随談第339回 把瑠都

把瑠都の大関昇進が決まったというテレビのニュースで、街の声というのを見ていてホオと思ったのは、予期以上に、とりわけ女性に受けがいいらしいということである。カワイイ、という女性の声を、そういえば前にも聞いたこともある。

バルトの怪人、という異名がつけられたのは、上位を脅かす存在として登場したころからだったか。怪人、という言い方には、微妙なニュアンスが隠れている。下手をすると、拒否反応に繋がりかねない、脅威に対する怯えが見え隠れしている。高校野球のスラッガーを怪物クンなどと言ったりするのは、すっかりアイドル化されているが、「バルトの」という形容詞がつくと、何やら得体の知れないというニュアンスがついてくる。以前西武ライオンズにいたデストラーデという強打者にも、カリブの怪人という仇名がついていたが、振り子がどちらに振れるかによって、恐怖は、遠い異国から来た異種という、一種のロマンをもはらんだ親しみへと傾くことになる。

たしかに、出てきた頃の把瑠都は、まあ、変なヤツだった。かつての小錦ともまた違う、ある種の「異物」を感じさせるものをはらんでいた。小錦は黒船にたとえられた。朝青龍を筆頭とするモンゴル勢は、元寇を連想させた。把瑠都の場合はひとりだったから、まさかバルチック艦隊を思い浮かべることはなかったが、ともあれ、相撲界に、というよりも相撲をつうじて日本人に、きわめて日本的と思っているものの中に、またひとつ、新たな異物を受け容れなければならないという、カルチャーショックを体験せざるを得ない、ある種の心の負担を感じさせるだけの「威力」を感じさせた。もっとも把瑠都の場合は、朝青龍という常にマスコミ(を通じて社会)の目を奪う大きな存在がいたから、相撲に関心のない人たちにまでショックが及ぶことはなかったが。

しかしもしかすると、怪人だの脅威だのと考えるのは、私も含めてキンタマの小さい男のケチ根性のなせる業であって、胆力と度量のある女性たちは、もっと直感的に、把瑠都ってカワイイと見抜いてしまっていたに違いない。その意味では、把瑠都の大関昇進を誰よりも脅威としなければならないのは琴欧洲であって、力士としての地位だけでなく、アイドルとしての任期まで、追い抜かされるおそれが現実となったことになる。

たしかに、土俵上の相撲振りのことだけでなく、態度物腰、人品骨柄、着物の着方から日本語での応対に至るまで、先場所あたりからの把瑠都の様子には、それまでとは格段の落ち着きが感じられるようになった。ある水準を超えた者がおのずから漂わせる一種の風格さえ、といったら褒め過ぎかもしれないが、大銀杏を普通の髷に結いなおし和服に着替えた姿がしっくりして、もう金髪であることなどにも違和感を抱かせないのは、ちょっとした驚きといっていい。(その意味からも、琴欧洲はまだ「ステキなガイジン」の域に留まっている。)偉とすべきは、これが、相撲ぶりの良さと歩を揃えての「進化」であることである。

テレビのニュースで、祖国のエストニアの実家で相撲の放送を見ている母親の様子を写していたが、いかにも質朴な欧州の人らしい好もしさを感じさせた。ああいう母親に育てられたのなら、と思わせる。カワイイ、とまず女性ファンに思わせ、怪人としてよりも、気は優しくて力持ちのお相撲さんとして受け容れられたなら、もしかしたら把瑠都は、相撲界のスタルヒンになるかもしれない。

ところで、今度に限った話ではないが、千秋楽の結果を伝えるニュースなどで、把瑠都の大関昇進が決定したかのような言い方をしていたのは、実は報道として大変な逸脱ではあるまいか。大関昇進を決めるのは、あくまでも協会の番付編成会議とそれを受けての理事会であって、それまでは、「昇進が確定的になった」のであって、「昇進した」わけではない。NHKのニュースまで「昇進が決まりました」と言っていた。いつのころからか、この辺のけじめがまったくおかしなことになっているのに、誰も何とも言わないのは不思議である。いつも今回のように、すんなり決まるわけではない。今のようだと、新横綱新大関の昇進を決めるのはマスコミで、協会はそれを追認するだけのような印象にもなりかねない。現にそう思っている人も、きっといるに違いない。昇進の挨拶を何と言うか、ということばかりを話題にするワイドショーを見ていると、テレビの報道というものがまったくパターン化していることがよくわかる。

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