随談第435回 貼り混ぜ帖

グズグズしている内に月が変わってしまったので、いまさら「今月のアラカルト」でもあるまいから、月をまたいで、このところ心に移りゆくよしなしごとを取り混ぜて一回分ということにしよう。

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夏場所のことは既に遠い話になってしまった感があるが、3階C席3600円也というのに味を占めて、今場所も二回ほど、三段目・幕下の取組から見るということをやった。外野席か内野のBあたりで、ひとりボケーッと野球を見るのを私は愛好するが、それとよく似た感覚である。(但し玉に瑕は、球場でもそうだが、試合の進行や土俵の展開にまったく関係なく通路を歩き回る、どころか、長々と立ち止まっていたりする人が少なくないことで、あれには閉口する。あの人たちは一体、何を見に来たのだろう?)

今場所は旭天鵬の優勝などという大番狂わせになって大方のファンは歓迎し、識者からはまたまた大関陣への批判が続出した。私はどちらかというと前者組で結構面白かったと思っている。大関への批判もむべなるところには違いないが、何勝以上して優勝亜争いに絡むのが大関の義務、といった論を近頃よく耳にするのが少々気に障る。月は隈なきをのみ見るものかは、横綱を目指す(のはもちろん結構だが)ばかりが大関ではない。星勘定の上では横綱になるような戦績は上げられなくとも、余人を以て代えがたい味な相撲を取る名手もまた、大関として立派に存在の意義があるのであって、敢えて大昔の話をすると、戦後、私などが相撲を知り染めた頃でもなお、名大関の代名詞として伝わっていた大ノ里という昭和初期の大関は、かの双葉山よりさらに一世代前の人だが、記録を見ると、一場所11日間だったその頃、ほとんどが六勝,七勝といった成績である。いまなら八勝か九勝、せいぜい十勝というところだが、それでも戦後にまで名が伝わるほどの名大関として尊重されていのだ。新作歌舞伎の主人公にもなっている。星勘定はクンロクでも、名人であるがゆえに立派な大関であると評価する見識が社会にあったからだろう。勝率がどうの、昇進前3場所の成績がどうのということばかりを云々する風潮は底が浅過ぎる。魁皇が名力士扱いされるのは、その意味では結構なことだが、角番を繰り返していた頃の冷たい扱いを忘れ、手の平を返したような上っ調子が、ちょいと気になる。

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福井の原発を再稼働させるというので、勇ましく反対していた大阪市だの滋賀県だのの長が、お土砂でもかけられたみたいに急にへなへなになってしまったり、当てにはすまいと知りながらも、いずれ原発再開の大合唱の声が起こるだろうと書いたわが予言が、あさましいほどに現実になってくるのに憮然とする。要するに、一国の長が国家としてあるいは政府として原発をどうするのかということを、国家の方針としてはっきり「宣言」し、それをいかに実現して行くか、計画を示さない限り、あてどもなくぐずぐずになってしまうに違いない。訊かれれば、脱原発依存と前から申し上げていますと答えるが、訊かれなければ言わないというのは、愛シテルといちいち言わなくてもワカッテル筈だというのと同じ論法で、つまり本気ではないと思われても仕方がない。それをしない限り、瓦礫の山も片付く日は永遠に来ないだろう。ご理解いただけるまで説得を続けます、というのが首相の口癖だが、一見誠実で丁重のようだが、つまり、相手が折れてウンというまで粘り抜くぞということであって、欲しい玩具を親が根負けして買ってくれるまでワーワー泣き続ける子供と同じ手法なのだ。TAKEはしてもGIVEはしないというわけだ。

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映画といえば最近は昭和20年代・30年代の日本映画ばかりで、新しい洋画はあまり見なくなってしまったこの頃だが、たまたま時間をつぶす必要もあって今頃になってといわれそうだが『アーティスト』を見た。面白かった。無声映画がトーキーに転換するという味なところをつかまえて(何だか、この前書いた旧石器時代が新石器時代に転換する話と通じるような感じだが)、全編を無声映画の手法で通すという手法が、大仰な身振りや気障ったらしさを少しも感じさせないところが見事なものだ。つまりは大人なのだ。こういうのを見ると、こういう大人の感覚というものが、いまの日本の、映画といわず、演劇・芸能といわず、社会全般に至るまで、随分希薄になっているのを、残念ながら思わずにいられない。

新国立劇場の『サロメ』を見ても、明治座の『黒蜥蜴』を見ても、共通するのは、底の浅さが見え透いて、敢えて昔風の言い方をすると「芝居を見た気がしない」ということだ。やたらに絶叫させるのは、いまや新劇に蔓延する風土病のごときものになってしまい、そういう中で育った役者も演出家も、それが当たり前だと思っているに違いない(としか思いようがない)。サロメを、これまでのような思わせぶりたくさんな妖艶さで売るのではなく清純な少女なのだという新解釈は、それを舞台を通じて得心させてくれるなら、当然受け入れようが、舞台を見る限り、ヘロデ王はせいぜい六本木辺りの高層マンションか何かに住んで得々としている成金ぐらいにしか見えないし、サロメも、甘やかされて育った女子大生ぐらいにしか見えない。あれならむしろ、明治大正の昔に帰って、当世の日本を舞台にした翻案物にでもした方がむしろ新たな発見があり得たかもしれない。(まあとにかく、サロメちゃんの絶叫に次ぐ絶叫には恐れ入った。)

『黒蜥蜴』は、とにかく舞台の素養のない人には無理な芝居だというに尽きる。三島由紀夫の芝居は、手練れの舞台俳優が演じてこそのものなのだ。三越の新派『華岡青洲の妻』はよかった。ここにはちゃんと「芸」がある。(波乃久里子は歌舞伎に学んで見事に歌舞伎を新派にしている。)それと、この芝居、三越劇場の寸法と空間の中で見ると、じつに緊密にできた芝居であることがよくわかる。

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