毎年7月末に東京芸術劇場小ホールで恒例の東宝現代劇75人の会の公演は、今日の劇界にあって知る人ぞ知る、上質の大人の芝居を見ることの出来る数少ない場のひとつである。
ざっと半世紀前、東宝が新しい現代劇の路線を開拓する本拠地として日比谷に芸術座を作るに当たって、座付きともいうべき自前の俳優たちの育成を計画、早速に着手した、つまり言い換えれば、菊田一夫がみずから天塩にかけて育てた俳優集団である。日頃は、芸術座(は既にないが)をはじめ東宝系の各劇場で、脇の役々をつとめるお馴染みの人たちである。森光子の『放浪記』のことは誰でも知っているが、その『放浪記』も、この人たちが脇を固めていればこそあり得たのだともいえる。作者として、また制作者としての菊田のことは誰もが言うが、じつはそれと同時に、こうした集団を育て(ることを考え)た菊田の慧眼こそ、非凡といわねばならない。ともあれ爾来半世紀、長老クラスは、当然だが、半世紀の芸歴を有するベテランたちである。
今年の出し物は『浅草瓢箪池』。おととしは『恍惚の人』、去年は『がめつい奴』だったから、ある意味では、往年の芸術座の再現ともいえる。悪口をいえば、「菊田学校」OBの同窓会と言えなくもない。(そういう、危うさをも孕んでいることは否定できない面もあるのは事実だ。何百かしかない客席のかなりは、関係者や知人友人で占められている気配である。)しかしともあれ、老いも若きも若がろうとする芝居ばかりが隆盛の(そういうものしかないとすら言える)今日、何はともあれ大人の芝居を見せてくれる集団といえば、ここに如くはない。
ともあれ、面白かった。作としても、それは『放浪記』の方が名作だろうが、作者菊田一夫として、より菊田一夫らしいという意味でなら、『浅草瓢箪池』の方が純度が高いだろう。昭和戦前の浅草という土地こそ、作者菊田の揺籃の地であることが、この作を見ているとしみじみ分かる。別に作者論をするのではない。そのことが、作そのものの魅力として、全編を貫いているところに、得がたい味わいがある。
決して格調は高くない。あくまで大衆演劇である。チャチで、安っぽくて、適度にご都合主義的で、程よくあざとい。昭和のはじめ、エノケンが売り出したプペ・ダンサントの裏話という設定で、作者の若き日の自画像を狂言回しの役で登場させ、家出してきた子爵令嬢が一座の踊り子になるなどという「あざとい」設定が、やがて子爵家の没落、時代が飛んで戦後という、時が流れて終幕に至ると、昭和という時代の断面を見事に切り取る仕掛であったことがわかる。この辺が、手だれの作者ならではの手際というものだが、同時に見過ごせないのは、演者たちの舞台俳優としての素養の確かさである。
子爵令嬢になる白井あゆみにせよ、子爵になる児玉利和にせよ、執事になる丸山博一にせよ、見事にそれらしい人物としての身仕舞いを見せる。歌舞伎で言うところの位取りがきちんと身についていればこそである。そう言っては失礼だが、白井など、普段見慣れた舞台からは子爵令嬢など俄かに結びつかない庶民派女優である。だがここという急所になると、ちょっとした身繕いひとつで、凛然とした「姫」としてのたたずまいを見せる。満場、息を呑ませたのは見事といってよい。あれが駄目なら、この芝居、勘所を失してしまう肝心要の役どころであり、場面である。
こういうことがきちんと出来る。そういう芝居が、いまや貴重になった。それにしても、今度の公演、あの小さな小ホールでわずか七回の公演数である。つまり連日満員になっても、見た人は数千人という数でしかないのだ。もう少し、何とかならないものだろうか。