随談第407回 ピアフ、玉三郎、澤村藤十郎 ―今月のあれこれ―

10月ももう今週限りとなってしまったので、今月のあれこれの貼り混ぜ版といこう。

   1.

シアター・クリエで始まっている『ピアフ』に感心した。たいしたものである。要は大竹しのぶの熱演ぶりに帰するのだが、冒頭とラストに二度繰り返される、麻薬のためにリサイタルをしくじる老残の姿を、歌舞伎の位取りではないが、ちょっとした体の構え方で、変って見せる。一瞬にしてピアフの人生を痛切に見る者の胸に刻み付ける。これはまさに芸である。観客ははじめには予感し、二度目には既に彼女の半生を見て知っているために、その一瞬に彼女の全存在を見るかのような思いに浸される。これは演技賞ものである。

パム・ジェムスの作も、ピアフの生涯から勘所をちょいちょいと掬い取ってゆく、その手際がいいから、七時に始まって一回の休憩をはさんで終演が九時五十分という長丁場であるにも拘わらず、快い疲れはあってもぐったりするということがない。シアター・クリエとしても、開場以来ようやく自らにふさわしい演目の鉱脈を掘り当てたといえる。この劇場の作り・規模・客層、要するに色合いとして、これまでで最も似つかわしい。

(それにつけても、そのつい前日に見た新国立の『イロアセル』というのは、ちとひどすぎた。私はあるところまででプッツンと忍耐が切れてしまい、途端にどっと疲れが出て、しばらくは困憊し果てていた。新しい作者に新作を書かせるのだから、ある程度までは、成算を想定できないリスクはやむを得ないとはいうものの、同人誌レベルの小説を読まされるような味気なさは願い下げにしたい。)

   2.

玉三郎の舞踊特別公演も私は愉しんだ。「吉原絵巻」と添え書きのついた『傾城』に『藤娘』、それに『楊貴妃』というプロは、正味合計72分、考えようによってはかなり贅沢な時間といえる。この演目、この並べ方、すべては玉三郎ワールドに遊ぶためのいわば仕掛であって、歌舞伎舞踊『藤娘』鑑賞、といった観点からするなら、たしかに、歌舞伎を見ている気は実はあまりしない。だからその故を以て、何だこんなもの、と不快を示す向きがあっても別に不思議ではない。しかしこれは、歌舞伎の本興行ではない。玉三郎のリサイタルであり、ところも日生劇場というバタ臭い、しかしそれはそれで、由緒と歴史をもった器に盛って供される。そうした目で見るなら、いまやこの劇場ほど豊かな空間を感じさせる劇場は、東京中でもじつはあまりない。ここでは玉三郎は、歌舞伎俳優であって歌舞伎俳優ではなく、ひとりのすぐれてユニークな美の伝道師なのだ。私は批評は忘れて、ただうっとりと、ひとときを愉しんだ。それで、いいのだと思う。

   3.

過日の午後、仕事の合間の小休憩にテレビをつけると、澤村藤十郎が現れたので思わず目を疑った。しかしすぐに、田村正和のあの独特のセリフが聞こえてきたので、これがドラマであり、かの名高い「古畑仁三郎」の一場面であることが知れた。新聞を確かめると、旧作の何度目かの再放送であるらしい。何で今頃、と思うより先に、私の目は、和服姿で穏やかな中に苦い棘を隠した微笑を浮かべている藤十郎に見入っていた。

このドラマは前に見て知っていた。シリーズ中でも、名作の誉れ高いものであるらしい。二時間もかかる長いドラマの、私の見始めたのはちょうど半ば過ぎあたりで、ドラマとして、あるいは推理劇として鑑賞するにはやや遅きに失しているが、久しぶりに、それも偶然、藤十郎の演技を見るためならこれだけでも充分というものだ。藤十郎の役は美術骨董商で、もちろん犯人役である。いつも冷たい微笑を浮かべ沈着な犯人の役を、藤十郎は実に巧みに演じている。そうして実に美しい。テレビドラマ、それも現代劇を演じながら、セリフのひと言ひと言、わずかな仕草、演技の間、そうして雰囲気と風格、風情、歌舞伎俳優以外の何ものでもない艶がある。

つくづく、惜しいと思った。これだけの人が、との思いが沸々と沸き上がってくる。思えば藤十郎が倒れて既に十年の余が経つ。私が『二十一世紀の歌舞伎俳優たち』を書くために、藤十郎を訪ねたのも、ほぼ十年の昔である。去年の歌舞伎座さよなら公演をしめくくる顔寄せの手締めの席に連なった藤十郎のことは、その折このブログにも書いたが、病のため半身が不自由である筈にも拘わらず、美しい姿で正座し、見事な一礼をした。ドラマの中の藤十郎は、名探偵の追求にもはや逃れるすべはないと知ると、静かに笑って、さ、行きましょうとかろやかに連れ立って行った。この月に見たどの芝居より、私は深いところで感動を覚えていた。

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