随談第400回 波乱と傑作 ―今月の舞台から―

異例ののろのろ台風が居座って大災害を巻き起こしているさなかに開幕したこの月は、舞台の上も波乱続きである。新橋演舞場の秀山祭は三代目又五郎の襲名披露でもあるわけだが、二日目のいわゆる御社日に、披露演目の『車引』で新又五郎にとんだ災難がふりかかった。桜丸に「来い来い来い」と声を掛けて花道を駆け込んだ梅王丸が、吉田社頭の時平の牛車めがけて花道を駆けて出る、筈が、何と後見に支えられて足を引きずって登場し、只事ならずと客席が鎮まり返った。本舞台に来てからも、腕をぶッ違いにして立つ姿勢が取れないのを後見が支えている。苦痛をこらえ、脂汗をかいているのが見て取れる。だが声は凛然と、見事に梅王丸の声である。『車引』の梅王というのは、それでなくとも肉体的に辛いポーズが多いのだが、当然、充分には出来ない。しかしその点はやむなしとすれば、いい梅王、いい『車引』であることは間違いない。幕になると、各社の記者連が劇場の関係者を取り囲んで事情を訊くが、当然ながら、俄かのことであり劇場側もはかばかしい答えはまだ用意できていない。次の染五郎の『石川五右衛門』がすんで終演となると再び、劇場側の話を聞くが、医者には行ったがまだ確定的なことは病院側も発表できない段階であり、明日の舞台がどうなるか、今はまだ何とも、という返事でその日は終った。

既にその前の『沓手鳥孤城落月』では、淀君の芝翫が休んで福助が代役である。芝翫は前日の初日は出たのだという。もともと、夜の部に福助の役がないところを見れば、代役はかねて、かくあることを想定しての備えであったのだろうか?(これは福助に淀君をさせようがための予定の行動だろうと、穿った説を成す者もあるが、しかしそれにしては、初日だけ出勤とはちと早手回し過ぎる。体調不良に違いはあるまい。)

週が明けて五日に文楽を見る。三日目に当るのだが、『近頃河原の達引』堀川の切りを語っていた源大夫が突如、語るのをやめたので床へ目をやると、白湯汲みの若い大夫に支えられて退場する姿が見えた。肩衣が半ば脱げかかっているが、それに構っているゆとりがないのであろう。藤蔵が演奏を中断し、テンテンテンテンと弾いてつないでいる。と、ついさっき『先代萩』の「御殿」を語り終えたばかりの津駒大夫が現れて床に坐ると、そのまま、中断していた箇所から語り続けた。袴はつけているが肩衣はない。しかし備えがあったと思しく、少しの不安もなく語り終えた。そういえば、源大夫ははじめから顔色が紙のように蒼白だったから、体調が思わしくなかったに違いない。津駒大夫としても用意はあったにしても、まさか肩衣までつけて出るわけにもいかなかったのだろう。

床で語っている最中に不慮の事態が生じた場合のことは、以前、春子大夫が不慮の死を遂げた折、話に聞いてはいたが実際に見たことはない。又五郎の負傷は、アキレス腱断絶とかで翌日からはギプスをはめての出演ということだが、そうなるとむしろ『車引』よりも、『寺子屋』の源蔵が正座できないことの方が本人としてはつらいだろう。昔七代目澤村宗十郎は、巡業先で『五段目』の勘平で「翔ぶがごとくに」花道を駆け込んで揚幕の中で事切れたというが、おそらく異変はすでに花道で起っていて、役者の一念だけで揚幕に駆け込んだのだろうと言われている。又五郎の場合も、異変はたぶん花道の上でであったろう。自身の襲名の興行の二日目のことというのが、いかにも気の毒だ。それにしても今年は、三月十一日のことはいわずもがな、正月早々、富十郎逝去の報で寝覚を起され、その死からまだ一昼夜も経たない内に鷹之資が健気に踊るのを目の当たりにしたのに始まって、なにやら異変が続く。源太夫も又五郎も、病気・怪我だけのことであったのがせめてものことである。

そうした中で、傑作が生まれた。文楽で咲大夫の語った『ひらかな盛衰記逆櫓の段』である。まず何より、時代物浄瑠璃としての芸容の大きさに魂を奪われた。この雄大なスケール感は、かつて先代寛治と津大夫のコンビで覚えて以来の、久々に味わうものであったといって過言でない。しかも樋口・権四郎・お筆・およし・重忠と、各人物それぞれの情理が通り、それがそのまま、作者の描き出した世界の秩序を語り出している。その意味では、今度の咲大夫を聴いて私ははじめて、『ひらかな盛衰記』という劇的世界を知ったと言ってもいい。まさしくこれは、「情」と「理」を尽くし、「私」と「公」の関係を尽した上に、構築された世界なのだ。この作が、いままで思っていたよりも一倍丈の高い名作なのだということを、咲大夫によって知ることが出来た。そこを語り出した明晰さの点で、今度の咲大夫はかつての津大夫に優るであろう。

よく、浄瑠璃は「情」を語ることに尽きるという。しかし、この作のような時代浄瑠璃の場合は、「情」と「理」の双方を語り尽くすのでなければ、その作の世界、作者の本意は立ち現れて来ないのだということを、改めて教えられた。

燕三の三味線もよく弾いた。逆櫓の稽古のくだりの逆巻く潮の様子は、先代寛治以来といっていい。歌舞伎の『逆櫓』がこのくだりを、遠見にしたり、タテのスペクタクルに「逃げ」ざるを得なかった理由も、こういう演奏を聴けば自ずから納得できるというものだ。

ともあれここには、浄瑠璃でなければ、文楽でなければ表現できず、味わうことの出来ない世界があった。

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