随談第380回 よしなしごと(その3・いまこそコモンセンスを!)

この、日に日に積もるばかりの鬱陶しさ! 地震と津波だけであったなら、よしそれがどんなに悲惨な事態であったとしても、この何ともやり切れない鬱陶しさは、少なくともなかったに違いない。もう、事の真相は見えてしまっているのだ。人事を尽すことが、限りなく神頼みに等しくなろうとしているいま、原発の是非をめぐる議論というものは、既に結論が出たというしかない。事故が起った時に当事者が自分の手で対処できないというのは、子供が火遊びをしていて、自分では消すことが出来ない火事を起こしてしまったのと、どこに違いがあるだろう?

想定外、という言葉がしきりに聞こえてくる。しかし今度の原発事故の場合、想定外とは単に見通しの甘さというのと同意語でしかないことは、既に明らかになっている。今度の地震のマグニチウドが9.0というのは、世界中でこれまで起った地震で第四位だそうな。つまり悪魔の世界で地震オリンピックなるものを催したとすれば、頑張りましたがメダルには届きませんでした、すみません、という程度の代物なのだ。それを、千年に一度あるかどうかという地震の被害など、「想定外」にしてしまえ、ということにしてしまったわけだ。縁日で買ってきた亀が翌日死んでしまったのなら、亀は万年というからちょうどその日が生まれて一万年目だったのだ、と思って諦めればすむが、今度の地震がちょうど千年目でした、あきらめましょう、というのと、思考法としては同じだろう。つまり、原発安全神話というのは、夜郎自大という、精神の弛緩が生んだ、よく言って夢、有体に言えば、あぶく、つまりバブルだったと思うしかない。

せめては、いま既に作ってしまった原発は、最低、これまでにあった最大の地震がマグニチウド9.4であったという、それ以上のが来ても耐えられるだけの補強をすべきである。それも、いますぐに。いまそれをしなければ、またいつのまにかうやむやになって、忘れられてしまうだろう。(そのときまで日本という国が存続できたとして、だが。)こういうことは、専門家の百の議論よりも、素人のコモンセンスで決めることなのである。

それにしても、われわれの住む世界というものが、何とまあ、電気に頼り切った上に成り立っているかということを、いま誰しもが、今更のように考え始めている。情報量のストックを誇るパソコンも、電気が停まればたちまちお手上げである。考えれば恐ろしくもなる。そうして、われわれの日常生活というものが、何とまあ、電気をじゃぶじゃぶ使っていることか。「湯水のごとく」という浪費を表わす比喩は、「電気のごとく」と言い換えるべきだ。東電は、いや政府は、何故東京二十三区内も停電の対象にしないのだろう。但し、いまやっている「計画停電」のような、利用者に「無計画」を強いる独善的なやり方ではなく、もっと「計画的に」対応できるようなやり方をしてくれなければ困るが。

本来このブログは、こんな野暮な話をする場所ではないのだった。同じ地震津波や停電の話をするにしても、新井選手会長を見直したぞ、とか、相撲協会はいまこそ「大相撲慈善場所」を開催すべきだ、といったようなことを書くつもりだったのだが、どうも肩に力が入ってしまったようだ。だが、これも誰ゆえ、なのだ。

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