随談第283回 『襤褸錦』出立の段

文楽で久しぶりに『敵討襤褸錦』が出て、なかなか面白かった。大方のお目当ては住大夫の語る「大安寺堤」で、住大夫も元気だったからもちろんよかったが、それと別に、嶋大夫の語った「春藤屋敷出立の段」が私にはひときわ興味深かった。嶋大夫も、コトバがうまい人だけに、なかなかよく語ったので作品としての面白さが浮き彫りになって、鴎外の歴史物を読んでいるような趣きがあった。

昭和四十六年に、亡くなった吉田栄三が春藤次郎右衛門を遣ったときのが強い印象となって残っているが、上演資料で見ると、この段は呂大夫と勝平つまりこの間死んだ喜左衛門に、織大夫つまりいまの綱大夫に先代の燕三で、前後を語ったことになっている。ことになっている、という言い方はわれながら頼りないが、しかしその充実感はいまだに忘れないのだから、よい語り、よい演奏であったのに違いない。こんど蓑助が遣っている阿呆の兄の助太郎を、玉男が遣っている。なるほど、この役はこういう人たちが遣ってこそこの段の悲劇が成立するのだ。栄三という人もかっちりとした芸で、次郎右衛門もいかにも古武士らしい骨格があって、思えば大変な名手だった。

鴎外の歴史物を読むよう、と言ったが、実を言うと、今度この「出立の段」を聴いていて、むしろ鴎外よりこっちの方が名作なのではないかという気がした。鴎外の歴史物の神髄が、なまじな現代人のさかしらをもちこまず、封建時代の武士の生き方を客観的にあぶりだすことによって普遍に達したところにあるとするなら、文耕堂のこの作にもまさしくそれがある。

垣根ひとつ隔てた隣同士の家が、図らずも敵同士になるという皮肉。しかも春藤家の三男と隣りの娘がはじめて結ばれた直後に、その報が入るという設定。ここらも実に小説的であり、シンプルである。(舞台の中央に垣根があって、敵同士となった両家を隔てるという構図が『阿部一族』を連想させるということもある。もっとも今回は第一部の『鑓の権三』も、こちらは間男をするために舞台にしつらえられた垣根をくぐるという話で、こういう「趣向がつく」ことはよろしくない。)本来なら長兄として親の敵討ちに立つべき助太郎が阿呆であるという設定も、あざといようだが、頼みにするべきお兄ちゃんがどうもあれでは困ったものだということは、いまだっていくらも思い当たる話で、これも巧い。蓑助の遣う助太郎の阿呆ぶりに、場内思わず粛然とする感じだったのは、この家が突然抱え込んでしまった悲劇を一層際立たせていた。

その長男を、母親がみずから手にかけて後顧の憂いを払って次郎右衛門を出立させるというところが眼目なわけだが、そこらが、封建武士の厳しさであり、鴎外を連想させた理由もそこにある。むしろ、近代作家としての知的操作が介入する鴎外より、文耕堂の方が、封建時代の中にあって封建武士というものを客観的に見ていた「目」の強さを感じさせる。そこが面白い。

もうひとつ、趣向として効いているのは、はじめ次郎右衛門が、雛の節句の振舞い酒にしたたかに酔って登場し、のちに「大安寺堤」で不覚を取るのが、一難去って思わず酒を口にした油断にあったというあたり、「出立の段」と合せ鏡にしてはじめて気がついたことだった。次郎右衛門の人物像としても、これは見逃せない面白さだろう。

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