随談第326回 顔見世便り

暮れも押し詰まった24,25日の両日、南座の顔見世を見に、歳末の京都を訪れた。永観堂から南禅寺辺り、あるいは八坂神社から知恩院界隈、残んの紅葉といった気配が冬枯れの中に感じられるのが、いかにも京の冬らしい。月は隈なきをのみ見るものかは、紅葉も盛りをのみ見るものかは、というのは必ずしもただの負け惜しみではない。

顔見世を見に行こうと思い立った直接の動機は、仁左衛門の助六を見たいと思ったことだった。あるいはこれが見納めにならないとも限らない。そんなにしょっちゅうやる機会がある役ではない。襲名の折、出してから彼此十年の余、経っている。十一代目團十郎最後の助六は昭和39年十月、東京オリンピックのさなかだったが、その折の十一代目は思えばまだ六十歳になっていなかったのだ。わが仁左衛門は、すでにその年齢を越えている。

和事のかかった助六として、仁左衛門の助六というものは当代の歌舞伎にあって異彩を放つよきものである。昭和五十八年三月、玉三郎の揚巻で歌舞伎座ではじめて見せた助六は、それまで体験したことのない忘れがたいものだった。襲名の折を含めて、その後幾度か見たどれよりも、その初演の折のが深く記憶に留まっている。十三代目が意休、白酒売りが当時の扇雀の坂田藤十郎、くぁんぺらが左団次という顔ぶれの、意休がこんどは我当に変っているが、偶然のように、今度の配役がその折をいやでも思い出させるかのように同じであるのも、何かの辻占ででもあるかのようだ。ただ当今の仁左衛門は、そのころに比べ、和事味において比較にならない柔らか味が得も言われない。そこが、いま見る助六としてどうか?

さて、十余年ぶりに再会した助六は、半ばは期待を満たし、半ばは、期待を膨らませすぎていたわが身に、やや反省を促すものだったと言おうか。それに、仁左衛門は喉をかなり痛めていて、すこし疲れているようでもあった。そのことが、やや翳りを落としていたことも否めない。紅葉も盛りをのみ見るものではないように、この助六は、仁左衛門の今を見るべき助六であった。そうしてみれば、味わい深いところも多々見えてくる。初演から二十六年の歳月は、仁左衛門だけでなく、玉三郎にも、坂田藤十郎にも左団次にも、当然ながら陰影を刻んでいる。玉三郎の玲瓏さまも、いまや昔日とは比較ならぬほど澄み切っているが、それはまた自ずから、ある種の翳りを潜ませている。

結局、こんどの顔見世の眼目は、助六では白酒売りだった藤十郎の忠兵衛で、仁左衛門が八右衛門に回っての『封印切』ということになる。この顔ぶれもまた、偶然だが同じ昭和五十八年の暮れ、南座の顔見世で見せたのと同じ配役である。仁左衛門はその後、他の忠兵衛にも八右衛門をつきあっているが、何といっても藤十郎を相手にしたときに、その真価が輝き出す。上方言葉の応酬の面白さが他優のときとは比較にならない。それにしてもこの二人の応酬のスピードは、歌舞伎のセリフのスピードとして記録物ではあるまいか。秀太郎が梅川で、玉三郎がおえんという配役も味なものである。それにしてもこの顔見世の仁左衛門は、八右衛門をつき合った以外の自分の出し物は、助六に『お祭』というのだから、すっかり江戸っ子である。

藤十郎・仁左衛門の顔あわせを他所にしたかのように、菊五郎が『土蜘』と『一条大蔵卿』を出していて、この『大蔵卿』がなかなかいい。初役かと思ったら、はるか以前の昭和六十年、国立劇場でやっていたのを思い出した。あまり阿呆を際立たせない、菊五郎らしい穏当なやり方だが、四半世紀前とは比較にならないのは、ひとえに、昔と今では、菊五郎の役者振りが段違いであるという一事に尽きる。自ずからなる公卿の品格という一事に関する限り、この大蔵卿は天下一品である。それと、時蔵の常盤の十二単の立派なこと。

我当が、『時平の七笑』という父十三代目の珍品の棚卸しをしているのも、京の顔見世ならではである。これだの『血判取り』だの、十三代目はよく、それを見逃したらもう滅多にはお目にかかれないような珍品を見せてくれたが、いまやそれらは我当が一手販売の役回りであって、それも南座か松竹座でないと見られない。我当は、意休も手強くてなかなかよかった。これはこれで、父十三代目の一面をよく継いでいるというべきである。

暮れともなると、顔見世も、東京から大挙押しかけたかのような客は見当たらず、客席もロビーも、京言葉が行き交っている。祇園や先斗町の総見の賑わいもさることながら、この一抹の寂びしみを帯びた風情も捨てがたい。残んの紅葉の風情はここにもある。

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