随談第264回 観劇偶談(その124) 『高野聖』の脚本につい

かなり旧聞になってしまったが、やはり書いておくべきだろう。七月に歌舞伎座でやった『高野聖』の脚本のことである。

筋書には、泉鏡花作、坂東玉三郎・石川耕士補綴とあるばかりで、だれの脚本なのかが明記していない。補綴とは、既にある脚本を上演台本として整備することを言うのであり、鏡花の作はもちろん小説であって、自身で脚本化はしていない。腑に落ちないままに気になっていたが、先月末、亀治郎の会が国立劇場であった折に、石川氏にお目にかかれたので、その点について質してみることが出来た。

昭和29年、当時扇雀ブームなどと呼ばれ大ブレークをしたばかりのいまの坂田藤十郎が(ついでだが、いまの若い方々には想像もつかないだろうが、私の見るところあのときの扇雀ブームは、玉三郎の出現したときと、つい最近の海老蔵ブームと並ぶ戦後歌舞伎の三大ブレークだろうと思っている)、女肌(?)をあらわにするというので大評判、物議をかもしたときのは、脚本吉井勇、演出久保田万太郎というビッグネームが控えていた。今度のは、やはり、玉三郎と石川氏の共同脚本なのだった。なぜ補綴という表現にしたのか、いろいろ事情もあるようだが、そもそも筋書とは一般観客のためのサービスであり、やがては最も基本的な資料(史料)ともなるものだ。責任の所在をあきらかにする意味からも、明記するべきだろう。がまあ、ともあれこれで、確認することができた。

ところで、この『高野聖』の脚本については、べつな観点から、上演中から議論があった。ラストの約十分、歌六の扮する親仁の長ゼリフで、謎の女の正体や、怪しげな鳥獣たちの正体について説明するのが長すぎるというのだった。わからない意見ではない。私は、その折にこの欄にも書いたように、十分もの長ゼリフを説得力をもって語り切った歌六のセリフを感に堪えて聞き、その力量に感服したのだったが、そこにすべてが懸かっている難しい脚本であるのはたしかだ。あれが歌六でなく、もっと凡庸な役者だったら、無惨な失敗に終っていた恐れは多分にある。もっと単純に、十分もの長ゼリフをじっと聞いているのは苦痛だという人もあるだろう。

だから、すべてを最後の説明のセリフに賭けてしまうのは疑問だという意見は、あってもいい。しかし、それを劇評が批判しないのはおかしいという意見もあったようだが、そこまでいくと、はて?と首をかしげたくなる。小説と芝居、文学と演劇の表現はもちろん違う。言葉、言葉、言葉の世界と、視覚による効果や、演者の身体性などなど、さまざまな表現の方法手段がある世界との違いはもちろんある。しかし言葉、とりわけセリフをじっくり聞くことが、演劇の大きな魅力であるのも、また事実だろう。古今東西、長々しいセリフが聞きどころ、見どころになっている名作は数知れない。

こないだの『高野聖』の親仁の長ゼリフが、どれほどの名セリフたりえていたかはともかく、要は、『高野聖』という世界を、玉三郎がいかにして表現しようとしたかだろう。たとえばあれが猿之助であったなら、全然別な脚本が出来上がったにちがいない。女によって鳥や獣にされた人間を視覚化して見せたかもしれない。しかし、それは猿之助には似合っても、玉三郎には似合わないに違いない。

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