随談第434回 平成中村座の七ヵ月

昨秋11月から足掛け七ヵ月続いた平成中村座のロングラン公演が最終の打ち上げ月を迎えている。ひとつの場所に居ついての半年余に及ぶ興業で、勘三郎復帰という重い負担を背負ってのスタートだったが、その成果は舞台成績を云々するだけでは終わらない。

何といっても、はじめは、勘三郎の再起の如何に関心のほとんどが掛かっていた。さまざまな憶測や噂が飛び交っていて、憶測は憶測にせよ、それらが必ずしも根も葉もないことと一笑に付すわけにも行かなかったことは、『文芸春秋』の6月号に載っている勘三郎自身の談話を読んでも明らかだ。最初の月に演じた『沼津』の平作で、大詰の「千本松原」で腹を切って仰向けにひっくり返れば天井がぐらぐら回っており、十兵衛に助け起こされれば今度は客席がぐらぐら回っていた、というようなことは、勘三郎自身が語ってくれないことには知りようがない。

平作はそれでも、役が役だし、むしろ以前より力みが消えて、新たな境地を見出す可能性をも感じさせた。災いを転じて福となすことも、気休めでなくあり得ると思えた。事は、病気そのもの以上に神経であり精神的な問題である以上、不足のない健康体より不足を自覚した非健康体の方が、よりよい実りをもたらすことは珍しいことではない。が、当時の勘三郎にしてみれば、そんな悠長なことを言っていられる状態ではなかったことが、談話を読むと知れる。

まったく今だから言えることだが、事の深刻さを私が改めて思ったのは、二タ月目、つまり十二月に『菅原』の半通しが出て、「寺子屋」で松王丸を勤めるのを見た時だった。背中がぺしょっと削げた感じで、ふくらみというものが感じられない。元々小柄な体を大きく感じさせるのは、芸であり、それを通じて放たれる精気のためだが、それがない。勘三郎を包んで松王丸があるのではなく、松王丸が勘三郎と等身大になってしまっている。妙な言い方だが、松王丸が可愛らしく見えた。可愛らしい松王丸! つまり、素顔の勘三郎のあの人なつっこい人柄が透けてしまうかのようで、極論すれば、松王丸の扮装をした勘三郎自身になってしまっている。もちろん、技巧としての芸は衰えていないから、舞台は渋滞なく運び、随所にうま味が発揮される。ある信頼すべき知人からもらった賀状に、勘三郎さんの『寺子屋』に感動しました、と書いてあった。私は理解できた。毫も衰えていない技巧としての芸に素直についていけたなら、芸のみを見続ける限り、この松王丸に感動したという人がいても、少しも不思議はない。それにもかかわらず私は、事の大きさに改めて思い至ったのだった。勘三郎に関しては、しばらく、論も評も控えよう、いましばらくは、何も言わず、予断も抱かず、ただよく見極めよう、と心に決めた。

一月の『対面』の十郎までは、まずそういった状態であったように思う。本来、勘三郎の芸の本質は、十郎のような和事味のかかった役に於いて最も照り輝くはずだ、との思いが私にはある。それこそが、先代以来、父子二代に亙る芸味であり、本質である。その十郎が、思ったほど冴え返らない。初役だからまだ十分に手に入っていない、というようなことではない、理由は別の何かだ、と思われた。ここでも、すること自体は確かなのだ。

転機は、二月と三月、新橋演舞場と中村座に帰ってからと、二か月に亘って行われた勘九郎の襲名披露だった。新・勘九郎は予期以上に素晴らしい成果を上げた。単に好成績というに留まらず、一花形役者から、一個の立派な大人の役者に脱皮し、更に大きく、ひと跳躍二タ跳躍して予期していた地点よりはるか遠くに下り立ったとき、そこにはこれまでとはまるで違う、偉なる存在となった勘九郎が晴れやかに立っていた。

ああ、そうか、と、それを見て勘三郎は思ったのではないだろうか、というのが私の推測である。もう、何もかもを自分ひとりで背負わなくてもいいのだ。四月の『小笠原騒動』では橋之助と勘九郎に大車輪の活躍をさせて、自分は締め括りに出るだけで十分だ。自身は昼の部の『法界坊』で大暴れして復活の実のあるところを既に十分に見せている。バランスからいっても、お客を満足させる上からいっても、これでいいのだこれで十分なのだ。

確かに、勘三郎を大将として、橋之助が副将、勘九郎が若大将というのは、こうしてみると鉄壁のトライアングルのように見える。そういえばこの半年の橋之助の存在というものも、月を経るごとに輪郭を明らかにしてきた。今月は自分の出し物として『毛抜』を出して実力のわかる出来を示しているが、遠慮なく言うなら、むしろ『め組の喧嘩』の四ツ車の関取ぶりの方がはるかに素晴らしい。これは必ずしも皮肉ではない。俺が俺がとピッカピカに光っているばかりが能ではない。右翼にいて、次第に内外の信頼を勝ち得、気が付いてみるとその人なしにはあり得ないような大きな存在になっている、というような生き方も、なかなか乙ではあるまいか。いまや中村座に於ける橋之助は単なるナンバー2ではない。『髪結新三』では家主をやっている。芸評としての云々よりも、芝居っ気が、見る者を嬉しい気持にさせる。そういう役者に、既になっている。

今月は梅玉が炊出しの喜三郎と忠七で中村座初出演をして余人には求め難いところを見せているが、同じく初登場の彦三郎の江戸座喜太郎などというのも、渋さも渋し、今のこの世にこういう人がいることの貴重さを思わずにいられないものだった。仁左衛門を別格にして、菊之助が源蔵をやったり海老蔵が中村座の空間で『暫』をやったり、そうした華やかなスターたちだけでなく、これまで縁のなかった顔ぶれが次々と中村座の舞台を踏んだのも、意義深いひとつに数えるべきである。気心の知れ合った同士の水入らずの芝居のよさも無論あるが、それも度が過ぎてはマイナス効果の方が大きくなる。実は、以前からこのことは気がかりであったことだった。

吉右衛門の長兵衛に勘三郎が権八で『鈴ヶ森』を出したのは、中村座ではなく新橋演舞場での勘九郎襲名披露の大御馳走だったが、勘三郎にとっても、復活の手応えを感じ取ったのではなかったか? 二人の顔合わせが待望久しいことだったのはもちろんだが、まだ勘太郎だった十二月、播磨屋に教わったという『関の扉』を勘九郎が立派に踊ったのも、吉右衛門自身は中村座の舞台に登場しなかったとしても、やはり意義深いことだった。襲名披露の『土蜘』にしてもだが、去年までの勘太郎には考えられなかった『小笠原騒動』の犬神兵部のような大敵を見事やってのけたのも、こうした体験が下地になっているのは間違いない。

演目の選定や演出にも「中村勘三郎座」ならではの配慮工夫が生きていたし、さまざまな意味で成果のあった七ヵ月であった。

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