随談第346回 アマチュアリズムについて

鳩山首相辞任劇はなかなか面白かった。もちろん政治としてはよろしいことではないだろうが、鳩山という人をめぐる人間模様のドラマとしてみると、その最終幕としてインタレスチングな展開であったといえる。小沢幹事長を抱きこんで刺し違える、抱き合い心中でラストというのは、シナリオとしては悪くない。話題になった、例の、前日記者団に対して親指を立てて見せたポーズは、自分の書いた筋書き通りに運ぶことになった凱歌の密かな印だろう。

前日の鳩山・小沢会談から辞任発表の会見までを歌舞伎仕立でやると面白いだろう。『忠臣蔵』の「喧嘩場」を、塩冶判官が師直を切って返す刀で切腹してしまうという書替え狂言の一幕である。鳩山判官の役は仁といい柄といい品格といい、まず梅玉で決まりだろうが、小沢師直はさて、誰にするか? 敵役として役者冥利に尽きるやりがいのある役と思うが、もし勘三郎が引き受けてくれたら面白い芝居になるだろう。もっともこの師直は、トドメを刺されたわけではないから、いつまたゾンビのように甦るかもしれないから、その場合には、後日談として『リヴィングデッド続俤(ごにちのおもかげ)』一幕が差し幕になるだろう。

ついでに外交場面も設けて、各国要人との会談の場というのも面白かろう。さしあたり、オバマ米大統領は亀治郎、ロシアのプーチン大統領を海老蔵、ヒラリー・クリントンを福助、サルコジ仏大統領は染五郎に頑張ってもらうとして、中国の温家宝首相がむずかしい。坂田藤十郎丈をわずらわせるのは如何か? 北朝鮮のかの人は、我当丈にお願いしたいがどうだろう?(中国といえば、猿之助が元気な内に猿之助の毛沢東に歌六の周恩来で『新・三国志』近代篇をやらせたかったというのが、矢野誠一さんのお説である。)

配役談義はこのぐらいで閑話休題として、ところで、八ヵ月間に鳩山首相の演じた悲喜劇は、つまるところアマチュアリズムという一言に集約されるに違いない。沖縄の基地をめぐるこの程のごたすたは、ペリーの黒船が浦賀に来航した時の老中の阿部正弘が、全国の大名たちに意見具申を求めたという話を思い出させる。阿部老中は名老中なのだろうか、それともへっぽこ老中なのだろうか? そんなことをしたから幕府の権威が失墜したのだという意見と、イヤその開明さを評価すべきだという意見と、評価はふたつに分かれるらしいが、弱腰のようで放胆とも言えるこういうことをする阿部伊勢守という殿様政治家に、私は何となく親近感と興味を感じる。井伊大老みたいなのがプロの政治家とすれば、阿部老中にはどこかアマチュアの匂いがする。鳩山老中のために惜しむのは、基地を沖縄だけに押し付けるという問題について、みなさんどう思いますか?と、阿部老中みたいにはじめから全国民に下駄をあずけてしまえばよかったのかもしれない。そういう機略に欠けていたことだ。

アマチュアリズムのいいところは、専門家の常識や通念から自由なところにある。専門家の意表を突く知略があってはじめて、アマチュアリズムはプロにフェイントを掛け、肩透かしや足癖で一勝をあげることもできる。およそ、アマチュアリズムの発想の自由さを持たない専門家というのも、およそ鬱陶しく、面白みがない。

プロといえば、今月新橋演舞場で藤山寛美の没後二十年を追善する公演を松竹新喜劇の一党で行なっているが、改めてこのプロ集団の底力というものを痛感させられる。チョイ役に至るまで、役者たちの人相といい身のこなしといい大阪人の体臭が舞台中に流れている。大阪の風土以外の何物でもない。作も、曾我廼家十吾こと茂林寺文福にせよ、一堺漁人こと曾我廼家五郎にせよ、館直志こと渋谷天外にせよ、首尾整い、序破急あり、ときに三一致の法則すら自家薬籠中のものにしていて、当節めったに味わえない、芝居を見ているという実感と悦びを感じることができる。(文福や一堺漁人がアリストテレスを知っていたとは思われない。知らなくたって、アリストテレスの考えたことぐらいは彼等も考えたのである!)こういうプロフェッショナルというものがまずあって、それから、難しい理屈をこねたりするアマ集団の芝居がある。そういう暗黙の秩序みたいなものが、当節の日本の演劇の風土に欠けていることを、今更ながら思わずにはいられない。

アマチュアリズムというものは、プロフェッショナルというものが確立した上に、はじめてアンチテーゼとしての意味を持つことができるのだろう。してみると、鳩山首相がこの八ヵ月間に演じた悲喜劇は、今日の政治に、確固たるプロフェッショナルが存在していないことの反作用なのかもしれない。

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