随談第374回 株式会社日本相撲協会・論(その2)<修正版>

放駒理事長が、八百長はこれまで一切なかったと言明し、疑惑力士の解明がすまないと次に進めない、と語ったという事実から読み取れるのは、理事長の念頭にあるのは、相撲協会は公益法人として存続できるかどうか、にあることが明らかになったということだろう。もっとも、公益法人申請のための準備委員会はしばらく凍結されたようだが、慎重な構えをとったまでであって方針が変わったわけではあるまい。しかし、すでに指摘されているように、八百長はこれまでなかったという論法は、もはや説得力を失っている。それよりも問題は、公益法人にしがみつくことが、大局から見て得策かどうかということである。玉木氏の提唱する「宗教法人化のすすめ」論も、そこに関わっている。

宗教法人という考えは、相撲の神事としての面を前面に出そうということだが、面白い案には違いないが、そうなると宗教としての内容を整備しなければならなくなり、ちょっと厄介なことになってくる。そもそも行司がいまのようなものものしい格好をするようになったのは大正時代からで、それまでは紋付に裃袴という江戸時代の町人の正装だった。いまも節分の豆まきに狩り出された時にするあの格好であり、歌舞伎俳優が襲名や追善の口上の時の格好と同じである。つまりこの変化には、相撲が国技としての体裁を整えていった過程が反映しているわけだ。すなわち、現在相撲協会が言っている意味での「国技」大相撲というのは、だから、明治末から大正以来のものでしかない。

前にも書いたように、私は、それこそ野見宿禰以来の神話伝説をもつ、いうなら民俗の古い記憶とともに育ってきたという、もっと素朴で根のある文化としてだったら、相撲は国技と言ってもいいと思っているが、やたらに物々しい格式を言い張るのには、ちと疑問を感じている。国技だなどと物々しく言うから、八百長などという「ばい菌」は存在してはならないことになって、ファジイなものを包容するゆとりを失ってしまったのだ。誰もが直感的に感じている、そして大方は暗黙に許容しているものまで、建前としては認めてはならないとする「二枚舌構造」が出来てしまったのだ。

相撲に限らず、よく、あってはならないこと、というが、じつはほとんどの「あってはならないこと」というものは一枚の紙に裏面がないことはあり得ないように、ほとんど避けがたくあることなのであり、それをあってはならないことと過度に言い張ることは、現実として欺瞞に陥る。欺瞞でないと本当に思っているとしたら、それはよほど鈍感な人であって、大概は、責任ある立場に在る者としての立場上、観念として言っているに過ぎない。今度のメールの一件で名前が浮かび上がった力士連中というのは、汚職事件が発覚した官僚や、冤罪事件で名の上った検察官などと全く同じことだと私は思っている。現に、相撲に八百長はあってはならないと主張しているのは、理事長という責任ある立場にある人か、でなければ、ワイドショーのゲスト発言者や通りすがりにたまたまマイクを向けられた街の人という、限りなく責任のない立場の人か、いずれかである。しかし真実は、その手の主張の中にはないのだ。たしかに、汚職も冤罪も「あってはならない」ことには違いないが、そのお題目を合唱して、浮かび上がった容疑者を厳罰に処したところで、この種の「あってはならないこと」はたぶん永久になくならないだろう。

もちろん、今度発覚したメールの一件のようなケースは、タチが良くないことは明らかで、相応に厳しく罰しなければならないが、だからといって、そのために大相撲そのものが存亡の窮地に立たされるような騒ぎになるというのは、公益法人という問題が絡んでいるから以外にはない。先日、NHKが放送した特集番組(これは、かなり内容がきちんとしていた)の中で、当時の二子山理事長(つまり初代若乃花である)が、親方連と力士たちに向って、厳しい口調で、無気力相撲を厳しく注意するよう促している声が放送されたが、じつに興味深いものだった。二子山は、八百長はないとした上で(つまり、建前である)、無気力相撲に対する自覚を喚起しようとしているのだが、その中で、これがもし文部省に取り上げられたらわれわれはすべてを失うことになるのだぞと、声を荒げて呼びかけている。つまり、いまと全く変らない状況が当時もあったのであり、問題の在りどころも現在と全く同じであることも分かる。私が知ってからだって、「大関互助会」」だの「横綱救済組合」だのという揶揄が、時にあったのは、いまに始まったことでなない。しかしそれと時を同じくしながら、数々の名力士好力士による数々の名勝負や忘れがたい一番があったのだ。

落語の『佐野山』の谷風情の相撲といい、歌舞伎の『双蝶々』や『関取千両幟』といい、勝負を「振る」ことに関わるところにストーリイが成り立っている。神事というなら、各地に伝わる「独り角力」というのは、神様を相手に相撲を取って、一番勝って二番負けることによって神を喜ばせるのであるという。(つまり、神様にわざと負けてあげるのだ。)江戸や大阪に勧進相撲という形で「興行」が始まったところから、今日の大相撲につながる歴史が流れ出すわけだが、それまでのさまざまな民俗的なものを含み込みながら、それなりに近代化もしながら今日までやってきた。歌舞伎が、近代化もしながら何も近代劇とイコールになってしまわなくてもいいように、相撲も、欧米起源の近代スポーツと同じになる必要はない。「興行」でいいのである。歌舞伎が、松竹なり何なりという興行会社が運営しているように、大相撲も、株式会社という興行組織が運営すればいいのだ。歌舞伎が、興行会社の手で運営されているからといって、その価値に疵が付くわけではないように、相撲だって、それで伝統が損なわれるわけではない。天皇だって、ときには歌舞伎をご覧においでになるではないか。もちろん株式会社に組織替えして運営してゆくためには、いろいろな改革や経営努力が必要になるのは当然だ。しかし、公益法人にこだわって自縄自縛に陥り、かえって墓穴を掘るよりは、相撲が相撲らしく生きていくためには、よほどその方がすっきりするではないか。(もう長々しく書いている余裕はないが、一つだけ言えば、私は部屋制度というのは必要だと思っている。)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください