随談第269回 今月の舞台から・一押し尽し

今月は豊漁の月である。東京三座、各座に推奨ものの芝居がある、人がいる、演技がある。あまり多いから、吉右衛門、玉三郎、菊五郎、仁左衛門、勘三郎といったところは省く。

歌舞伎座からは、菊之助の勝頼である。近来の勝頼といっていい。お父さんの若いときよりもずっといい。菊之助は、海老蔵みたいに、良くも悪くも、ぎょっとさせるようなことを言ったりしたりしないから、話題になることも少なめで、割を食っているが、役者としての聡明さをもっている。(海老蔵だって、役者としての頭は悪くないが。)菊之助を襲名して売り出した前後、祖父梅幸の若き日はかくもやあらんと思ったことがあるが、そっくりさん的な意味ではともかく、その資質の最もすぐれたところは今もって梅幸ゆずりなのだということを、この勝頼は確信させてくれた。(梅幸といえば、今月は勘三郎が塩冶判官で、梅幸にまねび学んだ真骨頂を見せている。)勝頼という役は、何もせずにすっとしていて、ああいいなあ、と思わせるかどうかが勝負である。梅幸という人はそういう役が絶品だったが、菊之助の勝頼も、レベルはともかく、まさにそういう勝頼である。

国立の『大老』からは候補が多いが、まず梅玉の長野主膳と魁春のお静の方である。もっともこの二人は第一線クラスだが、平素割りを食っていることが多いように見受けるので、敢えてここに挙げることにする。どちらも余人では替えられない、すなわち平素控えに控えた個性が、いま時と所を得て燦然と輝いたような名演である。梅玉のクールさがこれほど生きた役もない。冷徹というのとは違う。最後に直弼から「そちも近江にいた方が仕合せであったのう」と言われて「はい」と答える、その一瞬に、この冷静無比な男にも人生のあったことを我々は知る。いろいろな長野主膳を見てきたが、こういう主膳を見たのははじめてである。魁春のお静も、まさに直弼の心に棲む可愛い女であって、こういう処女の泉のごとき永遠の女人像というのは、女優には表わすことのできない、歌舞伎の、それも近代歌舞伎の、女形の芸の生み出したものに違いない。

『大老』では他にも、仙英禅師の段四郎を見ていると、いまやこの人はまさしく「名優」の名に値する人と思うほかないし、歌六・歌昇兄弟の穏健派と過激派に分かれた兄弟の水戸藩士、歌六はさらに水戸老公を演じて初演の故延若を抜く好演である。

平成中村座では、さっきは省くと言ったものの、勘三郎の勘平の、型と様式と自然とが渾然となった境地はただならないものがある。凄い、と正直、思った。「六段目」が終わって外へ出るとき、ああ面白かった、と顔を火照らせて独りごちている少年を見かけたが、こういう反応を見ることは滅多にあるものではない。

仁左衛門の大星は予測の内とすれば、驚きという意味で、橋之助の五役、とりわけ師直を挙げておこう。一言で言うなら、時代物役者としての品格と骨格の大きさである。思えばかつての若き日、故松緑がこの人を指名して『千本桜』の知盛を国立でさせたことがあった。二枚目の道を進む人と思っていたのでびっくりしたものだが、もしかしたら松緑は、夙に橋之助の本質を見抜いていたのかも知れない。女形の大役四役、とりわけ「九段目」のお石で仁左衛門・勘三郎に拮抗した孝太郎の秘めたる実力も相当なものである。

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