随談第359回 初代若乃花のこと(その3)

前回の最後に、若乃花にはヒールの面影を秘めていたと書いたが、そのことについてもう少し説明をしておく必要がある。「面影を秘めている」と言ったのは、当然ながら、ストレートな意味でのヒールという意味ではない。正統に対する異端、与党に対する野党、マジメに対する笑い、洗練に対する野生・・・この随談の332回と333回にも書いたことだが、そうした、ある種の異種の趣きを持っていたところに、魅力と真価があった。

引退後しばらく、NHKの相撲中継の解説をしたことがあったが、実におもしろかった。当時の解説者といえば、神風正一、玉の海梅吉の二人が対照的な個性と語り口でよく知られていたが、そういう、いわば専業の解説者とは違う、ついこの間まで現場にいた人ならではの匂いが芬々とする解説だった。(現在、北の富士と舞の海以外、交代で解説に出る協会の親方連でひとりとして面白い解説をする人がいないのにうんざりするが、ああいうのとは、若乃花はまったく類を異にしていた。)

たとえば当時、大鵬は第一人者の地位に立ったばかりで、すでに記録の上では破天荒な数字を次々と積み重ねて無敵の境に入りつつあったが、相撲ぶりがどこかヤワで、慎重に過ぎて面白みに欠けるところがあった。何が足りないのか、というアナウンサーの問いに、若乃花は言下に、上手投げを覚えさせたいね、と答えた。相手を組みとめて、慎重に寄り切るだけでは、勝ちみが遅いし、相手を威圧する凄味がない。第一、見ていて面白くない。(事実、大鵬の相撲は面白くないという評判だった。)それを、上手投げを覚えさせたい、と具体的な一言をズバリと言う。専業的な解説者だと、こうはいかない。どうしても、もっと客観的に、抽象的になりがちだ。たしかに、大鵬が10秒かかって慎重に寄り切るところを、若乃花だったら、豪快な上手投げ一発で相手を土俵に叩きつけたに違いないのだ。

それを、ぶっきら棒の中に、一種の笑いをはらんだ口調で語る。真面目な中に、とぼけた、おのずからなるユーモアが漂う。そのころ、金田正一はまだ現役の真っ盛りだったが、国鉄スワローズという優勝に縁のないチームのエースだった金田は、日本シリーズなどになると解説者になってネット裏に坐る。ホラ、巨人の打者ってのは打席に入って考え込んでるから、必ずファーストストライクを取られるんですよ。ホラね、という具合である。具体的で、ストレートで、どこかすっとぼけていて、現場の匂いが芬々とする。それで気がついた。若乃花と金田って、どこか似ているんだ。しゃべり方だけではない。どこか、人間として、共通するものがあるに違いない。つまりそれが、ヒールの面影、というわけである。

若乃花が死んだ翌日のテレビで、北野武氏が、しゃべり方が野球の金田正一氏に似ていた、と言っているのを聞いたとき、アッと思ったのはそういうわけである。さすがだ、と思った。

その金田が晩年、巨人に入り、若乃花は栃錦の春日野の後を継いで相撲協会の理事長になった。異端が正統の場所に坐った。もちろん、それからだって、ふたりの業績は立派である。(訃報のニュースの中で流した映像の中に、甥のおにいちゃんの若ノ花に、背広姿の若乃花が、仕切りというのはこうやるんだと言いながら手本を示す場面があったが、ほんの一瞬、背広姿でありながら、目を瞠るような素晴らしい仕切りだった。)退職に当って自分の部屋を貴乃花の部屋と合流させたので、双子山部屋が膨大な勢力になってしまったとき、梅原猛さんが、栃錦を聖徳太子に、若乃花を藤原不比等に譬えたことがあった。栃錦は清貧を貫いて協会の繁栄のために尽くしたが、自分の部屋の隆盛のためには欲に欠けるところがあった。若乃花は、協会のためにも尽したが、一門の隆盛にも一倍貪欲だった、というのである。なるほど、と思わないでもない。

前々回に、栃錦には戦前の古き良き時代の相撲のムードがあったが、若乃花はまったくの戦後派であると書いた。戦前に入門した栃錦と、終戦直後に入門した若乃花には、否定できない世代と時代の違いがあったと思う。栃錦の師匠の当時の春日野親方というのは大正時代の名横綱の栃木山で、人格者で、相撲以外には欲というもののまったくない人であったらしい。尊敬はされて協会の理事にはなったが、理事長になるようなタイプではなかった。(何となく私は、踊りの神様といわれた七代目三津五郎と重ね合わせてイメージしている。)一方、若乃花の師匠の大ノ海という人は、自身は平幕で終ったが才覚をもって部屋を起こし、若乃花を育てて一代を築いた人である。(戦後の二所ノ関部屋は、大ノ海は若乃花を、琴錦は琴ヶ浜を、という風に、現役の内から子飼いの弟子を持って、引退すると独立して部屋を起こした。そうでない人は、力道山や神風のように、自分で廃業してしまった。部屋の方針というより、そうせざるを得ない事情だったのだ。)

若乃花が「土俵の鬼」と呼ばれるようになったのは、横綱目前の大関時代、幼いわが子を、ちゃんこ鍋の熱湯を浴びるという不慮の事故で亡くす悲運を押して、土俵をつとめたことからだが、栃錦が「マムシ」と呼ばれたのは、まだ幕下時代の若い頃の稽古ぶりを見た六代目菊五郎が、そのしぶとさに、マムシのような奴だといって目をかけてやるようになったのが始まりと聞いている。少なくとも、今度の報道にも見られた「土俵の鬼とマムシ」という対比の仕方は、あまり適切なものとは言いがたい。

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