随談第440回 おもだかやおめでたや(PARTⅢ)

八五郎:如何です? 今月の澤瀉屋襲名公演は。新猿之助も新中車も悪くないけれど、『口上』と『楼門』の方が見ものだった、といったら悪乗りが過ぎるって叱られるかしら。

家主:兎にも角にも、あの猿之助が二代目猿翁となって、久吉の扮装をして『山門』の舞台に立ったのだからね。爽やかな好青年の風情を漂わせていた市川團子の昔を知る者としては、感慨なきを得ないではないか。先月の『口上』の、まるで「大序」の口上人形のように台に乗って押し出されて来た姿といい、澤瀉屋ファンにしても、思いはさまざまあるに違いあるまい。

八:五右衛門の投げた小柄を、右手に持った柄杓で受けて、右半身はこれこのとおり利くのだよと言わぬばかりに、一度二度と、柄杓を持つ手をゆっくり回して見せていましたね。

家:こういうのを「感動」と言っていいのだろうか? 少なくとも、普通の意味での感動とは違う。しかし、では何と呼ぶのかと言われれば、感動という言葉を使うしか思いつかない。兎にも角にも、と、同じ言葉を二度繰り返すことになるが、先月来のこの澤瀉屋の襲名興行ほど、前代未聞のものはないだろうね。

八:段四郎さんまで前田利家で出てきたり、猿之助一座OBの弥十郎とか、その他一門の幹部総出でした。海老蔵の五右衛門は、天下の大盗賊というより、五右衛門兄さんみたいでしたね。

家:それでいながら、ちゃんと猿翁の相手として勤まっているところが、海老蔵という役者の値打ちだな。あそこに團十郎を引っ張り出すのもナニだから、代って若旦那が出たわけだが、立派につとまっているところがエライ。

八:そういえば、謹慎明けからちょうど満一年でしたね。ときに新猿之助は如何です?

家:『黒塚』も『ヤマトタケル』もどちらもよかった。『黒塚』は第二景の月光の下、薪を背負った老女の踊る件が眼目であって、そこが良かった以上、初役としては何も言う必要はない。『ヤマトタケル』も、先月来の引き続きだというのでパスした向きも少なくなかった様子だが、そういう人たちは日を改めて見直すべきだ、と言ってやってもいいほど、先月とは格段の出来栄えだった。やり方が変わったわけではない。先月ここで話したことが、そのまま、一段と深まったというのが正しいだろうが、実を言うと私は、今度の舞台を見て、『ヤマトタケル』という芝居をはじめて面白いと思ったといっても過言ではない。

八:こういう風にやってくれればスーパー歌舞伎も悪くない、ってことですか?

家:まあ、そう言ってもいいだろう。

八:それにしても開幕前の二人だけの口上は面白かったですね。先月のも、アジ演説みたいだなんて言った人もあるそうですが、今月のは一段も二段もぶっ飛んで、何しろ10分は優に越えていました。猿之助が8分、中車が2分、という配分ですかね。それからジャーンと前奏曲が鳴って、緞帳が上がったのは開演から15分後でしたっけ。

家:これも前代未聞だ。

八:大家さん、あたしのが感染しましたね。ところで新中車の『将軍江戸を去る』はどうですか? 同じ新歌舞伎といっても、先月の『小栗栖の長兵衛』とは大分違いますよね。

家:新中車の山岡は、もっと新鮮味があってもいいと思うほどに、既に手練れて見える。巧い、と評される役者の、これは長所でもあり短所にもなり得るところだろう。もちろん、八代目三津五郎とか富十郎などが演じた山岡を見てきた目からすると、新歌舞伎の青果劇としてはもっとメリハリや起伏が欲しくはなる。綾も欲しいとは思う。しかしそうしたことを一端、脇に置いて考えれば、中車は、脚本にあることはしっかり演じているのだ。そこで思い出すのは、昭和五〇年三月というから今は昔の話だがね。この月は歌舞伎座が舞台を張り替えるというので本興行を休みにして、月半ば以降の半月、十三代目仁左衛門を上置きにして新国劇が出演して『将軍江戸を去る』と『沓掛時次郎』を出したことがあった。

八:知ってますよ。本来は勘彌が出ることになっていたのが、一月に舞台で倒れたので仁左衛門に替り、三月のこの興行の終らないうちに亡くなったんでしたね。

家:仁左衛門の慶喜、辰巳柳太郎の山岡、島田正吾の伊勢守と言う配役だったが、とにかくアッと思ったのは、辰巳の山岡が序幕の黒門口に出てきたときだ。新国劇なのだから当然といえば当然だが、そのまま映画に出てもいいようなリアルな感覚で、羊羹色に焼けた羽織袴からはたけば埃が立ちそうだった。なるほど、こういう行き方もあるのだなと、是非善悪は別として印象的だった。

八:つまり中車の山岡はそれと同じだというわけですか?

家:辰巳と同じだと言っているのではない。ただ、脚本の上からだけ考えれば、こういう山岡もありだということさね。辰巳のとはまた違うが、中車のを見ながら図らずもこのときの辰巳を思い出したことも事実だ。新歌舞伎というものを、如何に考え、如何に演じるべきか、というテーマを思い起こさせてくれたともいえる。

八:でも中車のだって、はたけば埃が立ちそうというほど汚してはいませんでしたよ。

家:そりゃあ、歌舞伎の人に教わってやっているからさ。だからある意味では、折衷というか中間というか・・・

八:中途半端というか・・・

家:そう言ったら可哀そうだろう。とはいうものの、新歌舞伎『将軍江戸を去る』としては、やはり三津五郎や富十郎のように演じた方が面白いことに変りはない。そこで中車としては、今度はこれでいいが、今後こういうものをやるときに、自分のスタンスをどこにどう取るべきか、考えて行く必要が出来てくるだろうね。必ずしも、歌舞伎のとおりでなくともいいのだよ。今までにない青果劇を作り出せるなら。せっかく、中車みたいな役者がやるのだ。下手に既成の歌舞伎役者と同じになる必要はない。

八:では、まず今月はこれ切りといきましょう。

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