随談第459回 勘三郎随想(連載第4回)

もう、ここからは勘三郎と書くことにしよう。

やがて、もう夜も遅いし、三々五々、引き揚げる人が出る。私も立とうとすると、勘三郎が私の顔を見ながら、座れというように床を叩く。気配から察するに、帰って行く人もあれば、別室に席が出来てさらに話が弾んでいる様子もある。あっちへ行くよりここで二人だけで話そう、というわけだった。私は座り直した。

二人、差しになって座って、やがてどういう話の流れでだったか、勘三郎はつと立ち上がると梅幸のおじさんから教わったやり方だといって、お嬢吉三がおとせを川に突き落として橋杭に足を掛けてツラネにかかるまでの仕草をほとんど本息で、ひとながれの呼吸の内にやってみせると、ね? と言う風に私の目を見た。

これは、梅幸が最晩年と言っていい頃、ひさしぶりにお嬢吉三をしたときに、私がアッと気がついたことがあって、そのことを『21世紀の歌舞伎俳優たち』の中で菊五郎のお嬢吉三のやり方と比較して書いたのだったが、菊五郎がするように、橋杭に片足をかけてから、一拍おくような感じで(さあ、アリアを歌いますよ、とでもいうかのように?)、「月も朧に白魚の」とツラネを始めるのではなく、おとせを突き落とし斬りかかってきた金貸しから刀を奪うとそのまますっと橋杭に足を掛け、キマルかキマラナイかのようなひと流れの呼吸の中で、すべてが運ばれる。それは、どちらが正しいということではなく、少し大げさに言えば歌舞伎に対する「思想」の違いのように思える、つまりそれは、梅幸時代の歌舞伎と、現在の菊五郎の時代の歌舞伎とでは、社会の中での在り様が違うし、社会の側の歌舞伎への対し方も違う、そうしたことどもがそこに反映されての結果のように思える、といった趣旨のことを言ったのだった。

その時点ではまだ単行本にはなっていないから、連載の何回目かに掲載されたバックナンバーを読まなければ勘三郎が知っている筈がない。なぜかその前後の脈絡が記憶から抜け落ちているのだが、私の方からその話題を持ち出したのであったかもしれない。ともあれ、その時の勘三郎の、流れるような仕草の間と呼吸の見事さに私は見惚れていた。これはいま、誰もやらないやり方だと梅幸のおじさんが言って教えてくれたんだ、と勘三郎は言った。

勘三郎は、のちにコクーン歌舞伎の『三人吉三』では和尚吉三をつとめることになるが、もともとは、梅幸からお嬢吉三を教わりいずれ自分もお嬢をするのだと思っていたらしい。つまり、遂に実際に演じることがなかった勘三郎のお嬢吉三のエッセンスを、私はこうして間近から見たことになる。(私としては、お坊を見てみたかったという思いもあるが、それはこの際、他日の話である。)

「月も朧に白魚の」に始まる名調子のセリフは「厄払い」と呼ばれるが、これは途中で、「御厄払いましょう、厄落し」と、節分の日に家々の旧年の厄を払って歩く男の声が合の手のように聞こえてくると、厄を西の海へ払い落とすように夜鷹のおとせを西の海ならぬ大川へ突き落として百両をせしめたのを、こいつは春から縁起がいいわえ、とひっかけて言うところからついた通称であって、セリフの分類上からいうなら、『暫』の花道の長台詞などと同類の「ツラネ」と考えていい。解説本などでよく、オペラのアリアになぞらえられて、なるほどうまい喩だから私もときどき借用させてもらうが、つまり、本物のオペラだと、ストーリーを中断してわざわざカーテン前に出てきてアリアをアンコールで歌ったりするように、劇の一部でありながらそこだけが取り外しが利くように出来ている。まさか歌舞伎の舞台で「月も朧に白魚の」をアンコールしたりはしないが、そこだけを、宴会の席でかくし芸にやってみせて同僚や部下を悩ませる「歌舞伎通のおじさん」というのは、以前はそこらによくいたものだ。だから、というか、すなわち、というか、歌舞伎のツラネも、そこだけが筋の展開の中で「特別区」のようになっている。

