随談第280回 土岐迪子さんを偲ぶ会

この28日の午後、昨夏急逝された土岐迪子さんを偲ぶ会が銀座三笠会館で催された。参会者は百人ほど、多からず少なからず、ということは本当に故人と親しく交わりがあった人ばかりが集まった、心のこもった会となった。稽古の合間を縫って、大勢の俳優諸士の参会があったのも、彼らの信頼を物語る何よりの証拠だろう。

土岐さんといえば、昭和三十年代の末頃から以降、『演劇界』をいっときにもせよ、ある程度熱心に読んだ人なら、知らない人はないだろう。探訪、聞書き、インタビュウその他、一介の読者だったころの私などには、劇界の裏表を自在に歩き回って、歌舞伎について、また歌舞伎の世界について、俳優たちについて、楽屋の様子から稽古場から、ときには自宅から、要するに歌舞伎に関するあらゆることを、肌で感じるように感じさせてくれた人だった。こういう人は、たぶん、もう出ないだろう。ということは、もう、われわれのような形で歌舞伎に親しむようになる道は、なくなってしまったということでもある。

つけつけと歯に衣着せない物言いに、正直、鼻白むこともないではなかった。しかし團十郎や、その他俳優諸士のスピーチを聞くと、かえってそれが、信頼を得る「秘儀」であったようでもある。歌右衛門なら歌右衛門、先の勘三郎なら勘三郎、その他誰彼にせよ、実際に会ったこともないのに、その風貌、人となり、口ぶり、人柄までを、知っているような気にさせる。たとえば先代の権十郎がまだ中堅で、まだ知る人ぞ知るといった存在だったころ、この人の口ぶり、桂文楽か三遊亭円生の話を聞いているよう、というコメントをインタビュウの合間にすらりと入れる。ア、とこちらはそれ一発で山崎屋についてのかなりのことをわかってしまう。その舞台ぶりまで、一筆描きにしたかのようだ。

一筆描きといえば、はじめは榎そのさん、後には(まだ画家だったころの)橋本治氏とのコンビがまた絶妙だったが、その橋本氏がスピーチの中で、唸るような「秘儀」を紹介してくれた。楽屋に行ってインタビュウをする。その時、土岐さんは録音などということは一切しない。どころではない、ときどき、メモをとっているのだが、何をメモるのかというと、言葉の語尾などの、口調の癖や特徴を書き留める。それだけだった、というのである。話の内容は、すべて頭に入っているのだ。そうして、書き留めたその言葉の癖が、生けるが如く、インタビュウの主の人物像を浮かび上がらせるのだ。

言うまでもないが、土岐さんは、坂田藤十郎や清元志寿太夫や権十郎やの、聞書きの名著を残している。『演劇界』や、ひところは歌舞伎座の筋書にも、芸談の聞書きを連載していた。これらは当然、その内容に少しの間違いも許されない。そう思って、この話を読んでくれないと、その凄さの意味もわからない。知識もだが、裏打ちされた、その見識。それあってこそ、役者たちは、心を開いて語ってくれたのだ。

改めて思うのは、昭和四十年前後からこっち三、四十年間の歌舞伎を、おそらく誰よりも如実に伝えているのは、誰でもない、土岐さんのこうした文章の数々なのではあるまいか。聞書き、インタビュウ、それは常に黒衣役であって、だから批評や評論と違って、自分の著書という形にはなりにくい。また批評や評論と違って、理論理屈を捏ね回しもふりかざしもしない。しかし後の世の人が、昭和後期・平成の歌舞伎を知ろうと思ったら、最も確かな資料となるのは土岐さんの文業であることは間違いない。

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