも晩年の舞台だが、『乗合船恵方萬歳』の通人でほとんど肩の怒りというもののない、ずるずると着物が脱げ落ちてしまいそうな洒脱な優人ぶりというものは絶妙というのも愚かというべきで、唖然とするほかなかった。眼中にあるすべての歌舞伎中、屈指の妙趣と言っても過言ではない。

6.中村鴈治郎(二代目)(190283 

私が歌舞伎ゴーアーになったころ、鴈治郎を見る機会はほとんどなかった。関西歌舞伎壊滅のごたごたの中で映画俳優宣言をして、南座の顔見世を除いては歌舞伎の舞台を踏むことがないという、ふしぎな季節のさなかだったからだ。題名はとうに忘れたが、浜松の鰻の養殖の研究者の役で白衣姿で出てくる鴈治郎や、隠棲中の株屋の親玉といった役でブラウン管に写っている鴈治郎を見たのが、私にとっての鴈治郎初見参なのである。映画では『小早川家の秋』に『浮草』という小津安二郎監督の二作に、鴈治郎という人のおいしいところが一番よく捉えられていると思うが、名匠巨匠の手になる名画ばかりでなく、「大映専属」の脇役俳優として、アレっと思うような作品にもしばしば登場した。

当時は坂田藤十郎が売り出しの扇雀時代で、こちらは主演スターという扱いだったから、映画界では扇雀の方が桁違いに優遇されていたらしいことは、のちに藤十郎がびっくりするほどあけすけに語っているので知った。当初は相応の待遇がなされていた扱いもいつしかぞんざいになってきて、撮影所内のバス停に佇んでいる鴈治郎を見た女婿の勝新太郎が、自身の高級車で送ってくれたという話は鴈治郎自身が語っている。私が歌舞伎の舞台で見た鴈治郎は、こうした十年の長きに及ぶ映画俳優としての日々を経たのちの姿なわけだが、実はこの映画俳優としての閲歴が、鴈治郎を語る上で見落とせない意味を持っているのではないかと、私は睨んでいる。

歌舞伎俳優鴈治郎をはじめて見た日のことははっきり覚えている。昭和40年6月の歌舞伎座で珍しく『競伊勢物語』が出て、寿海の紀有常に鴈治郎は小よしの役ではったい茶を飲む場面もさることながら、それ以上に忘れがたいのは同じ月の夜の部に『菅原』の「加茂堤」と「佐太村」が出て、鴈治郎の桜丸が「加茂堤」で斉世君を追って、何とも言い難い手つきで軽く広げた両手をゆらゆらさせながら、何とも言い難い足取りでゆらゆらと花道を入る姿である。少し前、三代目猿之助になったばかりのいまの猿翁の桜丸が、同じ場面で脱兎の勢いで花道を駆け込んだのを見たばかりだった。その何という違い。はあ、こういうものかと悟るものがあった。それからほどなく『河庄』の治兵衛を見ることになるのだが、それより先に見た桜丸で上方和事の何たるかを教わったと言っていい。鴈治郎初体験としてこれほど貴重なものはなかったかもしれない。

7.片岡仁左衛門(十三代目)(190394 

仁左衛門の最後となった舞台を見ている。楽日を三日後に控えた南座の顔見世の『八陣守護城』で、毒饅頭を喰って血を吐いた清正が御座船の上で佩刀を杖に立ち身で幕を切るところで、仁左衛門の体が次第に傾いてくる。役の上の清正と、体力の限りを尽くして演じ切ろうとしている仁左衛門自身とが渾然となるような不思議な光景だったが、その日限りで休演、そのまま病床について翌年三月に亡くなったのだった。翌月の四月から、私は日経新聞に歌舞伎評を書くことになっていた。仁左衛門の舞台を新聞評に書く機会はかくして失われた。

私が歌舞伎を見始めた当時、京・大阪へは普通急行で朝立って着くのは夕方という時代で、仁左衛門を見るのは、上京して歌舞伎座に出演する折しかなかった。鼻にかかったような独特の発声がはじめは馴染めず、十一代目團十郎と歌右衛門の松王夫婦に三代目左團次が源蔵という『寺子屋』に、寺入りの下男三助の役で出るという大ご馳走の舞台も、遠いものを見るように眺めていたのだから、思えばこれほどもったいない話はない。

私の仁左衛門体験の転回点となった舞台のことは、はっきり思い出すことができる。昭和41年6月の東横ホールで上方歌舞伎の公演があり、そこで見た『鰻谷』という、無筆の女房が書置きの文言を幼い娘に暗唱させて夫に伝えるという、識者が愚劇といって排斥するふしぎな芝居で、この人は、この芝居の物語を本当に信じ、真実心を籠めて演じているに違いないと思われて、胸を打たれたのだった。

『七段目』の由良之助を見るために旅公演を追いかけたのも、当時はこの人の大星を見る機会がなかったからである。初めて見たその大星はまさしく祇園で遊ぶ由良大尽だった。『七段目』が『仮名手本』全段の中で占めている意味が見えたような気がした。

仁左衛門がその真価を見せたのは七十歳を過ぎてからと言われる。そうでもあろうが、半面として、識者がその真価を認めるのが遅かったからではないかという思いも、私にはある。歌右衛門が錦祥女、松緑が和藤内、八代目三津五郎の老一官、鴈治郎の渚という大顔合せの『国姓爺合戦』が出たのは昭和46年4月で、このときに仁左衛門の甘輝の芸容の大きさを知ったのが、私にとっての第二の仁左衛門発見だった。この顔ぶれの中であったればこその発見であったとも言える。やがて『道明寺』の菅丞相が決定打となって評価が確定することになったわけだが、固定観念が覆るのに実に長い歳月が必要だったのだ。

8.守田勘弥(190775) 

モリタカンヤという名は、キクゴロウの次に私が早くに知った歌舞伎俳優の名前だった。戦後、新聞各紙が当時人気の漫画を競って連載した中に、読売の秋好馨作「轟先生」は、朝日の「サザエさん」が世田谷に住まう中流サラリーマン家庭なのに対し、三流どころの私立中学の教師の家庭という、町場に住む庶民の匂いの濃厚に漂う世界だった。セールスマンになった倅の君太郎が、売込みに行った先の洋品店の中年女性がちょいとした風情なのへ「奥さま、水谷八重子に似てらっしゃる」と世辞を言っているところへ、髭もじゃの亭主がただいまーと帰ってくる。と、「あらモリタカンヤが帰ってきましたわ」というのがサゲだった。このおしどり夫婦の離婚が当時世上の話題だったのである。

