随談第305回 新派の『女の一生』

波乃久里子が布引けいになる新派の『女の一生』を三越劇場でやっている。「新派版」ではなく、多少のカットはあるにしてもあの森本薫の『女の一生』そのものである。久里子にとっては念願の役だそうだが、文学座にとってのかつての独参湯を「新派名作劇場」の一作として出すというのは、企画としても新派近頃の好企画であり、作品としての『女の一生』にとっても、杉村春子とともに封じ物になるのでなく、さまざまな布引けいが演じられるようになるための好企画(と考えるべき)である。

名優の神秘化は、いまや歌舞伎よりも新劇に於いて著しい。これは、考えるべきいろいろな種をはらんだインタレスチングな問題に違いない。「進歩的」であった筈の新劇のファンの方がカリスマの神秘を権威化する傾向が強いのは、ちょっとした「とりかえばや」現象といえる。

歌舞伎でも、かつての五代目歌右衛門の淀君のような、役者と当り役がイコールで直結し神秘化された役があったわけだが、しかし歌舞伎には、大星由良之助は誰がやっても大星であり、早野勘平はだれがやっても勘平であるように、役と役者の関係には客観的なシステムが自ずから確立されている。仁左衛門の油屋与兵衛がファンの間で如何に神秘化されようとも、仁左衛門以外の誰が与兵衛をやろうと、けしからんと言う者はない。

こんどの新派版『女の一生』にしても、主役のけい以外のあの役この役にも、当然、誰それのやったあの役、という「固定」されたイメージは数々の文学座バージョンを見た限りの人にはあるわけで、事実、それしきの批評がロビイのあちこちで交わされることになる。まあそれは、その限りに留まる分には、むしろほほえましくはあっても、別に害はない。しかしそれが、誰それの演じたイメージがその役の「仁」とか「性根」(と敢えて言おう)とかのように看做されるようになると、ちょいと話は妙な方へ逸れて行くことになる。

今度の「新派連中」に拠るところの『女の一生』は、そうした観点から見ると、いい意味にもよくない意味でも、「杉村離れ」「文学座離れ」が入り混じって見えるのが、決して皮肉ばかりではなく面白い。久里子は永い間の念願だったというだけあって、役への思いが久里子らしい情感となって表われている。好演といっていいが、しかし一方、おそらく今回の出演者の中で、杉村を、あるいは文学座を一番意識しているのは彼女だろう。(ひょっとしたら、杉村のけいをみているのは久里子だけかも知れない!?)その功罪が同居している。今度の久里子で、一番(それも飛び離れて)よくないのは序幕だが、十六歳の家出娘になるという難しさだけでなく、おそらくこの場が、悪しき意味で杉村を意識したせいではあるまいか?

安井昌二が出演者の弁で、この芝居一度も見たことがないとあっけらかんといっているが、今回一番その役らしいのは、その安井の章介だろう。さすが、明治大正の匂いの漂う男になっているのは、永年新派で鍛えた、つまり昔取った杵柄である。そういっては失礼だが、おみそれしたのは中山仁の伸太郎で、序幕の学生服姿は無理なのは仕方がないとして(北条秀司の『京舞』で、七十を優に越えた花柳武始が旧制三高生の制服制帽姿で少しもおかしくなかったのは、武始という人の特別の仁の賜物だった。あんな真似は、余人には到底できる業ではない)、けいと段々反りが合わなくなっていく姿に、戦前派の文化人らしい匂いがあったのにはちょっと感心した。ふたりに限らず、もし今度の新派版『女の一生』を文学座の舞台をまったく知らない人が見たなら、もともとこういう芝居だと思って別に違和感も不審も感じなかったに違いない。つまり、新派劇『女の一生』初演は、まずは無事に船出したのだといっていい。

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