(その1)クールビズ
節電の折から、クールビズで企業のエライ人たちが、自分たちはノーネクタイでいながら、「就活」の学生たちが相も変わらず、この暑さの中、黒スーツを着用に及んでいるというのに何も言わないのは、何故だろう? 別にこちらからそうしろと求めているわけではない、学生たちが勝手に「就活スタイル」でキメて来るだけだというのだろうが、本当にそうだろうか? 確かに企業の側から、「就活」の際は黒スーツ着用のこと、とは言っていないだろう。しかし、黒スーツを着なければ、と学生に思い込ませているそもそもの原因は、間違いなく企業の側にある。こういう時は、強い立場にいる側から、そんなことしなくてもいいんだよ、と声をかけてやるべきではなかろうか?(もっとも、青山ダノ何ダノ、洋服の業界から営業妨害だと声が上がるかな?)
(その2)気になる言葉たち
1.「・・という風に思います」という言い方が当節蔓延している。「と思います」とはどう違うのだろう? 当節、政治家も官僚も、東電のヒトも、被災者も、誰も彼も、「と思う」のではなく「という風に思っている」らしい。なんだろう、これ? そういえば、しばらく前には「・・かな、と思います」というのが流行ったっけ。(今もまだ、すたれていない、か?)
それにしても、あんな思いをしている被災地の人たちまでが、「と思います」と言い切らないのはどうしてなのだろう? とてもとても、気になって仕方がない・・・という風に私は思います。
2.「・・というのがありますね」というのも、近頃よく聞こえてくる。お互いさま、わかってくれるよね、という暗黙の共通認識を前提としつつ、それとなく確認し合っているような気配がある。つまり、「原発はやっぱり必要だ、というのがありますね」とも、「まず脱原発、というのがありますね」とも使えるわけだ。ウン、ソウソウ、と相手が無条件で相槌を打ってくれる限りでは。
3.当節最も大流行の言葉は「元気をもらう(与える)」であろう。高校球児までが、「みんなに元気を与えられるようなプレーをしたいと思います」(なぜかこの場合には「という風に」とはあまり言わないようだ)などと言っている。確かに、ひたむきなプレーを見た者が「元気づけられる」ことはあるだろう。しかし・・・
この前提として、「元気をもらう」という言い方が、もうしばらく前からしきりに耳にするようになっていた。「感動をありがとう」なんていうのも、発想の根はひとつだろう。GIVEandTAKEの原則に従うなら、「感動をもらう」人がいる以上、「感動をあげる」人がいるのは理の当然なわけだが、勇気とか感動とか希望とかいうものは、あげたりもらったりするものなのだろうか? まあ、「感動を貰ってありがとう」というのは、礼を言うのだからいいとしても、「感動を与える」というのは、どうも釈然としない。「元気を与えるようなプレーをしたい」という球児たちの善意は疑うものではないが、また、みんながそう言っているから不思議とも思わずにそう言っているだけなのかも知れないが、人に勇気や希望を「与える」というのは、随分傲慢な考え方ではないだろうか?
むかし、知り合いの農家のおばあさんは、草木や花に「水をくれてやるべえ」などと言っていたっけ。近頃の母親たちは、「お花に(ワンちゃんに)水やご飯を上げる」のだが、このことと、「僕たちのプレーで被災者の皆さんに勇気を与える」のと、どういう関係になっているのか、当節のGIVEandTAKEの関係というのは、じつにむずかしい方程式になっているらしい。
(その3)この傲慢!
「日本だったらありえない」または、その変り型として官僚批判または相撲協会批判の場合は「民間企業だったらありえない」ということをよく聞く。だが本当に「日本」や「民間企業」って、そんなにススンデイルのだろうか?
先達ての中国の列車事故のときにも、日本だったらあり得ない、とテレビで喋っている識者がいた。(だが、あの福知山線の大事故は?)阪神大震災の少し前、カリフォルニアだったかで大きな地震があり高速道路がパタパタ倒れたときにも、日本だったらあり得ない事故、とせせら笑っていた人がいた。チェルノブイリやスリーマイル島の原発事故の時にも、・・・。
3月11日の津波の直後にも、日本はスマトラあたりと違って物資の運搬はススンデイルから、被災地支援はスムーズに行なわれるだろうと、テレビで喋っている人がいたが、あの人、たぶん今頃は、政府のやり方がナントランから被災地支援が進まないのだ、とでも論法を転換しているのだろう・・・という風に、私は思っているのだが。