次にモリタカンヤの名を耳にしたのは、民間放送が参入しラジオ東京といったいまのTBSが放送を開始した番組に、野村胡堂作の放送劇『銭形平次』があった。週一回の放送の毎回、冒頭に配役が読み上げられる中で、平次役の滝沢修、女房お静の市川翆扇、八五郎の渡辺篤、語り手の守田勘弥の四人は本人が自身で名前を言う。いまも耳に残る勘弥の語りを通じて、胡堂の名調子の文体が私の血肉となったことは疑いない。

十七代目勘三郎と二代目松緑が『弥次喜多』を出したのは昭和38年7月の歌舞伎座だった。劇中、作者の十辺舎一九が登場する。その一九の役が勘弥だったが、まるでその人を見るようだった。実際の一九がどんな人物だったかは別の話で、つまりは歌舞伎役者としてのエスプリで役を捉えたのだ。こうしたところに勘弥らしい才知が窺われた。先に多賀之丞のところで書いた『雪の日の円朝』でも、三津五郎の山岡と同席して円朝の「桃太郎」を聴く勘弥の高橋泥舟の姿が、カチカチ山の泥舟を号として明治の世に永らえる旧幕臣の姿を鮮やかに一筆描きしたものとして目に残る。

若い時から十五世羽左衛門に私淑していたから与三郎や直侍に自負があったようだが、私としては『布引滝』の実盛や『輝虎配膳』の直江山城のような軽みの利いた生締役や、『伊勢音頭』の貢のピントコナや『髪結新三』の忠七のようなひとつひねった和事の役に、勘弥ならではの妙味があったと思っている。開場後しばらくの国立劇場が勘弥にとっての復権の場となったことは知られているが、ここで見せた『唐人殺し』の十時伝七や『敵討天下茶屋聚』の早瀬伊織の、きりりとした中の和事味の冴えこそが真骨頂を示すものだった。「最後の人」であったことはたしかだろう。

9.十七代目中村勘三郎190988

自分は一度嫌いだと思った役者をのちに好きになることはまずないが、二人だけ例外がある。一人は文楽の人形遣いの桐竹紋十郎、もう一人が歌舞伎の中村勘三郎だと安藤鶴夫がテレビの番組で、当の勘三郎に向かって言っているのを見たことがある。どうだ、うめえだろうというのを鼻の先にぶら下げているようだったからだという。紋十郎の名人ぶりには私も晩年に間に合ったが、「奥庭」の八重垣姫で、片手を離して後ろ向きに決まる裏見得の華麗さといったらなかった。

私の知る勘三郎は、もちろん、アンツル師が認めてからのちの勘三郎である。「口上」の席で平伏していた頭をもたげると、もうそれだけで客席がざわざわした。身についた愛嬌と、何を言うのだろうという期待とがひとつになってのジワだが、その空気感に独特のものがあった。のちの中村富十郎が市村竹之丞を襲名した時の口上では、十七代目羽左衛門から市村家の当主として厳しい言葉が出て話題となったが、そのすぐ後で口上を述べた勘三郎の、竹之丞をかばって強くとりなすような口調には、いいな、と思わせる独特の親密感があった。勘三郎には勘三郎で、時に取りつく島もない気難しさを見せることもあるわけだが、こうしたときの勘三郎に、余人にはない人間味を覚えるのもまた、事実だった。

テレビの対談で安藤鶴夫が「これからやりたい役は?」と尋ねた後、すぐ「いや、まだ何の役やってない?」と訊き直したように、芸幅の広さは傑出していた。その時は、まだ由良之助をやってませんねと答えたのだったが、その大星ものちに「四段目」を手掛けて、音楽評論で高名な吉田秀和が、テレビで見たといって勘三郎の大星の神韻縹渺たる舞台ぶりについて新聞の時評に長い文章を載せたりした。『筆屋幸兵衛』で、一家心中を決意した幸兵衛が乳飲み子を短刀で刺し殺そうとすると、赤子がニコニコ笑顔を見せるので手にした刀をひらひらさせてあやし始める、という辺りの小手の利いた巧さは、ある時などちょうど長女が生まれた後だったので、思わず背筋を縮めた。

『加賀鳶』の道玄のような役が面白かったから,その種の役を思い浮かべることが多いのだが、若い頃は女方で、本領が和事と二枚目にあった芸味は、その芸の根幹に生き続けていた。『夏祭浪花鑑』のお辰という傑作が、田圃の太夫四代目源之助の直伝という値打ちものだったが、後の八代目宗十郎がお辰を教わりに行くと知って、あたしに教えてくれた型はあいつには教えないで下さいと田圃の太夫に頼んだという打明け話が残っている。これが勘三郎らしい「いい話」として伝わるところに、役者勘三郎の真骨頂があるのに違いない。

10.十一代目市川團十郎190965

昭和28年9月12日付の朝日新聞に連載中の「サザエさん」が話題を呼んだ。割烹着姿の近所の奥さんが「あたし裏切られたわ!子供が二人まであったんです」と涙ぐむのへ義憤に駆られたサザエさんが「まアお宅のご主人が!」と憤慨していると、四コマ目にチョビ髭の貧相な亭主が登場「いえ、エビゾウの話ですよ」というのがサゲだった。二人の子供とはのちの十二代目團十郎の姉弟のことで、独身と信じられていた海老蔵に永年連れ添う夫人と二人の愛児があった事実を公表したのが、この傑作漫画の背景だった。翌月、長男が本名の夏雄の名で初舞台を踏むわけだが、スキャンダラスな翳が少しもなく、生真面目に信条を貫く人柄を知らしめることになったところに海老蔵の真面目があった。エビさまの人気も絶頂に達しようという時期で、「サザエさん」の作者の長谷川町子さんも人後に落ちぬ海老蔵びいきを表明していた。

海老蔵は不器用だという声があった。高麗屋の三兄弟で一番巧いのが松緑、拙いのが海老蔵だと、得々と教えてくれた老人と三階席で隣り合わせたことがある。訥々とした印象は私も受けたが、それは逆に、丈高い豪宕なイメージとなって私の中に定着した。その助六は、花道で傘を開いてキマる芸容の雄大さや、「打て、叩け、いくらも打てよ髭の意休」と悲壮な声で迫る憂愁が忘れ難いものとなった。

