随談第378回 震災をめぐるよしなしごと

悪夢という言葉がこれほど実感されたことはない。夢であってくれという思いというのは、こうしてみると、人間のほとんど本能に近い感覚なのだということが知れる。受け容れざるを得ないものが現実になったとき、これは現実ではないのだという思いの中に逃げ込みたくなることを、悪夢というのだ。

それにしても、刻々と伝えられる報道を、テレビのチャンネルをあれこれ切り換えながら見ている間にも、人間のさまざまな姿やあり方が嫌でも見えてくる。何よりも、深く感動を覚えるのは、被災した人達が、カメラやマイクを向けられたときに見せる、謙虚で素朴な態度と物腰である。想像を超える体験をくぐり抜け、人間の欲にかかわるもののほとんどすべてを失った後だからかもしれないが、どの人も、何という謙虚さなのだろう。人間の尊厳という言葉が、とかく安く使われる現代に、この人たちの姿ほど、人間の尊厳とうものを改めて思わせられることはない。それが、東北という土地の、ごくごく普通の人達であることが、ひとしお、そのことの意味を痛感させる。

それに比べればいくらのものでもないにせよ、肝を冷した地震発生当日の夜、東京の街々でいわゆる帰宅難民が見せた沈着さ冷静さを、外国の新聞が伝えたという報道を見ると、こういうときに見せる日本人の姿というものは、よそ目にも感嘆に値するものであるらしい。数時間びくとも動かない渋滞の中でクラクションひとつ鳴らす者がない、といったことである。阪神の大震災のときにも、給水車に並ぶ長蛇の列が、まるでチケットを求めに劇場の窓口に並ぶ列のよう、と報じたどこかの国の新聞があったっけ。へーえと思いたくもなるが、妙な愛国心を振り回すのと違って、これはやはり自負していいことなのだろう。しかもこれは、日頃、街を歩いても電車に乗っても、お互い、舌打ちをしたり目を剥いて睨んだりし合っている、あの人達であり、私自身なのだ。

こういうものを、仮に「叡智」と呼んでもいいとすれば、対照的に、ほとんど致命的な頭の悪さと思いたくなるのが、東京電力の言動である。原発事故への対応然り、計画停電への対応然り。どちらにも共通しているのは、自分たちの思い込みで事に当ろうとする態度・対策から顕著になってくる不手際と、人間の心理というものに対する鈍感さで、彼らに言わせれば彼らなりの誠実さで事に当っているつもりらしいのだが、その「誠実」さがこちらから見ると、却ってますますいらいらを募らせられる。

計画停電をするなら、もっと単純明快で公平なやり方をしなければ。やるといってやらなかったり、夜になっても明日の予定がまだ公表されなかったり。東電としては、需要と供給のバランスを見ながら少しでも「皆様のご負担を軽減」しているつもりなのだろうが、「皆様のご負担」というのは停電をすることだけにあるのではない。被災現場のあの悲惨を見れば、だれも停電を嫌だなどと思いはしない。予定された停電をしなくてもすみました、と言われて、ああよかったなどとは、誰も思わないということなのだ。むしろそのために、仕事や行動の予定が立てられないことが不満をどれだけ募らせるか。どうしてそういう、当り前のことが分からないのか? 要するに、人間というものがまったく判っていないのだ。

やるならやる、というだけの話ではないか。だれも文句は言わない筈だ。地区別に停電するというのなら、たとえば月曜日はA地区は終日停電、火曜日はB地区、という風にするとか、明快にしなければ。夜10時になったら消灯、と慎太郎都知事が言ったそうだが、まんざらそれも放言ではない。

もっと不可解なのは、何故これほどの大問題を、政府が東電に任せ切りにしておくのだろう。首相はわざわざ物々しい記者会見を開いておきながら、東電が計画停電に踏み切りたいというのを了承しました、と言っただけで傍観しているのは、無責任な話である。慎太郎都知事が、蓮舫担当大臣に対して、どうして政令にしないのか、と言っていたがまったくその通りだ。初日の不手際を見ただけで、あの頭の悪いやり方では東電に任せておけないことは明らかではないか。もっともその慎太郎都知事も、突如四選出馬宣言をして東京に激震を走らせようとしたら本物の地震が起ってしまった。これはまったく、洒落にならないどころの話ではない。

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