随談第358回 初代若乃花のこと(その2)

前回、栃若というのは群雄割拠の中から登場し、独自の道を切り開いたのだという話をしたが、報道を見ていると、人気低迷の時代にふたりが登場し大相撲隆盛時代を築いた、という風な言い方をしているのに、ちょっとひっかかる。たしかに、栃若末期から柏鵬前期時代の昭和三十年代半ばが、相撲人気の絶頂で、六場所制が始まり、NHKだけではなく民放各社も加わって、どのチャンネルに回しても相撲中継をしていたほどだったのは事実だが、だからといってそれまでを低迷時代と決めつけるのは事実を知らな過ぎる。

戦前派の羽黒山と照国が引退したのは共に昭和二十八年で、羽黒山は終戦直後の二十二年前後に全盛時代を迎え、その後二回にわたってアキレス腱切断という事故のために後半生は群雄のひとりになってしまったが、同部屋故に双葉山とは顔が合わなかったがもし対戦したらむしろ羽黒の方がまさったのではないかと囁かれ、本来なら20年代はこの人の時代だったろうと言われる強豪だった。照国は桃色の音楽となぞらえられた美しい超アンコ型の相撲巧者で、優勝回数こそ少ないがその相撲振りと風格は名横綱列伝に加えるべき名力士だった。つまりこの二人は、終戦直後の混乱期、大相撲などどうなってしまうかも分らない苦難の時代を支えた大功労者である。両国の国技館が進駐軍に取られてメモリアルホールと名を変えてしまい、本拠を失った相撲は神宮外苑相撲場(いまの第二球場のところにあった屋外の相撲場で、小学一年生の私はそこで羽黒山と照国の両横綱や、新進気鋭の東富士や千代の山を見た)や、浜町公園に仮設の国技館を仮普請で作って興行していた時代である。

そこへ台頭した東富士、千代の山、やや遅れて吉葉山、鏡里たちもみな相当の強豪で、吉葉山などは後世のオタク研究家が記録だけで調べるとダメ横綱列伝の中に入ってしまいかねないが、大関時代の強さというものは大変なものだった。昭和二十六年秋、東富士が高熱を押して対戦、水入り取り直しを繰り返し、遂に勝負預かりとなった東富士・吉葉山戦の熱狂などというものは、後世に語り伝えらるべき名勝負である。こういう事実が、マスコミの紋切り型の報道のために埋もれ去ってしまうどころか、存在しなかったも同然になってゆく。語り伝えられるべき「記憶」も、語るべき場と耳を傾けてくれる聞き手を得ることの難しさゆえに、空しく埋蔵され、やがて消えてゆくのだ。この時代に、蔵前に仮設の国技館が出来、数年がかりで本普請の蔵前国技館が完成する。大阪でも本場所を開くようになって三場所制になるという復興時代である。『三太と千代の山』に出てくるのはこの蔵前仮設国技館である。低迷の時代に、映画会社がこんな映画を作っただろうか?

繰り返す。そうした状況の中に、まず栃錦が、ついで若乃花が、小兵で異色の強豪として存在をアピールしていったのだ。その痛快さが、栃若神話の根元である。(もっともこの当時、小兵はこの二人だけではなく、鳴門海、信夫山など80キロ、90キロ台の好力士は少なくない。鳴戸海などは二十一貫五百目、というから80キロかすかす、それで150キロの横綱鏡里に三連勝したのだ。この当時、幕内力士の平均が身長は180センチに足らず、体重も30貫(112キロ)に届かなかったろう。)

さてここらで、栃若の世代差の問題に話を戻すと、ここで無視できないのが、テレビという問題である。テレビの相撲中継は、テレビ放送の開始とほぼ同時、昭和二十八年に始まっているが、当時は近所のラジオ屋(という言葉があった)の店先で宣伝とサービスを兼ねて映していたり、駅前広場などに受像機を設置して放映していたりするのを、放送時間が来るとわざわざ見に行ったもので、よく言われる、皇太子ご成婚を機に各家庭に受像機が普及したのが昭和34年、視聴者の数も飛躍的に増加したという通説に従うなら、まさしく、栃若時代後期とドンピシャリである。十年に及ぶ栃若の対戦は、前半は栃錦優勢、後半若乃花優勢となるが、昭和33年初場所、水入り取り直し後、立会い一瞬の小手投げで若乃花が勝って優勝、横綱昇進を決定的にした一番が分水嶺であったと私は考えている。これまた、テレビ受像機普及とほぼ足並みを揃えているのである。(この一番を私は、近所のラジオ屋の前に集まった黒山のような群集の中で見た。勝負が決まって散り始める群衆の中で鼻を突き合わせた、若乃花ファンに相違ない、満面をにこにこさせている五十年配のサラリーマンらしい紳士の顔をいまも覚えている。)つまり、テレビで相撲をはじめて見、その面白さを知るようになった人々にとって、そこにいた一番新しい英雄が若乃花だったのだ。

それで思い出すのは、あるとき、世代の違うある人物と相撲談義をしていると、その男にとっては、若乃花が正統派で、栃錦はその前に立ちはだかる敵役というイメージであることを知って、世代によって認識にこうも違いのできるものかと驚いたことがある。どちらがいいの、悪いのの話ではない。私にとっては当然のようにオーソドクシイは栃錦にあり、若乃花は異端としての魅力に輝く存在と思っていたからだ。(先に言った、異能力士という若乃花観を思い出していただきたい。)

たまたま今日、テレビで北野武氏(というべきか、ビートたけし氏というべきか)が、若乃花の思い出として、若乃花は喋り方が野球の金田正一氏とよく似ていた、と語っているのを聞いて膝を打った。まさしく同感、引退後まもなく、NHKに解説者として登場したときからそう思っていた。北野氏もたぶん、そうに違いない。つまりどこかにヒールの面影を秘めていたところに、若乃花はその魅力の真骨頂があるのである。(まだつづく)

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