最後となった助六を見たのは東京オリンピックのさなか1964年の秋のことだが、その年の五月、『道明寺』の菅丞相を終わり初物で演じたのが鮮烈な記憶である。幕切れ、苅屋姫へ父の情を檜扇に託して花道へかかり、七三で振り返って長い袂を巻き上げる天神の見得を、私の記憶の中の團十郎はさらにいわゆる「逆七三」まで歩み続けてから振り返り、袂をキリキリと巻き上げたのが胸に深く突き刺さった。当時私は、歌舞伎座の三階席の東側「ろの39」か「ろの40」という席に決めていた。この席からだと、舞台を斜め上から見下ろす代わり、花道が揚幕まで全部見える。逆七三まで歩むと、観客もそれだけ息を長く詰めて見守ることになるから見得の効果は一倍となるのだった。もっともこれは、所詮は私の記憶の中でのことで、今となっては確証のない話である。

ところでこの時の昼の部には、『道明寺』の後にもう一幕、二九亭十八なる作者の『鳶に油揚物語』という新作の笑劇があった。團十郎が戯名で書いた戯作だった。最後の舞台となった『保名』まで、ちょうど一年を残していた。

11.初代松本白鸚(八代目松本幸四郎)(191082

昭和40年の3月、七代目幸四郎の十七回忌に十一代目團十郎、八代目幸四郎、二代目松緑の高麗屋三兄弟で追善興行を催したのが大変な評判となった。幸四郎は、当時東宝に移籍していたから、追善興行も松竹・東宝双方で行い、先の月に宝塚劇場で東宝が、翌月は松竹が仕切って歌舞伎座でというのも、評判を煽った。露伴の『名和長年』や活歴舞踊『大森彦七』といった七代目ゆかりの珍しい演目の中に、眼目は三兄弟が弁慶と富樫を日替りでつとめる『勧進帳』で、さらに義経も後の七代目芝翫、四代目雀右衛門に三代目延若の中堅三人が日替わりでつとめるから、すべての組み合わせを見ようと思ったらほぼ毎日、歌舞伎座通いをしなければならないというのが話題を呼んで、一幕見席は連日超満員の盛況となった。私は三兄弟の弁慶を目当てに三日通ったのだったが、東宝に移籍して四年というこの時、幸四郎が歌舞伎座で弁慶をすること自体が、久しい渇を癒やす思いを人々に抱かせていた。

弁慶も、やはりこの時に見た『七段目』の大星も、私の中にあった幸四郎のイメージを増幅してくれる上で充分に満足した。弁慶では團十郎のが、定評のある富樫以上に、荒事らしい稚気や豪宕な覇気を迸らせる煌めきが、私の中の團十郎像に欠かせないものとなっているが、それとは別の意味で、幸四郎のそれは、『勧進帳』の弁慶というイメージを十全に満足させてくれるものだった。同じことは『七段目』の大星にも言えて、『仮名手本忠臣蔵』、更には『元禄忠臣蔵』の大星・大石から忠臣蔵映画における内蔵助まで、幸四郎のそれはすべてをカバーして揺るぎない大石像・大星像を現前させるものだった。明治の劇通が九代目團十郎の大星を実在の大石を見るようと評したというが、私にとっての幸四郎もまさしく現実の大石を見るような思いにさせる大星だった。同じことは弁慶にも井伊大老にも通底していて、実際の弁慶、実際の井伊大老を眼前に見せてくれる。実際の大石、実際の弁慶、実際の井伊大老以上の実在感とは思えば不思議な存在だが、私にとっての八代目幸四郎とは、何を差し置いてまず、そういう役者だった。「実事」という役柄の真意を、歌舞伎辞典の解説の記述を超えて、私は幸四郎によって実感したのである。

12. 片岡我童(191093 

我童というと思い出すのは、『忠臣蔵』六段目の「余市兵衛内」にお軽を買いに来る一文字屋の女房お才である。勘平の懐中にある財布は、昨夜、お才が余市兵衛に貸してやったもので、私のこの着物と共布で作ったのだ、というようなことを京都弁で小やみもなしにじゃらじゃらと喋り続ける。やがてお軽が勘平と水離れということになって、お才が夏の日盛りの表へ出ると、待たせてある駕篭に横坐りに腰かけて日傘を差しかける。いかにも一服の涼という風情だった。

襲名には『矢口渡』のお舟をしているのだが、私が見るようになってからは花車方の役に限られた感があった。松緑の弁慶に歌右衛門のおわさで『弁慶上使』が出ると、侍従太郎の妻花ノ井を我童がするのが決まりのようになっていた。弁慶の手前を取り繕おうとするところが評判だったが、あんな女郎屋の女将みたいな武家女房はおかしいという指摘もあった。もっともではあるが、我童という女方の、良くも悪くも特性があらわれた役として定評が出来ていた。昭和45年11月の顔見世は松竹創立75年記念という大掛かりな興行で、その『曽我対面』は寿海の工藤に十七代目勘三郎と二世松緑の十郎五郎、歌右衛門の虎という大顔合わせだったが、その中で少将が我童という配役が、この一幕を古風で味わい深いものにする上で絶妙だった。傾城役者としての一代の舞台というべきであろう。

時が流れ八十余翁となった我童は、歳末の一日、正月に飾る生花を求めての帰途、路傍に倒れ花を抱いたまま息絶える。その死までも、孤高の女方ならではの姿だった。

13.代目尾上松緑(191389

昭和40年7月歌舞伎座の松緑の舞台を、郷愁にも似た懐かしさと共に思い出す。司馬遼太郎の長編小説の劇化『国盗り物語』で斎藤道三、木下順二作の民話劇『おもん藤太』、夜の部に『怪異談牡丹燈籠』の通しで伴蔵と孝助の二役という間に挟まった中幕の舞踊『夕立』の小猿七之助という、全演目で主役をつとめる大奮闘だった。この年は六代目菊五郎十七回忌に当たっていたので、五月に盛大な追善興行を行なったばかりだったが、この月の、長編の新作に民話劇、黙阿弥の流れの世話狂言という立て方は、六代目没後に結成して以来菊五郎劇団が取ってきた路線だった。松緑はこの二年前に『義経千本桜』の半通しで知盛と忠信をつとめたのが、のちに三役を完演する下地となったということと共に、戦後歌舞伎の原風景のように思いなされてなつかしい。(この時の『千本桜』の奮闘で痛めた膝の痼疾が後に痛々しいものになりまさっていったのだった。)

