随談第443回 『ラ・マンチャの男』

帝劇の『ラ・マンチャの男』1200回上演記念公演というのを見た。よかった。70歳を過ぎた幸四郎の、ひとつの境地に達した姿を見たと思った。こういう『ラ・マンチャの男』を、こういう幸四郎というものを、初めて見たと思った。

私は、ミュージカルというジャンルについての、決していいファンではないし、『ラ・マンチャ』についてだけに限っても、そのすべての公演を見て通暁しているわけでもない。そこまで厳密に言わなくとも、今度の舞台が、今度の幸四郎が、いつもとどこがどう違うか、あれこれ指摘できるほどの知識はほとんど持ち合わせていないと言った方がむしろ正しい。少なくともここ数年来、演じてきたものと、演じ方に違いと言うものは、私の目には見いだせない。いつも私が気になっている、セリフのアクセントのつけ方、日本語の常識からすると奇異にも聞こえるメリハリのつけ方のごときにも、改善の跡が見えたとも思われない。が、それにも拘わらず、今度の『ラ・マンチャ』は、今度の幸四郎は、いままでとは異なるものとして私には受け取れた。

なるほど、という感じがした。なるほど、これはこういう芝居だったのだ、とすべてがすんなりと胃の腑に落ちてくれた。幸四郎の口を通して歌われ、語られるセルバンテスやドン・キホーテやキハーナ達の言うところ、語るところの言葉が、そのまま素直に胃の腑に落ちてくる。別に、これまで気が付かなかった新しい解釈が発見されたわけではない。これまで読み取れずにいた脚本の意味が今度初めて理解できたというのでもない。そういうレベルでのことなら、今度の舞台での新発見というものが何一つあったわけではない。だがそれにもかかわらず、私は、今度の舞台を見ながら、この『ラ・マンチャの男』というミュージカル芝居が初めて理解できたと思ったのだ。理解というより、得心出来た、と言った方がいいか。キホーテやセルバンテスの言うこと、語る言葉が、単なる箴言めいた意味以上の意味をもって心に届いてきた。

そうさせてくれたのは、今度の舞台での幸四郎のお蔭、という以外にはない。いつもと同じように演じていながら、(その仕草の癖、セリフの癖、外国人の役を演じる時に特有の、あの少しならず気障っぽい物腰声音、などなどなど)そうした外面に現れたものすべてを越えて、幸四郎の演じるところを通じて、その訴えるところのすべてが素直にこちらの胸に沁みてくる。なるほど、とはそういう意味である。

これまで私は、実を言うと、この『ラ・マンチャの男』というものが、もうひとつ、素直に見ることが出来ずにいた。ひとつには、その賞賛の声の圧倒的なことにいささか臍を曲げていた面もあるが、そんなにいいのかな、と内心呟くのが正直なところだった。同じ西洋人の役なら、むしろ『アマデウス』のサリエリの方が、幸四郎の仁にふさわしい。そうも思っていた。いい意味にも悪い意味にも、ある種の作為を、私は幸四郎の舞台に、演技に覚え、それが、薄紙一重のような微妙さで、私を素直にさせずにいた。もちろん誰であろうと、演技をする上で何らかの作為のない役者はいない。しかし少なくとも、私は、何故彼はあのように演じようとするのか、それを考えることを批評をする上での根底に置いて考えてきた。誰だって、何らかの考えがあればこそ、ああいう風にセリフを言い、こういう風に仕草をして役を演じているはずであり、それを抜きに、あれは間違っている、これはよくないと決めつけることは、するまいとしてきた。そういう私のスタンスからすると、正直なところ、幸四郎は、一口に言えば批評をしにくい人だった、とはいえる。もちろん、これは非難ではない。批評がしにくい、とは、どういう風に評すればいいのかその都度考えさせられる、というほどの意味と思っていただけばいいだろう。

今度の『ラ・マンチャの男』を、しかし私は、そうしたことを一切忘れて見ていた。こんなにも素直に、こんなにも自然に、幸四郎を見たことはないと言ってもいい。私はただ、心地よく心を遊ばせながら舞台を見ていた。しかし同時に(それもまた批評などというこちたき業をする者の哀しき性かも知れないが)、このことをどう考えればいいのか、ということも、頭の一方では考えないわけにいかなかった。が、それは性急に答えを出すべきことではないだろう。見終わったいま、幸四郎のこれから、というものが新たな楽しみとなってきたのは事実である。

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