随談第426回 かのように

何やかにや、種々の原稿締め切りが次々と待ち構えている上に確定申告も重なって(税理士など雇っていたら我が家の食い扶持がなくなってしまうから、書類というものを書くのが、更には、その書式の説明書きを読む(解読する)のをたまらなく苦痛と感じる私だが、こればかりは自分でやるしかない)、それに追われているうちにこのブログも425回のまま随分と放置してしまった。その間に3月11日が過ぎていった。幾つか、書こうと思うことも思い浮かんでいたのだが、その間に見聞きした事どもを思うに付け、意欲も減退してしまった感がある。

結局、一年前に予言(というほど大袈裟なものではないが)めいたことを書いたのが、やっぱりその通りになってしまった、というのが今の実感ということになる。いずれ、国家経済のためには原発は必要だという大合唱が起るだろうと書いたのだったが、大合唱を起すまでもなく、暗黙の裡にそのように初めから決まっているのであるらしい。あの当時、元保安院だか何だかの人がテレビで、まあ当面は原発廃止の声も高まるでしょうがいずれは納まるでしょう、原発は津波がなければ、地震だけだったら大丈夫だったでしょ?などと、何が嬉しいのかニコニコしながら喋っているのを見て唖然としたものだったが、あの人は正直な人だったのだ。(なんという人だか、なかなかスマートで上品な老紳士だったっけ。)玄有宗久という坊さんが、今日の新聞で、去年の四月に「復興構想会議」のメンバーになっての第一回会議で、議長が「原発は議題にしない」と発言したと語っている。議長の発言がどういう文脈でのことか知らないが、なるほどね、という感じである。

やっぱり、この国は成行きでしか動いて行かない国なのだな、ということである。政治だか経済だか知らないが、いわゆる中枢を握る層をなしている人たちというのは、「いま」を変えたくないのだ、「いま」いる場から動きたくないのだ、ということに尽きる。地震や津波や原発事故は明日にも起こるかもしれないが、起らないかも知れない。起らない、と仮定した場合の理屈や方法は、この人たちはいろいろ考え出すことが出来るが、起った場合のことはよくわからないから、考えが及ばない。それなら、よく知っていることだけで仕事を進めたい。よくわからないことは、起らないことにしてしまおう、というわけなのだろう。かくして、地震と津波は起るかも知れないとしても、原発事故は起らない(かのように)事はなし崩しに進行して行くことになる。

東電がずいぶんしぶといのにも感心するが、あれも考えてみれば、原発というのは国家の事業であって、自分たちはそれを請け負っているだけなのだから自分たちには責任はない。責任は国家に請け負ってもらって、自分たちの使命は国民に電力を供給することだけに尽きる。そのためには料金値上げをすることも使命を全うするためには不可欠のことであり、従って権利ですらあるのだ、というのが彼らの理屈に違いない。なるほどそう考えれば、あのしゃあしゃあとした態度もおのずから読めてくる。まずかった、とは思っても、私たちの責任ではありませんよ、というのが本音なのだ。少なくとも、本音である(かのように)押し通そうというのだろう。そうと決まれば、必要なら被災者の前で土下座するぐらい、ズボンの膝が少々汚れるだけのことに過ぎない。一分間の黙祷なら、手も汚れずにすむ。

かくして、世はすべて事もない(かのように)過ぎてゆくのだ。

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