巨大な肥躯に軽みを秘めているところに松緑の真骨頂があったが、年配も五十歳前後のこの頃が心技体揃った、その生涯の一つの季節ではなかったろうか? 私にとっての戦後歌舞伎の風景のひとコマが、この時期の松緑と共にあることは間違いない。『牡丹燈籠』も、この時が「怪異談」の三文字が頭につく河竹新七による作の、事実上最後の上演となったという意味でも感慨深い。この後は、大西信之が文学座に書いて杉村春子と共演した脚本にお株を奪われることになってしまう。松緑の伴蔵に鯉三郎の山本志丈と揃って、羽左衛門の宮野辺源次郎をこわもてに追い返してしまう辺りはまさしく大人の芝居で、ああいう面白さは新七版でないと味わえない。謹厳なイメージの羽左衛門が、源次郎のような役が面白いのも、意外な一面を知る妙趣というものだった。

伴蔵と二役で孝助の件を出したので飯島平左衛門に勘弥が客演し、若き日の坂田藤十郎の扇雀が萩原新三郎で出た。お露役の現・菊五郎が前々月の追善に丑之助から菊之助になって花形として第一歩を踏み出したまさに莟の季節だった。多賀之丞のお米という逸品を見たのもこの時だし、その秋には十一代目團十郎が死んだことなども含めて、この年が戦後歌舞伎のひとつの折り目であったことがいまにして思われる。

14.中村又五郎(二代目)19142009

初代白鸚の八代目幸四郎が一家一門を率いて東宝に移籍した時、共に東宝入りしたのがこの人だった。十年後、御大の幸四郎が松竹に復帰してこの大移動は終結したのだったが、又五郎のみはフリーの立場で後半生を貫いた。

忘れ難いワンショットといった趣きで、ちょっとした一瞬の風姿に、その人物の像を印象的に焼き付ける。現・白鸚と吉右衛門の兄弟共演が評判となった山本周五郎の『さぶ』で、罪を犯し人足寄場に送られたさぶにさりげなく暖かな目をかけてやる寄場の役人を又五郎がしていたのが、他の場面が遠い記憶の底に薄ぼんやりと沈んでいる中で、そこだけが鮮やかに目に残っている。こうした例を幾つも持っているところにこの達人の在り様があった。

立場がそうさせた結果だろうが、少々無理な役でも引き受けることも少なくなかった。十七代目勘三郎が終わり初物の『鮨屋』の権太をしたときにも弥左衛門を引き受けている。本来の柄や仁とはかけ離れたような役も演じ重ねてその骨法を掴むに至る。八十歳を過ぎていた筈の晩年に演じた『逆櫓』の権四郎がまさにそれで、生涯を懸けてわが物とした芸の力の結晶だった。

15.尾上梅幸191595 

一幕見の席から見下ろす谷底のような舞台で梅幸が『京鹿子娘道成寺』を踊っている。恋をする女の心の模様を次々に、組曲のように繰り広げてゆく。歌右衛門のように、激しく情念の焔を燃やす道成寺縁起のドラマを一大交響曲のように高めてゆくのと異なり、則に従って、端正に、ただ踊ることそのものの快さで見る者をやさしく包んでくれる。梅幸の踊る『娘道成寺』に私は幾たび、慰められ、癒やされたことだろう。同時に、すべてに対照的だった歌右衛門と梅幸と、二つの『娘道成寺』を同時代に見られた幸福こそ、わが歌舞伎観劇歴の中でもかけがえのないものだったと、振り返ってつくづく思われる。

立役に秀作が多かった中でも、『勧進帳』の義経と『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官を逸品とする定説に私も異議はないが、「わが梅幸」の一役を加えるなら、『新薄雪物語』の園部左衛門が選り抜きの一役として思い浮かぶ。自身の迂闊さに付け込まれて窮地に陥った左衛門が、詮議役の葛城民部や父の園部兵部らにおろおろ弁明をする。こうしたくだりが、いわゆる名演技として例に引かれるようなことは普通はない。だが後に同じ役を他の人がするのを見るたびにいつも梅幸が思い出されたのは、余人の及ばぬ芸品の故であったろう。

決して、温厚というだけの人ではなかったらしい。十八代目勘三郎から聞いた話だが、若い頃、花形の一座で『忠臣蔵』をすることになり、父の十七代目や歌右衛門、梅幸らがずらりと陣取って見守る中で舞台稽古が行われた。勘九郎としては初役でつとめる判官だったが、梅幸に教わった通り神妙に演じ、やがて「四段目」の腹切りの場になると、父と歌右衛門が何やらひそひそやっている。どうやら気に入らないらしい。と突然、梅幸が大きな声で、いいんだよ、それで、と叫ぶと立ち上がり、上着を脱ぎ棄て舞台に上がってきて判官切腹の一部始終を本息でやってみせたという。おやじも歌右衛門のおじさんも黙っちゃいました、と十八代目が懐かしむように語り終えたが、梅幸の一面を知る上でこよなき逸話というべきだろう。

16.中村歌右衛門19172001

初めて、あゝ、これが歌右衛門か、という思いで見つめた時、歌右衛門はすでに伝説中の存在の趣きがあった。自ら復活した『舞妓の花宴』(しらびょうしのはなのえん)という、白拍子姿であでやかに踊る小品で、「艶」という一文字を自身の体で描き出す趣きだった。

指先の一本一本がしなるように折りたたまれ、しなやかに伸ばされる。腰を沈め、膝を折り、身をくねらせる。ひとつとして、直線的な動きはない。典雅にして艶なる美は、そのようにしてしか生まれることはないと言うかのように。舞台の額縁との間に黄金比率が成立しているかのように見えた。

やがて、その政岡を見、揚巻を見、八ッ橋を見、阿古屋を見、『道成寺』や『関の扉』や『将門』を踊るのを見た。『朝妻船』もあった。どれも圧倒的であった。不思議なことに、歌右衛門がいつも独りのような印象として、後に残った。歌右衛門がわが物顔に振舞ったのでも、相手に不足があったのでもない。だがその舞台を思い浮かべる時、歌右衛門はいつも独りなのだ。これは、どういうことなのだろう? 

時には敢えて脇に回り、若手を引き立てるようなこともあった。そういうことも上手かったのも事実である。海老蔵時代の十二代目團十郎の与右衛門を相手に『累』を、短時日の内にアンコール上演のように二度、出したことがあった。海老蔵も歌右衛門に導かれ、役者ぶりの大いなるところを見せ上出来だった。手負いになった累が、解けた帯を舞台に叩きつけるように与右衛門を圧倒する凄まじさに満場が息を呑んだ。あのとき場内に満ちた客席の嘆声は、ジワとは異なるものだった。

私が歌舞伎にのめり込んで行った昭和三、四十年代、歌右衛門が精力的に復活狂言に取り組んでいたのは、戦後歌舞伎史上の一大奇観に遭遇したのだったと言える。『競伊勢物語』『身替音頭』『日蓮記』『廿四孝』の「信玄館」『志渡寺』『玉藻前曦袂』『板額門破り』や、世話物でも『心中刃は氷の朔日』『お静礼三』その他その他。こうして外題を書き並べるだけでも、ただならぬものを覚える。『切支丹道成寺』という、これは復活ではなく新作舞踊の、それも何回目かの時だったが、一緒に見た歌舞伎初見参の友人がたちまち歌右衛門教徒になってしまったのを思い出す。

私は決して歌右衛門教徒ではなかったが、こうした闘いの日々ともいえる時代を経て、やがて老境に至るまでを見続けることができたのが稀に見る幸せであったことは間違いない。それは、永年見続けたどの俳優にも言えることには違いないが、歌右衛門の場合、ひとりの人間の「歴史」というものを強く印象づけられるのはなぜだろう? 

17.河原崎権十郎(三代目)(191898) 

権十郎は私の贔屓役者である。誰が見ても歌舞伎役者という風貌風姿。羽子板役者、と言いたい気っ風の良さが顔に現われていた。地方巡演で見た舞台だが、松緑の御所五郎蔵に対する星影土右衛門の役者ぶりは、色敵の色気という一点で、あれほど土右衛門らしい土右衛門はなかったと断言できる。もうひとつ、猿翁が『四谷怪談』の初演に模して『仮名手本忠臣蔵』の各段とテレコにして見せた時、その伊右衛門は、鳶八丈の衣裳がぴたりと極まって、色悪の風情が誰の伊右衛門にも勝る天下に一品のものだった。

権十郎と言えば必ず言われるのが若き日「渋谷の海老様」と呼ばれたという逸話だが、渋谷駅上にある百貨店の九階に東横ホールなる客席数千二席という中劇場が出来たのが昭和29年末、昨今、昭和レトロと呼ばれ美化されて語られる場合の「昭和」なるものは、おおむね30年代のことのようだが、そのとば口に始まり十五年余、平均年数回、歌舞伎公演が行われたのが東横歌舞伎である。昭和渋谷文化の一翼を担ったのは間違いない。「渋谷の海老様」とは、折から「海老様」と呼ばれたのちの十一代目團十郎の風貌・役どころをそのままに、渋谷でも海老様が見られるというところからついた異名だった。こういう呼び名には、本家本物と差別する微妙なニュアンスがつきまとうが、羽子板役者らしい男気ある気っ風は、『お祭佐七』のような狂言では、むしろ本家の海老様以上に、外題の「江戸育」の三文字に籠められた狂言の生命が生きて通っていた。

病いに倒れた松緑の代役で急遽オセロを演じてのけて驚倒させたり、これも病床にあった松緑に代わるという格式で国立劇場三十周年記念の『仮名手本忠臣蔵』で歌右衛門の戸無瀬に「九段目」の加古川本蔵をつとめたり、権十郎の役者人生にはとかく誰かしら大立者の代行というしがらみがつきまとったが、そのつど見事につとめ遂せたところに山崎屋一代の誉れがあった。売出し中の十二代目團十郎の直侍や与三郎に自身は丈賀や蝙蝠安をつとめたり、松緑の権太、梅幸のお里ら先輩ばかりの中で弥左衛門をつとめたり、その男気こそ、余人を以ては代えられない権十郎の役者人生の味わいであり、そうした水をくぐって磨いた男振りだった。

18.中村雀右衛門(四代目)(19202009

大正9年という年の生まれには、野球の川上哲治、映画の原節子等々、ビッグネームが数多い。戦前戦中にキャリアをスタートさせ戦時の翳を負いながら戦後に花を咲かせたという共通項を持つ。雀右衛門もその一人だが、中でもひと際、戦中派の翳を色濃く落としていたように見えた。

映画俳優大谷友右衛門としては、有名な「佐々木小次郎」よりも、溝口健二監督の現代劇「噂の女」のアプレゲールの医師の役が興味深い。当時流行のリーゼントスタイルという髪型が似合う、兵隊帰りの戦中派青年という雀右衛門自身とも重なり合う一面もありそうな人物が、昭和20年代という時代を巧まずして生きていた。実際、この人はそういうところから人生の後半を始めたのだ。80歳まで革ジャンパーにジーンズ姿でオートバイに乗って楽屋入りをしたというが、押しも押されもせぬ名優雀右衛門となってからも、先輩諸優のような威風辺りを払うような在り様を、どこかで拒む風が感じられた。

古典派の歌右衛門、近代派の梅幸とも違う第三の女方という言い方をされたことがあるが、そこにはある種の批判も隠されていた。第三の道は茨の道だったのだ。懐かしさと共に思い出すのは雀右衛門襲名をはさんだ昭和30年代半ばから40年代にかけ、東横や新橋演舞場で勘弥と雀右衛門を芯にした公演がしばしばあった。清心が腹を切って死ぬ最期まで通しで見せた『十六夜清心』の強請場で、十六夜の頭巾がはらりと落ちて丸坊主の頭を見せる、まさに触れなば落ちむ風情や、『名月八幡祭』で美代吉が立て膝をして足の爪を切るしぐさのしどけなさなど、ほんの一瞬の情景がいまも鮮やかに蘇る。明治19年生まれの寿海から昭和52年生まれの海老蔵まで、持った亭主役の年齢差は90歳に亘るというが、この当時の勘弥との夫婦役者ぶりが最も似つかわしい。

平成と元号が改まり、戦後歌舞伎の大立者たちが相次いで逝って昭和歌舞伎の終焉ということがしきりに言われ、現在の第一線が陣頭に躍り立ち、谷間の世代と呼ばれた世代の各優が長老として祭り上げられた中で、ひとり雀右衛門は満開の花を咲き誇らせる季節を招来し、一代の絶頂期を迎えることとなった。奉られた不死身のジャッキーという愛称を、この人はたぶん、決して嫌ってはいなかったのではないかという気がする。

19.実川延若(192191) 

延若を知ったのは関西歌舞伎が壊滅状態になって東上してからだが、たちまち延若贔屓になった。『封印切』の忠兵衛の出の、ちっととやっととお粗末ながら梶原源太はわしかしらんと、含羞を含んだナイーヴさから封印を切る悲痛さへクレッシェンドしてゆく、独特の色気が滴るようだった。雀右衛門のおさんで『時雨の炬燵』、芝翫のお早で『心中宵庚申』をしたのも忘れ難い。

