随談第384回 災害をめぐるよしなしごと(その6・近頃鬱陶しいもの)

自粛が行き過ぎだったというので、今度は経済を活性させるために大いにやるべしという声が高まっている。これからは、花見を自粛などしないで、被災者のためを思ったら花見酒をじゃんじゃん飲むのが被害地復興のためだ、というわけだ。確かに、金を天下に廻すのが経済というものには違いない。そんなことは、川に落した十銭を探すために五十銭の松明を買って川底を浚った青砥左衛門藤綱の昔からわかっている。しかし、自粛のやりすぎは日本人の悪い癖だ、などとテレビで得々と喋っている識者のしたり顔を見ると、少なくとも、自粛をしすぎるぐらいの人間の方が、人物としては信用するに足るのではないかという気も、しないでもない。

左から右へ右から左へと、世論はせわしなく揺れ、揺れ戻す。この分では、いずれまた、やはり日本経済復興のために原発は必要だ、という大合唱が始まるのは目に見えている。のど元の熱さを忘れた原発安全論者がしたり顔でテレビのニュースやワイドショーのお座敷を賑わすであろう。その一方で、福島からの避難者は胸に「福島」と書いたマークをつけるべきだ、という声が上っているというからおそろしい。そんな議論を繰り返している内に、眠りを覚まされて怒ったゴジラがまた東京湾から上陸してくるかもしれないぞ。(昭和29年製作のあの映画では、まだ東京タワーもマリオンもない東京に上陸して来たゴジラが、口から放射能の火を吐いて日劇(つまり今のマリオンである)を焼き滅ぼし、放送局を踏み潰して、中継放送中のアナウンサーが「皆様、さようなら」と悲痛な叫びと共に沈んでゆくのだったっけ。)

天罰だ、と都知事が言って物議を醸した。この人が言うと、自分ひとりは天罰の対象外だと言っているように聞こえるところがモンダイなのだろうが、しかし今度の天災人災相まった有様を見ながら、これは天罰だ、と密かに思った人はおそらく少なくないに違いない。もちろん、天は被災者に罰を下したのではなく、人間どものしていることに怒ったのであって、実は私は、地震のつい前月、さる気の置けない人達と、スカイツリーだっていつ倒れないとも限りませんよ、むかし宇宙船が海上に着水していた頃、宇宙から帰還した飛行士がジョーズにぱくりとやられたら面白いなとひそかに期待したものです、などとつまらぬお喋りをしたばかりだった。まさかその軽口に罰が当ったわけではなかろうが、つまり、最先端の科学といえども人知である以上遂には天に敵わないのだと思わないヒトが、私は何よりオソロシイのだ。都知事がどうのとは関係なしに、私は今度のことは天罰だと思っている。(断わっておくが、私は無信心の人間である。)

こういうことを言うと嗤う人があるに違いないが、今度しきりに言われた東北の人たちの辛抱強さ、謙虚さといったものがどこから来るのかといえば、つまるところ、まだこの地域には、農業や漁業といった、いわゆる第一次産業にたずさわる人たちが多く残っているからだろう。いま現在は工場(や原発)などで働いているにしても、畑や海で自然を相手に生きていた父や母の世代の記憶は、強く深く、身にも心にも沁み付いている筈だ。東北の人達のあの謙虚さは、文字通り地に足をつけて生きている人ならではのものだ。

むかし小学校で、日本の人口の七割は農漁業だと教わったように覚えている。(ついでにいうと、これからの電力は水力発電だ、と教わったっけ。)いわゆる第一次産業にたずさわる人の比率を、その後わずかの間に激減させてしまったことが、いま日本の社会でいろいろ生じている問題の、ほとんどすべての原因に違いないと、私は確信している。もちろんどんな仕事だって多くの人はマジメにやっているには違いないが、土を耕して作物を作るのを業とするのと、数字を操作して巨額の金を動かすのを業とするのとでは、マジメさの質がおのずから違うのは避けようがない。いつまでも自粛ばかりしていては経済が沈滞するのは当然だが、それを説く人たちの顔に、自粛する者を愚かと嗤うかのような表情が仄見えるのが、私はどうも気になるのだ。過度に自粛を説く者も、過度に経済効率を説く者も、鬱陶しさに於いて変わりはない。

もうひとつ、鬱陶しいものがある。いっせいに始まった、タレントやスポーツ人などの、被災地へのガンバレコールのCMである。激励は結構だし、フームと思わせられるものも中にはあるが、どうも頭が高すぎはしないか。まるで大統領か予言者みたいな口を利く男もいる。ニッポンは強い国、力を合わせればきっと立ち直れる、信ジテル、か。善意に疑いはないにせよ、自分の二倍も三倍もの長い人生を生きた果てに悲惨を味わった年配の人達に向かって、同じことを言うにも物の言い方、態度があるだろうに。

私のような自由業者もそうだが、自分たちは、確かなモノは何ひとつ作ることのない存在なのだということを、まず思うべきではないか。その上で、歌唄いは歌い、芸人は芸をし、球を蹴る人は球を蹴り、球を投げる者は投げ打つ者は打ち、相撲取りは相撲を取り、物書きは物を書いて、もしそのことを通じて、人が共感や喜びや(もしかしたら励ましも)感じ取ってくれるなら、それをわが喜びとする、というのが、まず基本だろう。何億のギャラを稼いでいようと何万の観衆聴衆を熱狂させようと、そのことに変わりはない筈だ。

セ・リーグの開幕をめぐってゴタゴタしていた時、ヤクルトの宮本が、いま自分たちが被災者を激励できると思うのは思い上がりだと思う、と言ったという。ホッとするものを感じた。被災者へコールを送るさまざまな姿に、自ずから、コールを送る者自身の有り様が見えてくるようだ。

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蛇足をひとつ。地震発生以来、「未曾有」という言葉がしきりに使われるが、あれは「ミゾーウ」ではなく「ミゾウ」ではないだろうか? いま思えば、「ミゾーユウ」と読んだ人を嗤っていられた頃は、暢気なものでしたね。

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