随談第285回 又五郎追悼

又五郎の訃報を昨日の夕刊で知った。九十四歳という高齢で、数年来舞台を遠ざかっていたから、驚きという感じは少ないにしても、感慨は決して小さくない。

この正月二日に行われた、歌舞伎座さよなら公演のための手打ち式で久しぶりに姿を見たのが、見納めとなったことになる。総勢二百人という人数が五列になって雛壇に居流れるその最前列が、第一線の面々だが、皆々紋付袴姿で端座するなかに、椅子に掛けている優が三人いた。中央近くに雀右衛門と猿之助、それから上手よりのいわゆる止めに近い席に又五郎と、その三人だった。すっかり小さくなった体を、終始うつむくようにしていたのが、高齢の故とも、歌舞伎座への想いに耽るが故とも受け取れて、胸がつまった。

来年四月限りで閉場となる現在の歌舞伎座は、1951年1月開場で2010年4月閉場だから、足掛けでちょうど還暦を迎えて役目を終えることになる。私は歌舞伎座と同学年の同級生ですと、歌六が一月公演の番付で言っているのを読んで、ハハアと思った。そう考えれば、歌舞伎座はまだそれほどの齢ではないのだ。三十代半ばという年齢で歌舞伎座開場を迎えた又五郎は、役者としての実りの日々をいまの歌舞伎座で送ったことになる。

もっとも又五郎は、開場からちょうど十年後の61年には東宝に移籍したり、平坦とはいえない後半生を送ったから、必ずしも、歌舞伎座ばかりでその人生の時を過ごしたわけではないともいえる。

開場当時、歌舞伎はまだ世代交代途上の季節にあったから、当時の「演劇界」の劇評などを見ると、歌右衛門も松緑も先代勘三郎も、まだまだ未熟な「発展途上俳優」として扱われている。批評家の方が、前代の名優たちを見てきた観念で批評しているから、そういうことになるわけだが、いま改めて読むと、ヘーエという感じがする。評が厳しいとか何とかいうのとは、また別の話である。しかし歌舞伎座開場以降の歌舞伎しか知らない私などにとっては、こうした戦後歌舞伎の大立者たちは、もうすでにそのころから堂々たるエライ人に見えていた。又五郎にしてもその通りで、新作物などで官僚とか学者とか、善人悪人を問わず冷静怜悧な役どころをよく勤めたが、技の切れる人、という印象が強い。

当時の染五郎・万之助で評判を取った山本周五郎の『さぶ』に出てくる、佃島の与力だか同心だか、温情をもって見守りながら厳しい態度で接するような役は、もちろん誰がやったって儲け役には違いないが、又五郎だと、その味わい・余韻が、何とも独特な趣きを持つ。ああいう又五郎は、ちょっと忘れがたい。最晩年に見せた『松浦の太鼓』の宝井其角などにも、その感じはよく残っていた。先代勘三郎が終り初物の安達元右衛門を国立劇場でやったとき、人のいい弟の弥助の役に、当時東宝専属だった又五郎にわざわざ出演を乞うたというが、これも、その後誰の弥助を見ても、私の心に残っているのは又五郎だけなのは不思議なほどである。十年ほど前になるか、團十郎の樋口の『逆櫓』で演じた権四郎が晩年の傑作だったが、これは、本来ならいわゆる柄にはない役でありながら、正しい役の骨法を踏まえ、芸の上の気骨と、役の上の気骨がひとつになったところが、又五郎ならではだった。つまりこの人は、どんな役のときでも、おのずから芸と人とがひとつになっていた。それを、脇の役で決してでしゃばらずに見せたところに、人間又五郎の真骨頂があるような気がする。

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