それ以上に好きだったのは『将門』の大宅光圀とか『須磨の写絵』の此兵衛で、常間できっかり踊る快感の一方、肩を使って身を揉むこなしに得も言われぬ妙味があったが、これは「延若ぶり」とでも名付けるべきものであったろう。此兵衛は清元だが、『千本桜』の「鳥居前」の狐忠信は東京とは全く違うやり方で、義太夫地の所作殺陣の面白さを私は延若で知った。折から歌右衛門が数々の復活狂言に取り組んでいた時期で、歌右衛門はしばしば延若を相手に選んだ。

中座で『千本桜』の三役をするのを、夜行の寝台急行で大阪まで往復して見に行った。急勾配の三階席は溢れんばかり、延若が登場するたびの声援は文字通り万雷が鳴るようで、大阪の観客が自分たちのエースとして延若に寄せている期待が身に沁みて感じられた。

延若は昭和42年3月の歌舞伎座と、昭和52年11月のいわゆる東西忠臣蔵の折の中座で、『仮名手本』の勘平を「三段目」から「五・六段目」へと通して演じている。悲壮味を和事味で包んだところが延若ならではで、二人侍を出迎える時、紋服に着かえようと押入れから畳紙を出すとおかるの矢絣の着物が重ねてあるのが目を射て、ハッと思わず抱きしめる、その悲哀。その前に、帰宅すると下駄履きになって小流れで足を洗うという、他では見ないやり方を見せたりした。

『葛籠抜け』の宙乗りの身の軽さも独特の面白さだったが、それと別に『釜渕双巴級』で、女房に頭の上がらない恐妻家で子煩悩の五右衛門が、大詰、七条河原の釜茹での場で我が子を頭上高く掲げると懐から浅黄幕が引き出されて幕になるという奇抜な趣向だった。夫婦者らしい外人の観客が、あーっと叫んで目を覆ったのを思い出す。

最晩年舞台を遠ざかってから、十八代目勘三郎が『乳房榎』を延若に教わってこの狂言の伝承が繋がった。おそらく早変わりの機微に触れてのことだろう、延若がにやりと笑って、ここから先は別料金やで、と言ったという話を勘三郎から聞いた。「いい話」ではあるまいか。

20.中村芝翫(七代目)(19282011) 

わが歌舞伎イニシエーションの頃、七代目福助であったこの人は、『先代萩』が出れば沖ノ井、『寺子屋』が出れば戸浪といった役どころでいたが、菊五郎劇団の花形一座で東横ホールに出ると、『娘道成寺』を踊るなど立女形格の役をつとめていた。三日月のように顎のしゃくれた長い顔が特徴の寂しさの勝った舞台ぶりで、延若の半兵衛と『心中宵庚申』のお千代をしたのがいかにもつきづきしかった。

その舞台を最後に、胸部疾患とかで半年の余休んでいたのが、舞台復帰すると、役者絵を見るような古典味のある立派な顔に変貌していた。機が熟するのを待っていたように、成駒屋一門五人同時襲名という興行が大々しく行われた。眼目は福助の七代目芝翫襲名で披露の演目は『廿四孝』の八重垣姫と『鏡獅子』で、とりわけ『鏡獅子』が目の覚めるようだった。今思っても、私の見た限りの『鏡獅子』で一、二というものであったと確信する。早々と芝翫時代の到来を広言する識者もひとり二人ではなかった。三代目左團次がその聞書きの中で、六代目を最もよく写したものと明言しているが、左團次は東横ホールで『二人道成寺』を福助と踊っている。十年後、歌右衛門のお三輪に芝翫の橘姫で求女をつとめて『妹背山』の道行を踊ったのが、瀟洒という言葉を芸にもどいたようなこの老名優の置き土産となったのだったが、このトリオの一角としての橘姫に芝翫以外の誰が考えられたろう。

極論めくのを承知で言えば、それからの約二十年間に、私の芝翫体験の核心のほぼすべてがあったと言おうか。昭和58年という年に、芝翫は二度、『娘道成寺』を踊っている。一度は本興行で、一度は国立劇場の舞踊公演で、こちらは一日限りの会である。私の見た限りの芝翫の芸の神髄と思われた。

時を経て世紀が改まった年の秋、舞い納めと謳って『京鹿子娘道成寺』を出した。何かと比較された雀右衛門が八十歳を過ぎてからも踊り続けた『娘道成寺』を、随分前から、自ら封じたように踊らなくなっていた。久々に封印を解いたそれは、まさしく、老いの花そのものと思われた。

21.中村富十郎(19292010) 

この人の場合も初対面は映画で、後に大川橋蔵が当り役にした「若様侍捕物帳」の何代か前の若様である。新歌舞伎の役などで今も耳に残るパリっとした高音で歯切れのよいセリフが、時代劇映画のセリフとしてはちょっと違和感がないでもなかった。

ここらを原風景として、やがて坂東鶴之助から市村竹之丞と名を変えた頃の舞台ぶりが私にはこよなく懐かしい。襲名の折の筋書に、三島由紀夫がその芸の目覚ましさをブリリヤントと評しているのを、目を瞠って読んだのを思い出す。映画の若様侍では裏目に出たあの息の詰んだセリフが、襲名披露の『頼朝の死』の畠山重保では三階席の隅々まで凛然と響き渡った。このとき頼家を演じた寿海の直伝で、関西歌舞伎時代に身につけたものだった。

だがこの竹之丞時代が実は苦難の時代で、東横ホールや新橋演舞場などで猿翁の三代目猿之助、のちの九代目宗十郎の訥升、由次郎から一緒に襲名した田之助と四人で組んでの公演は、折から中国で威を揮っていた江青夫人一派になぞらえて「四人組」と揶揄的に呼ばれたりした。一方芸の上では充実の季節でもあったから、思い出深い舞台を数々残しているが、白眉は団七夫婦と徳兵衛夫婦をこの四人でつとめた『夏祭浪花鑑』の通しで、台風襲来の日の旧新橋演舞場の三階席で、大雨が屋根に叩きつける音を頭上に聞きながら見た記憶と共に今も甦る。

苦闘は富十郎襲名後も続いたが、ある一日、富十郎自身から一通の手紙を貰った。私の書いた評を読んでのものだったが、その末尾の、とにかくよい芸をして見る人に喜びを感じてもらう、それが自分にとっての幸せなのだという一言が胸に沁みた。明快で一点の曇りもないこの人の芸に私はある「哀しみ」を感じていたが、その拠って来たるところを解く鍵を見たような気がした。生涯の代表作というべき『船弁慶』の後ジテの知盛の幽霊が、疾風のように来たって迅雷のように去ってゆくのが、あまりに息が詰んでいるために、時にあっけなくすら見えてしまう。しかしすべてが終わった後、寂寥がしみじみと胸に残る。そういう哀しみである。

