随談第448回 昼夜勧進帳

今月の新橋演舞場は、七代目幸四郎追遠と銘がついて、幸四郎と團十郎が昼夜で『勧進帳』を弁慶と富樫で替って勤めるというのが、事前からの話題だった。事前から、といっても、それでワーッと湧くというより、ヘーエ、と目を丸くする、という方が実の処であったろう。なにしろ、幸四郎はつい先々月、『ラマンチャの男』一二〇〇回達成のさなかに人生古来稀なる古稀の祝いをしたばかりだし、團十郎がつい数年前、別の意味で稀なる難病を病んで生還したことは記憶にまだ新しい。

昼夜で弁慶と富樫を替るというのは、富十郎がまだ市村竹之丞で、(猿翁の名がまだ身に添わない)三代目猿之助と、たぶんそれぞれまだ三〇代と二〇代の精気有り余っていた頃、旧新橋演舞場でやったのを見たことがあるだけだ。(このときは更に、義経も訥升の九代目宗十郎といまの田之助が昼夜で替り、亀井と駿河を團子と精四郎、つまり段四郎と澤村藤十郎が替るということをしている。)このときの『演劇界』の劇評は長老の濱村米蔵だったが、こんな無茶をすることがあるかとしきりに怒っている。

一日替わり、というのは時々ある。実際に見たかぎりでその最大のものは、昭和四〇年三月、やはり七代目幸四郎のこのときは一七回忌追善というので、まだ健在だった(といっても、半年余ののちの十一月に亡くなるなどとは、そのときは誰も夢にも思っていなかった)十一代目團十郎と八代目幸四郎(白鸚という名前で呼ばれるようになるなんてことも夢にも思っていなかった)と二代目松緑の、いわゆる高麗屋三兄弟で弁慶と富樫を一日づつ替り、義経まで雀右衛門と芝翫(にはまだなっていなかったから当時は先々代福助)と延若の三人で替るということをしたときだろう。このときは流石に大変な評判となった。三役三交代だから全部の組み合わせを見るためには何日日参しなければとか、いろいろ話題を呼んだ。私は三日通って三人弁慶・三人富樫・三人義経を見たが、一幕見を見るために長蛇の列となったのはその後もあったが、あれだけ湧いたのはそうざらにはなかったろう。四天王のひとりひとりに声を掛ける(いまなら当り前だが)人があると、「黙れ、百姓」と声が飛んだりした。もっともこの四天王が、常陸坊を除くと後の名で幸四郎、吉右衛門、先代辰之助だった。(そういえばこの三人の日替り弁慶・富樫・義経というのは何回もあった。)

今度だって、今を極める孫たちによる七代目の追遠というのだったら、吉右衛門も出て、義経も併せて三役日替わりというのもあり得たわけで、その方が正当であり、素直にオーッということになっただろう。もっとも、染五郎休演のおかげで昼夜義経を勤める(努める、と書くべきか?)坂田藤十郎は、(初日にはヨッコラショだったとかいう声も聞いたが)高く声を張って、能の子方の感じを出して、流石というところを見せている。(それにしてもこのトリオ、合計すると二百歳を超える筈だが、おそらく新記録に違いない。記録映画に残る七世幸四郎・十五世羽左衛門・六代目菊五郎トリオより上であることは間違いない。)

組み合わせからいうと、昼の部の團十郎弁慶・孝四郎富樫よりも、夜の部の幸四郎弁慶・團十郎富樫の方が坐りがよく、安定感がある。團十郎は、弁慶はむしろ延年の舞以降になってから、弁慶の稚気とご本人の稚気が重なり合うような感じにこの人ならではの大らかさがあったのを良しと思って見た。踊りながらしきりに掛声を発していたのは自らを励ますためと思って聞いた。富樫も、昔の羽左衛門以来の二枚目風と違う、剛直で清廉な武人という感じが強く出て、好もしく見た。

幸四郎は、ひとつひとつの件の仕草や表情に意味を籠め、意味を明らかにしつつ、演じ進める。弁慶が、富樫が、いま何を思い、何を考えてその行為をしているのかが、逐一明らかにされる。義経と知りつつ富樫が去ってゆくとき、(これは幸四郎が亀井役の友右衛門に注文をつけたのだろう)亀井が中腰のまま少し伸び上がるようにして弁慶に何やら問うているかのようにすると、弁慶も(あきらかに口を動かして)何やら亀井に指示(だか注意だか)をする。亀井が得心して引き下がる、というような、やりとりというには時間から言ってもほんのわずか(二,三秒もあるだろうか)、長唄が特に引き伸ばして唄うというほどでもない、気がつかなかった人がいても別に不思議ではないほどのことだが、よかれあしかれ、なるほど幸四郎らしい、と思わず微笑しながら見た。しかしこういう行き方を押し進めるとすると、富樫が一倍検察官風に見え、弁慶が一倍、理非曲直を重んずる統率者としてイメージされることになるのは、当然の結果というべきであろうか? 幸四郎自身は、そこらをどういう風に思っているのだろう? (ここで計算、という言葉を使うのは、語弊があるかもしれないが。)

総じて言えば、弁慶の方が、富樫よりも見ていて安定感があるのは、いまや俳優幸四郎の身に備わった風格が、そうした細部を覆い尽くすだけの大きさになっているからで、それこそは、祖父から父から自ずから伝わり、且つ身につけた「高麗屋の風」というものに違いない。幸四郎は、もっとそのことの方を信じていい。

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