随談第383回 災害をめぐるよしなしごと(その5・春ここに)

家から五分も歩くと石神井川が流れていて、駅までの往来にも必ず橋を渡る。両岸から桜が枝を伸ばしているのが、ちょいとした風情がある。せいぜいが数百メートル、さほどの長さでないので名所として有名になるほどではないが、それが却って幸いして、毎年この季節になると、近隣から繰り出してほどほどの賑わいになる。今年も、見事に咲いた。一晩、帰宅の途次、夜空を背景に花盛りの枝を見上げる内、我にもなく突き上げてくるものがあった。

年年歳歳花相似たり

この言葉が、こんなにも痛切な思いで思い起こされるとは思ってもみなかったことである。「国敗れて山河あり」という言葉は、六十六年前の敗戦のときには正しくその通りであったろうが、今度ばかりは、その山河の有様さえも大津波が変えてしまった。まだこの時点では、花は北国には達していないだろうが、遠からず、被災した地方にも桜は咲くだろう。その時、人々はどういう思いで、花を見るのだろう。花見を自粛すべきだとか、いやむしろ経済効果のために花見をすべきだとかいった議論を、はるかに超えた思いがそこにはあるに違いない。翌日、月に一度開いている連句の会で私は、

春ここに在り春ここに在り

という短句を作って、ひとり東北の人達と心を重ね合わせたつもりで精神的自慰行為に耽っていたところ、「春」という字をここで使うのは前に差合いがありますよ、と同人の冷酷な指摘を受けてこの句はオジャンになってしまった。

そのまた翌日の選挙では、落選するに決まっていて前日まで投票する気もなかった候補者に投票した。理由はただひとつ、原発に反対と明言していることだけだった。普段から私は、投票する基準は候補者の人品骨柄で決めることにしている。党がどうのイデオロギーがどうのマニフェストがどうの、などということは『勧進帳』の富樫ではないが「アーラ難しの問答無益」で、何党だろうがマニフェストがどうだろうが、実際にそれをやるのは人物であって、ろくでもない奴がやれば何をしたってろくでもない結果しか出てくる筈がない。で、その落選必至候補は人相もまあまあだったので入れた。みすみす一票を無駄にしたようなものだが、外に誰それと決める根拠が見つからなかったからである。

当選したヒトを、私は嫌う人が嫌うほどには嫌いではないが、直下に大地震が起ったら液状化現象が起るとみすみすわかっているところへ魚市場を移転するというだけで、入れる気にはならなかった。専門家はおそらく大丈夫と言っているのだろうが、こういうときの専門家というものがいかに当てにならないかということは、いま福島で起っていることのザマを見れば明らかである。ついこの間、原発の安全性の基準を決める委員をしていたという老人が、津波が来ずに地震だけだったら今度だって大丈夫だったのだ、現に7.4の大きな余震では大丈夫だったでしょ、と言って得意そうな表情をチラリと浮かべたのには愕いた。今になってもまだ、こういう発言を得意然とする人間が存在するのである。海岸に作る以上、地震と津波はセットではないか。ボクチャンてアタマガイイからエライんだぞ、と一生涯、思い込み続ける人間というのは、確かにいるのだ。まったく、『森の石松伝』の広沢虎造の言う通りなのだ。バカは死ななきゃナオラナイ。石松はそれでも、自分がバカだということを知っているが、この手の専門家は自分がバカだということを知らないだけ、バカに念が入っているわけだ。

しかし、都知事選に当選したヒトも、直後のインタビュウーで二つ、いいことを言っていた。第一は、開票前に当確を出すのは有権者を愚弄するものだ、ということ。これは本当にその通りだ。一秒でも早く当確を決めることに、関係者以外、どういう意義があるのだろう? 第二は、日本ほど電気をツマラヌことに浪費している国はないぞ、ということ。それなら何故、原発を容認するのかということにもなるが、二十四時間営業のコンビニが皓々と照らして影も作らず、真夜中過ぎても小学生が屯する、などいう光景は、間接的にだが原発の存在を擁護しているのと変らないであろう。

そういえば、つい先週、国立劇場へある舞踊会を見に行ったら、節電で薄暗い二階のロビーで、聞こえよがしに高声に話す老人の声が聞えて来た。「これじゃあさっぱり盛り上がりませんね。やっぱり原子力は必要ですねえ」だってさ。どんな意見を言おうと自由だが、しかし何だって、あんな不必要にデカイ声で、聞かせよう、とするのだろう?

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