平成へと世が移った頃から、ようやく富十郎にも安らかな時が訪れたように思われた。七十歳を過ぎて伴侶を得、子宝にも恵まれたことが微笑ましいニュースになり、長老として遇されるようになったが、舞台は艶やかさを失わなかった。その一日、ある大学で行なわれたシンポジウムの出席者の一人として壇上に上がるということがあった。数百人は優に入るかというホールで、同席のパネラーたちがマイクを順に回して発言する。富十郎の番になると、イエ、わたくしは結構でございます、と断って楽々と満場に通る声で語る口調は、かつての映画の若様侍のセリフと変わらぬ闊達さだった。元気と見えたが、半年後の新年早々の早朝、新聞社からの電話で訃を知らされた。再建中の歌舞伎座に代わって初芝居に涌く新橋演舞場に赴くと、幕間のつどロビーの椅子で追悼の原稿を書き継ぎ、書き上げた。芸の力で生き抜いた生涯だったと書いて、結語とした。

22.澤村宗十郎(九代目)(19332001) 

この項を書くために宗十郎の生没年を確かめて、70歳になっていなかったのだと気が付いた。新世紀の新年を迎えて早々の死だった。つい前年の暮、歌舞伎座の夜の部最終の演目が『蘭蝶』だった。宗十郎ならば、と期待されて演じた古風な家の芸。蘭蝶をつとめる宗十郎の頬は、かつての豊満な福相が別人のようにこけ、腹に水が溜まるという症状が衣装を着けた上からでもわかったが、それにもかかわらず、紫の頭巾に包まれた蘭蝶と、二役でつとめる青い御高祖頭巾から覗く女房お宮の白い顔は美しかった。

前名の沢村訥升。トッショウという響きほど、甘酸っぱいような懐かしさを呼び覚ますものはない。東横ホールで見た『鬼神の於松』は、昼は貞淑な女房が夜は山賊の首領となるという不可思議な芝居だった。素網の着込みに褞袍という大盗賊の姿で、懐ろに抱いた赤子がピーピー泣くのをあやしながら花道を六方を踏んで入って幕となる。これも東横で見た『傾城忠度』は、薩摩守忠度が一の谷で討ち取られたはずの岡部六弥太に、傾城漣太夫となって囲われているという芝居で、討手に囲まれた忠度が傾城姿で立回りをするのが大詰だった。摩訶不思議、としか言いようのない芝居。だがもしこういうものを見なかったら、あれほど歌舞伎に惹かれることはなかったと思えば、私の人生を決定づけた日々であったとも言える。それから、晩年に演じたお坊吉三の優美なる頽廃。

だが、宗十郎のために少し平静に立ち返って言うなら、こうした役でばかりで宗十郎を語るのはじつは片手落ちに違いない。『封印切』の井筒屋のおえんを演じて宗十郎ほど可愛い女があったろうか。『夏祭』でお辰をつとめて、夏物の単衣にうっすらとかいた汗の匂いまでが年増盛りの色香となって実感される女が、宗十郎ほどにあったろうか。

谷崎潤一郎晩年の『瘋癲老人日記』は作者自身を思わせる主人公が安保反対のデモの中を、訥升ノ揚巻ヲ見ルタメニ、新宿第一劇場へと車を走らせるところから始まる。大谷崎の訥升への愛惜置く能わざる思いをこれによって人々は知ったのだったが、じつはその瘋癲老人の物語が、豊満な女神を象った仏足石の下に埋められることを願うという、谷崎永遠の主題の一変奏であったということを、訥升を語る文脈の中に置いて思い返してみてもいいのではあるまいか。

上村以和於、自著を語る・2005年

(1) 『歌舞伎の情景』 *クリックするとamazonの詳細ページへ飛びます。

歌舞伎に関しての本としては最初の本。(共著は別として。)それまでに「演劇界」に書いたいろんな文章からアレンジした上に書き足してまとめた。解説風あり、ミニミニ歌舞伎論あり、随筆風あり。まったくの偶然だけれど、このとき「演劇界」に書くようになってちょうど20年たっていた。ボクにとってのひとつのけじめ、同時に出発点。

「演劇界」についていろいろ言うけれども、少なくとも我々世代にとっては、あそこに書けるようになるのはアコガレだった。詳しくは「まえがき」と「あとがき」を見てください。

(2) 『演劇の季節』 お薦め!!

たまたまひと月遅れというタイミングで出した。「関西文学」という雑誌に1年間連載したもの。版元の関西書院というところで主催していた関西文学賞の評論部門で受賞したあと、連載の話があって書いた。第1回の原稿をFAXで送ったたしか翌日があの阪神大震災だった。もっとも出版社は大阪だから無事だったけど。

本当はもっと文学随想風に書くつもりだったのだけど、同じ頃、のちに『時のなかの歌舞伎』になる「近代かぶき批評家論」を学会誌に書き始めていたので、ゆっくり書いている暇がなくなってしまい、題材もダブるところもあるので、書き分けるのに苦労しました。

当時『歌舞伎の情景』の第1章の作品論も3ヶ月のズレで連載していたから、まあ3本かかえていたわけです。もう一回、もっと文学文学したのを買いてみたいね。そうそう、新聞に劇評を書き出したのも同じ頃だったんだ。

(3) 『21世紀の歌舞伎俳優たち』

ちょっととんで3年後の出版です。前の二冊を出した翌年、これも「演劇界」に連載したのです。第1回が仁左衛門なのはちょうど襲名に宛てて連載が始まったから。という風に、どの本にもその時々の時代の反映がある。

「演劇界」の連載は、仁左衛門の襲名を機に、現在第1線バリバリの12人(ただし人選は編集部の立案を了承)について、1号一人づつ俳優論を書くというもの。1998年3月号から1年の予定で、事情で1年半かかりましたが、編集部としても、取り上げた人をその号の表紙にする(もちろん売れ行きに関わります)という張り切りようで、楽しい仕事でした。

連載が終わって、できれば本にしたいとは思っていましたが、何人もの未知の読者から、本にはならないのかという声を聞き、「有難い」という言葉の文字通りの意味をつくづくと感じました。やがて三月書房の吉川志都子さんの姿が目の前に現れました。企業としては超ミニ出版社だけれど、出版目録を見ればすごい名前の著者がならんでいる。忘れもしない1999年の12月30日でした。吉川さんと初対面のその場で、出しましょう、と決断してくれました。4人加えて16人とすることにして、その4人の分は明けて正月の三が日に書いて送りました。

