随談第376回 二冊の新書

最近読んだ二冊の新書が面白かった。一冊はPHP新書から出ている、小野俊哉『プロ野球最強のベストテン』、いま一冊が、ちくまプリマー新書の松本尚久『落語の聴き方 楽しみ方』。どちらも昨年末に出て、既に話題にもなっているものだから、紹介という意味は薄いかも知れないが、類書がありそうで、じつはこれまでの類書から抜け出てているという点で、共通する。もっとも、野球と落語、それ以外にこの二冊に重なり合うものがあるわけではない。

『プロ野球最強のベストテン』は、誰それは凄かったでえ、といった口碑による神話伝説のたぐいを一旦捨象した上で、記録の読みに独自のプリンシプルを立てて、ポジションと打順を本位に、昭和11年以降の過去現在を通じてのベストメンバーを選ぶという発想とスタンスが卓抜である。まさに、類書がありそうでない、着眼と方法のユニークさに於いて際立っている。腰巻のキャッチフレーズに、「王貞治を上回る!ミスタータイガース藤村富美男の打点が凄い」とあるが、つまり、四番打者というものはどれだけ打点を稼ぐかの一点に尽きる、という原則から、歴代の強打者の記録をいろいろな角度から比較検討、藤村が史上最高の四番打者であり、王は出塁率と長打率の双方が求められる三番打者として史上最強打者であるということになる。因みに最強の5番はマニエル、6番は張本、というわけで、大下も川上も中西も長嶋も選ばれない。しかし検討の対象として中島治康から始めるという目配りのよさも、なかなかのもので、そこに説得力がある。

ベストナインというからには、当然、打撃・走塁といった攻撃面だけではなく、守備も検討対象になり、一ポジションは原則一人となるから、その面から選ばれないということも生じてくる。どういう結果になっているかは、本書を見てもらうとして、まずは電車内でよむには最適、ときに降りる駅をうっかりしかねない程度の面白さは請合うことができる。遊撃手の選考対象に木塚忠助や平井三郎が出てきたり、強打の捕手として、ベスト五年間の10試合にどれだけ安打を放ったか、という観点から見ると、野村でも田淵でもなく、土井垣武が一位に出てきたりする。読みどころといえば、そういった例が随所に出てくるところだろう。半面、あくまでも記録の読みが本位だから、怪力乱神を語るがごとくあまたの名人上手の神話が語られ、著者がそのつど、腰を抜かさんばかりに感嘆これ久しくして見せるような面白さはないのは、やむを得ないところと言わねばならない。あくまでも記録記録記録、記録をもって語らせるという行き方。だがその間に窺われる見識が、時として覚える一種の味気なさを補うに充分である。

『落語の聴き方 楽しみ方』は、落語論として現代の読者におそらくこれ以上説得力のある方法はないといってもよい。分析力と、目配りと、センスのよさと、落語を愛すれど淫しないスタンスの置き方の絶妙さにおいて、これも類書をはるかに抜いている。滑稽話と人情話を、話し手が現在に身をおいて話すのと、完結した物語を語ることの違いであり、つまり現在時制と過去時勢で語る違いだとし、歌舞伎の世話と時代の構造の違いなどとも重ね合わせる見通しのよさには、なるほど、と少々嫉妬すら覚えつつ、教えられる点も多々ある。これというのも、つねに落語の現在に接し続けながら、過去の名人上手(ばかりでなく)にも(愛をもって)にも目配りを怠らない著者の姿勢が、パースぺクチヴのよい「目」を持つことを可能にしたからに違いない。

歌舞伎でもそうだが、演じる者も、批評をする者も、それぞれの興味からそれぞれの語り口で芸をし、文章を書くわけだが、結局は、少なくともそれがすぐれたものである限り、歌舞伎とは何だ、落語とは何だということを、観客や聞き手や読者に向っておのずと語りかけている、」というのが私の考えである。別に理屈をこねるという意味ではない。客をうっとりさせ、アア私はいま歌舞伎を見ている(落語を聴いている)んだ、そうすることの喜びの中にいるんだ、と思わせることが出来たなら、それはすなわち、歌舞伎とは、落語とは何だ、ということを客に訴えていることになる。それによって、ひとりひとりが、私の歌舞伎、私の落語をもつことになるのだ。ただ残念なことに、評する者、論ずる者は、役者や噺家のよりも理屈っぽくならざるを得ないだけである。

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