随談第299回 文学座『花咲くチェリー』

文学座が北村和夫追悼と銘打って、ロバート・ボルトの『花咲くチェリー』を坂口玲子新訳、坂口芳貞演出で上演した。大勢の脱盟者が劇団「雲」を結成するという騒動のあった後の、残った人たちや新進の俳優たちの活動がそのまま、今日の文学座の基盤となる。北村和夫の『花咲くチェリー』はそのシンボルともいえる、いろいろな意味で記念碑的な成果だった。ロバート・ボルトも脂の乗り盛りで、トマス・モアとヘンリー八世の確執を題材にした歴史劇『わが命つきるとも』は、ポール・スコフィールドがモアになった映画もよかったが、芥川比呂志がモアになった舞台も面白かった。私にとっての「新劇」は、あの昭和四十年前後が一番なつかしい。今度の舞台にも、久しぶりに「新劇」らしい「新劇」の匂いを嗅いだ思いがする。

紀伊国屋ホールの舞台も、演じる側から見ると仕勝手の悪さとか、いろいろ問題もあるらしいが、久しぶりに客席に坐ってみると、近頃出来の、どこかよそよそしい小劇場にはないぬくもりが心地よい。思えばこのホールは、小劇場の草分けでもあるわけだ。(ロビーに「紀伊国屋寄席」のポスターが貼ってある。紙の色は少し変ったが、デザインは昔のままだ。この寄席にも、ある時期までほとんど毎月欠かさず通ったものだ。当時はホール落語の全盛時代で、東横ホール、三越劇場、国立小劇場でのTBS主催の落語研究会など、いろいろ梯子もしたが、場内の雰囲気といいキャパといい、顔ぶれといい、紀伊国屋が一番よかった。開場が東京オリンピックの年だから、志ん生はもう倒れた後だったが、桂文楽はまだ健在だったし、円生、正蔵、小さんに馬生が常連で、他に誰かしらが出る。これらの名前が円生以外すべて先代であるのは今昔の感という他ないが、この人たちの一番いい時期を聴けたのは、いま思えば何という贅沢であったことだろう。)

さて、いい加減に閑話休題としないと、『花咲くチェリー』がどこかへ行ってしまう。間口が狭いのを工夫した大道具の飾りが、この家の構造がどういう風になっているのかつい考えてしまうのが、ちょっと判じ物めいた面白さもあって、それが、劇の進行につれて、この家の住人たちの抱えている問題があからさまになってくるのと平仄を合わせているようなのが、なかなか上手くできている。(下手の黒い塀がちょっと源氏店みたいで、お富を尋ねて与三郎が現れそうな気がしないでもないけれど、もっとも、そんなことを考える観客は、私ぐらいなものかもしれない。)

息子の兵役の問題とか、しきりに読んでいる本がT.S.エリオットであったりとか、初演当時と時世の変ってしまった点はあるが、これは妙にいじるより、そういうものだと割り切ってしまったのは賢明だった。それを気にさえしなければ、夫婦の関係とか、息子や娘との関係とかいったことは、むしろ現代の方が、日本人の家庭や社会のあり方がこの作の家庭のあり方と重なり合い、身につまされたり共感したりできる面が多くなっている。主人公のジムが火掻き棒を捻じ曲げることにこだわるのは、多くの日本の男性には意味は判るが実感は遠い。渡邊徹の巨体をもってしても如何ともしがたい。アングロサクソンの男というのは何ともマッチョなものよと思うしかないが、こういうことは翻訳劇には大なり小なりついて回る、致し方のない問題である。サムソンだのヘラクレスだのの記憶が、西洋の男には濃厚に刷り込まれているのだろう。

役者も適材適所、おおむね的確な演技だが、息子のトムをやった植田真介が感受性豊かな柔軟な演技で、この役の多面性を面白く見せたのは、何かご褒美を貰って然るべきだろう。キャロルの吉野実紗の健康なグラマーぶりも悪くない。

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