さてそれからが大変なことになった。出版記念会をやろう、それも、16人の俳優たちに発起人になってもらって、というのです。そうはいったって、今をときめくそうそうたる16人が、しかもそろって引き受けてくれるとはちょっと考えられない。

ところが、みな引き受けてくれたのです。その前に、本にするについて、ひとりひとりに手紙を書き、承諾をもとめました。これもみなOKをくれましたが、そのくれかたが、それぞれ個性があって面白い。自ら直接電話をくれた人、奥さんから電話という人、手紙をくれた人、その手紙も、自身か奥さんか、また長短さまざま、OKのくれ方もさまざまでした。

さて出版記念会はぶじ開きました。当日の模様は、「演劇界」にちいさな記事になりましたから、興味のある方はご覧ください。本もお陰で好評で、完売しました。まあ、とにかく、私の本としてはいろいろ目立った本でした。

(4) 『新世紀の歌舞伎俳優たち』

(3)の好評の勢いに乗っての姉妹編。ただし今度は書き下ろしです。人選も当然ですが自分で決めました。若手花形と、前作に入れられなかった第1線の人たち、合わせて22人。

ただし、執筆中に亡くなった澤村宗十郎については、「演劇界」に書いた追悼文を転載させてもらいました。それと、難病に倒れ、リハビリに励んでいる澤村藤十郎から、話をしたいからという電話を貰い、闘病から現在に至る心境などいろいろな話を聞けたのと、この二つがとりわけての思い出です。

若手について書くのがいかに難しいか。たとえば、ここに書いた新之助と、現在の海老蔵とでは、もうずいぶん違ってしまっている。しかしだからこそ、その時その時のことを書いておく意味があるのであって、もう過去のことだから読んでも仕様がない、ということではない筈だと思います。

(5) 『歌舞伎 KABUKI TODAY-the Art and Tradition』

順番からいうと(3)の次になります。出版社からのお名指しで書きました。もっとも、売りは大倉舜二氏の写真、箔付けはドナルド・キーン氏の序文ですが、ともあれこの著名なお二人と並んで名前が出ました。なるほど、写真はすばらしい。本来、海外向けの本ですので、英語版がメインですが、国内向けにバイリンガル版も作りました。

私が英文で書いたと早合点した人もいるようですが、「そこの角を右に曲がるとポストがあります」なんていう英作文ならともかく、まさかまさか・・・。私が日本文を書き、あちらの人が英訳したのです。なまじに歌舞伎を知らなくてもいいから、質のいい英語を書ける人を、と注文をつけたのですが、果たして、ちょっと難しいけれど、品格のあるいい英語ですね。たしかオーストラリア人の女性と聞きましたが、歌舞伎もきちんとわかっている上に、何よりもセンスがいい。

ところでアメリカ版の売り出し予定が2001年9月、すなわちあの同時多発テロと重なりました。売れ行きに響いたかどうか。


(6) 『時代(とき)のなかの歌舞伎-近代歌舞伎批評家論』

歌舞伎学会の機関誌「歌舞伎ー研究と批評」に約10年にわたって連載したものに、書き足したり、書き直したりした。ざっとこの100年間の批評のあとをたどれば、近代という激動の時代に、日本人が歌舞伎をどう受けとめ(愛し、反発し、あるいは無視し)てきたかが判る。それはそのまま、近代日本の知の振幅を反映している。だから私としては、いままで書いたどの本よりも一般性、普遍性がある(やさしいか難しいかは別として)、つまり、歌舞伎は知らなくとも、知的な幅広い関心を持った読書人といわれるような人にも読んでもらえる本だと思っているのだが、どうやら、歌舞伎という特殊な分野のそのまた批評という二重に特殊な分野の本という風に受け止められてしまったらしい、と目下少しヒガンデいる。(分類という思考法にどっぷり浸った現代人の抜きがたいセクショナリズム!早い話が、表紙に歌舞伎と書いてあるだけで、書店では演劇書コーナーに押し込められてしまうノダ。)もちろん中には、数学者の森毅さんが溜飲の下がるような書評をしてくれたり、きちんと受け止めてくれた人もあるけれど。


共著

『カブキ・ハンドブック』

『カブキ101物語』

どちらも1993 新書館


翻訳(代表作)


1. 『悪霊に魅入られた女』 1974 平安書店 ホラー映画流行にのった際物。わりに売れました。

2. 『青い空カレンは走った』 1976 主婦の友社 脳性マヒの少女の愛と感動の実話。点字版や吹き込み版もあるはずです。

3. 『ホイッスラー』 1977 ライフ巨匠の世界 タイトル、版元を見ればお分りと思います。

4. 『中国・インド・ビルマ戦線』 1979 ライフ第2次世界大戦

5. 『ヨーロッパ第2戦線』 1979 同上

6. 『キテイホークへの道』 1981 ライフ大空への挑戦

7. 『エアライン草分時代』 同上

8. 『800号を打ったもう一人の男、黒いベーブルース ジョシュ・ギブソン』 1979 講談社 アフリカ系アメリカ人がメジャーリーグから締め出されていた時代の大選手。王選手の800号に引っ掛けて出した。一番話題になり、一番面白かった仕事。

9. 『裸のローレンス、アラビアのローレンスの虚像と実像』 1980 講談社文庫 一番売れ、ほかの著者の引用や参考文献などにも載った。

10. 『サタンタッチ』 文春サスペンスシリーズの最初の5冊の1冊。5万部も出したがさっぱり。シリーズのちの隆盛の人柱といわれた。

11. 『100億ドルのスキャット」 同上

12. 『地中海戦争勃発す』 創元ノヴェルズの1冊。このシリ-ズにはまだあったはずですが、手元に見当たらない。

13. 『クロスファイヤ』 サントリイ・ミステリー大賞海外応募作。佳作入賞で本になった。このほかにも、訳したけど(お金ももらったけど)落選したので日の目を見なかったのもありましたっけ。 まだあるはずです。ハーレクイン・ノベルズに女性名前で(名前だけの女形?)何冊かだしたこともあります。名前は企業秘密かも知れないから内緒。一応、当時の人名事典に名前が載っていました。


・・・というわけで、なんでもありの専門なしの翻訳家でした。でも長いのは1000枚を超えるのもあり、よい文章修行にはなりました。





上村以和於 平成17年3月