で、ここでようやく話が本道に戻るのだが、ところでこのとき勘三郎がやってみせてくれたようなやり方だと、「月も朧に白魚の」と謳い上げはしても、おとせを川に突き落とすというその前からのしぐさとひと流れの呼吸の中ですることになるから、そこだけを、さあこれからアリアを始めますよ、という風にはならない。フーム、という思いで私は見ていた。私は梅幸晩年のお嬢吉三を見てアッと思い、いままた目の前で、梅幸のおじさんから教わったやり方だと言って、勘三郎が立ってやってみせてくれたのだ。(梅幸のお嬢吉三は以前にももちろん見ているが、その頃はこちらにそこまで気が回る余地がなかったので、気が付かなかった、というか、見過ごしていたと見える。)

ところで、話はずーっと飛んで、あれは勘三郎襲名披露の公演を名古屋の御園座でやったときだった。夜の部に『白浪五人男』が出て、もちろん勘三郎が弁天小僧で「浜松屋」のゆすり場になった。勘三郎の弁天が番頭や手代とのやり取りで、「ナニ、ワッチを知らねえ?」「どこの馬の骨か、知るものか」と番頭が応じるとすぐそのままの息で受けて「知らざあ言って、聞かせやしょう」と時代に受けて、世話に落とす。という勘三郎を見ながら、アッと私はこのときのお嬢吉三を瞬時に思い出していた。なるほどこれだな、と思った。

弁天小僧の「知らざあ言って聞かせやしょう」もアリアである。しかしそれは、勘三郎だと、浜松屋の番頭や手代とのやりとりとひと流れの呼吸の中で「知らざあ言って」と時代に張って受けて、「聞かせやしょう」と世話に落とす。だってそこは、浜松屋の店先という世話の芝居の中なのだから。純然たるアリアになるのは、だからその次の「浜の真砂と五右衛門が」からということになる。先に言ったお嬢吉三の「アリア」の場合と、通じるところは共通している。アリアはアリアと様式本位に考えるのでなく、芝居の流れの中に「アリア」という様式が縫いこまれる、というか。菊五郎のように、はっきりと一拍おいてから、知らざあ言って聞かせやしょう、と始めるのとは明らかに違う。

誤解があるといけないが、私は勘三郎のが正しくて、菊五郎のが間違っている、などと言っているのではない。菊五郎のやり方にも充分理はあって、先にも言った通りそれは現代における歌舞伎の在り方と関わっている。菊五郎の聡明は、それを考えてのことであろうというのが、私の考えであり、そのことは『21世紀の歌舞伎俳優たち』に書いた通りだし、そもそも、梅幸晩年のお嬢吉三の話は、その中で菊五郎を論じる上での引き合いに出したものだった。だがこのことは、これ以後、勘三郎の芸を考える上で、私の念頭から離れなくなった。

思うに、つまりここらが、六代目菊五郎から梅幸を経て勘三郎へと伝えられた「秘伝」なのであろう。六代目が、黙阿弥狂言でよく役どころが競合した十五代目羽左衛門の弁天小僧を評して、あれは「世話」ではなく「時代世話」だ、と言ったとかいう話も思い出された。羽左衛門の弁天は「知らざあ言って聞かせやしょう」と独特の名調子で謳い上げたのであったらしい。

吉祥院のお坊吉三のセリフではないが、少々話が理に落ちたかもしれない。もうひとつ、この時のことでいまでも覚えていてときどき思い出すのは、勘三郎が、親父には安藤鶴夫という人があったけど、上村さんはああいうタイプじゃないよね、と言ったことである。もしかすると勘三郎は、私に安藤鶴夫みたいな役割を求めようと思ったのだろうか?

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