随談第423回 1月のア・ラ・カルト

まず旧臘の訃報から。歳末25日の朝刊に半四郎と芦燕の訃報が載った。芦燕は近年まで舞台を勤めていたが、半四郎は、舞台に姿を見なくなってから久しく、ほとんど忘れられたようになっていた。『かぶき手帖』などでも、扱いはごく小さくなって、多少なりとも昔を知る者には、うたた今昔の感、という古い言葉がまさしく実感だった。

ところが新聞の扱いは、芦燕は一段だけだが、半四郎は三段抜きで小さいが顔写真まで載っている。正直、ヘーエと思った。社会部の発想からすると半四郎の方が有名人なわけだが、新聞社の現役に、仁科明子の父親としてならともかく、かつての寵児半四郎を知っている人はもういないだろう。黒沢の『虎の尾を踏む男達』で義経をつとめたのはまだ十代の笑猿時代だが、昭和20年代の映画、それも現代劇でアプレゲールの青年の役をよくやっていたのが、もしかすると、半四郎の個性が一番生かされたものであったかもしれない。昭和28~9年頃、NHKのラジオで今の大河ドラマの格で長期にわたって連続放送した『源義経』で主役の義経役をつとめ(村上元三原作の、十余年後に今の菊五郎が大河ドラマで演じたのと同じものだ。先代錦之助も東映で映画にしている。つまり、その時代の最も颯爽たる御曹司俳優の勤める役だったわけだ)、民放ラジオでもこれも長期連続の『雪之丞変化』で雪之丞を演じている。(八代目中車が語り手と闇太郎の二役だった!)その当時、歌舞伎を知らない人でも知っている歌舞伎俳優の代表が、大谷友右衛門と岩井半四郎だった。

芦燕は、今となると惜しい存在だった。決して尻尾をつかませない人ですね、と亡くなった志野葉太郎さんが、『演劇界』で対談評をしたとき評した一言が印象に残っている。何をさせてもするべきことを過不足なくする人。私としては、『かぶき手帖』に載せたのがこの人についての最後の人物評となったことを、密かに嬉しく思っている。

        ***

京須偕充『落語[百年の名人]論』を読んだ。電車を待つ間にふと入った、駅中の小さな書店で見つけたのだが、発行は去年の四月となっている。標題に掲げたタイトルは実は副題で、正規の書名は『こんな噺家は、もう出ませんな』というのである。

京須さんという人は、どうも東京の、それも神田界隈の生まれだということを、こんなことは自慢するにも当らないというフリをしながら結局は吹聴しているようなところがあって、(そのポーズ、わからなくもないのだが)そういう箇所になると背中がむずがゆくなるのが玉に瑕だが、しかし何といっても六代目圓生の絶大な信用を得てかの『圓生百席』をプロデュースした人である。とにかく読ませる。文章も、この本に関する限り、火照りが鎮まって、気に障るような物言いはぐんと影を潜めている。

落語における「名人」という存在についての、いわば考証なわけだが、近頃落語のCDの謳い文句などによく見かける「昭和の名人」というような物言いにひっかかるものを感じたのが、発想にあるらしい。「百年の名人」とは、「名人の時代」というものが1900年に死んだ圓朝に始まり2001年に死んだ志ん朝に終るということなのだが、六代目圓生は、圓朝が死んだのが七月でその九月に生れた自分は生れ変りだと言っていたらしい。もちろん、エヘヘ、と圓生を知る人なら誰でも聞いたことのある、あの笑いに紛らせてのことだが。また圓生は、あたしの後は志ん朝でしょうとも言っていたという。名人とは、本人がそう自称したからと言って皆がそう認めるわけでもなし、高い技量を持ち、時の頂点を極めても名人とは呼ばれなかった噺家もある。名人というものの存在を皆が信じ、求めた時代がかつて存在したがゆえに・・・というようなあれやこれやを、薀蓄を傾けて考証するわけで、その語り口が一種の名人芸風になっているところがミソといえる。

しかし一番面白い、というか著者の見識が最も素直に窺われるのは、「あとがき」の後の巻末に、付録のようにして付け足した「私が見てきた亡き十人の噺家」という20数ページだろう。志ん生、文楽、金馬、正蔵、可楽、圓生、三木助、小さん、馬生、志ん朝という(何代目とことわる必要はないだろう)顔ぶれで、これはどれも見事である。人物評というのは、ものものしく長編にして論じるより、短文のエッセイが一番いいと、近頃私は頓に思うようになっているのだが、これもその一証例といっていい。

ところでこの本には、かの談志は論の対象としては全く登場しない。その名前が出るのは、文楽の最後の高座となった昭和46年8月31日、国立劇場での落語研究会の折の文楽の出番が、柳家小満んの次の二番目で談志の前だったという、たった一箇所だけである。

        ***

ダルビッシュが札幌ドームでファンの前で行なった、何故自分はメジャーリーグへ行くのかを語った会見が高い評判を得ている。私も、テレビの報道でサワリを聞いただけだが、見事なものだと思った。誰かも指摘していたが、夢だの何だのということを一切言わない。(1)日本のプロ野球の現状ではモチベーションを保つのが困難になったので新たな場を求める。(2)日本の野球が下に見られる現状が我慢ならない。要するにこの二点だろうが、これほど明快に動機を語った者はかつてない。自他をはっきりと見切っているが故の明快さである。田舎者が風呂敷包みを背負ったお上りさんスタイルと無縁なのが天晴れだ。

これまでかなりの数の選手がアメリカに渡ったが、行った意味があったといえるのは、野茂とイチローだけだと私は思っている。(長谷川とか岡崎とか大家とか、別の意味で興味深いケースもあるが。)イチローとダルビッシュに共通しているのは、自分と日本の球界とメジャーリーグの野球と、三者の関係をきちんと見切っている点にある。

一番よろしくないのは、メジャーへ行ったはいいが、ぐじゃぐじゃ曖昧になったままいつまでも居続けて、浦島太郎みたいになってしまうことだ。腕試しをしたいというなら、三年なら三年と決めて、ぴしっとやるだけやって帰ってくるべきだ。そうして、向こうで得たもの、ひと回り大きくなった自分を披瀝して、日本の野球のために働くべきだ。新庄が卓抜だったのはその点にあった。今のところ、アメリカから帰ってから評価を高めた唯一の選手であろう。めろめろになってから帰って来た御仁もあったが、ああなってしまってからではなあ。M氏なども早く見切りをつけて、横浜にでも入ってチーム優勝に貢献したら、その方がよほど格好いいのだが。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください