随談第460回 團十郎のこと

團十郎逝去の報ほど驚いたことはない。勘三郎の時とは、またひとしお違う。 

訃を聞いてから夜中に一本、夜が明けてから一本、共同通信と日経に、計二本、追悼文を書いたし、幾つかの処からインタビューも受けたのも何らかの形で記事になるだろうから、多少の重複は避けられないが、ここではなるべく、書かなかったこと、それ以外のことを書くことにしよう。それにしても、マスコミがこれほどまで、團十郎のことを報道するとは思わなかった。もう少し、型通り、ひと通りのことですませるのかと思っていた。勘三郎のときの狂奔だけではなかったのだ。報道の仕方もあまりツボをはずしてもいない。こう言っては何だが、テレビ局というものを少し見直す気になっている。

本丸に直撃弾を受けたような気がする、とはインタビューにも答えたことだが、一番直接的な意味では、昭和40年代に花形として売り出して以来、やがて第一線に立ってからも、常に歌舞伎の主力であり続けた一群の中から、遂に一枚、駒が欠けることになったという感慨だった。私の観劇歴の中で、年齢的にも近いせいもあって、最も長期にわたって見続けたのは、じつにこの人たちだった。これが勘三郎や三津五郎となると、子役としてつとめたあの役この役も見ているぞ、ということになって、ちょっとニュアンスが変ってくる。その中の、大駒が一枚、遂に欠けた。平凡な言い方だが、至近弾が近くに落ちて炸裂した感じだ。

個人としての團十郎と別に、歌舞伎のシンボルとしての團十郎の存在というものを、どうしてもまず、考えないわけには行かない。團十郎は、歌舞伎という国の、一種の象徴天皇だったと私は思っている。現実の天皇が、個人としては極めて謙虚な人柄であるにも似て、團十郎という歌舞伎の天皇も、決して威張ったり尊大だったりすることがないにもかかわらず、いやむしろそれ故に、歌舞伎のシンボルたり得た。これも書いたことだが、(実は4月1日発行予定の日本俳優協会編の『かぶき手帖』2013年版の「市川團十郎」の項にも同じ趣旨のことを書いたのだったが、この事態で載らない幻の原稿になってしまった)、旧歌舞伎座のさよなら公演の掉尾を飾ったのが團十郎の『助六』であったことを、歌舞伎界の内外、観客の誰しもが了解し、納得したという一事が、すべてを語っている。

團十郎の訃を伝える記事や番組が、ひとしきり報じた後、これからの歌舞伎は、というところに話題を移したのも、やはり皆ひとしく、単に大物俳優がなくなったからというだけではない、團十郎の存在の在り方を、無言の裡に感じ取っていたからに相違ない。歌舞伎という神輿を担いでいた担ぎ手の中から、團十郎の姿がなくなったということが、すぐに、この神輿は今後、誰が担いでゆくのだという話になる。つい去年の四月、若手花形世代で陣容を固めた『忠臣蔵』にちょっとがっかりしたのも、まだ記憶に新しい。(勘三郎があれを見て激怒したとか、35点と採点したとかいう話も聞いた。)

もっともあの『忠臣蔵』には、海老蔵も勘九郎も七之助も出ていなかった。新しい歌舞伎座のこけら落とし公演の7月、8月、9月の三カ月は若手花形の公演らしいが、今度は総力結集しての、もう一度『忠臣蔵』だっていい、『菅原』か『千本桜』でもいい、彼らの「いま」のありたけを見せてもらいたい。いやその前の六月、当初三カ月のこけら落とし公演の掉尾を飾って、やはり團十郎の『助六』が出る筈だったが、あれは当然、海老蔵に福山のかつぎから一躍して助六をさせるのでなければなるまい。海老蔵としては一世一代の大勝負、そこでやんやと言わせてこそ男、海老蔵にとっては終生の語り草、歌舞伎にとっては起死回生のまさに「独尽湯」となるであろう。(捨て身でかかっての大勝負、荒川の佐吉を地で行くようだが、そうだその「佐吉」を、こんどは納涼歌舞伎でやればいい。)

最後にちょっと、個人的な思い出を語ることにしよう。「勘三郎随想」にも書いた『21世紀の歌舞伎俳優たち』を、1998年から99年にかけて『演劇界』に連載したのを、翌年、三月書房から本にしてもらえることになって、そこで論じた俳優たち一人一人に断りの手紙を出した。幸い、全員から快く了承の返事をもらえたのだったが、(その返事の来方が、ひとりひとり、それぞれに違っていて面白かった。本人が直接電話をくれた人、奥方を通じて電話なり手紙をくれた人、等々さまざまあったなかに、團十郎から分厚い封書が届いた。ペン書きの自筆である。便箋で10枚近くあったろうか、びっしりと書いてある。これだけ書くには1時間は優にかかるに違いない。要するに、了承するというのだが、実は『演劇界』に連載中には読んでいなかったのでこのほどバックナンバーを読んでみたという。なるほどと思うところ、よく書いてくれたと思うところ、これは違うな、と思いながら読んだところ、さまざまあるが、ひとつひとつの意見・見解は著者のものであるからそれに容喙するつもりはない。ただ一カ所、書き改めてほしいところがあるのだが・・・という内容だった。もっともと納得したので、私も、たしか6,7枚にはなったかと思う、それではこうこう、こういう風に改めては如何であろうかと、了解した旨の返事を書いたのだったが、はじめに読んだ時の威圧感というものは、いまも忘れない。文章も文面も、誠実な人柄そのままを反映し、威圧的な要素など少しもないのだが、ひしひしと押してくるものがそう感じさせたのだが、それについてはもうひとつ、わけがあった。

たまたまその月、團十郎は歌舞伎座で真山青果の『江戸城総攻』の西郷を、幸四郎の勝海舟とやっていて、わたしはつい前日、それを見たばかりだった。例の、官軍の江戸総攻撃を目前にしての勝と西郷の会談の場面である。團十郎が、あの総督府司令官の洋服姿の西郷の扮装で、諄々と無血開城を説く幸四郎の勝を相手に、大変な重量級の芝居を見せ、芝居としてはなかなか結構だったが、それを見た翌日に、当の西郷ならぬ團十郎からこういう手紙をもらった威圧感というものは、ともあれ大変なものであった。團十郎が、西郷の扮装のまま私の前に現れたに等しいヘヴィー級の貫録は、夢に現れてもおかしくない迫力だった。(もっとも私は、ごくつまらない夢しかみない質(たち)なので、幸か不幸か、團十郎が夢にあらわれることはなかった。)

ともあれ、事態は互いに氷解出来、團十郎は出版記念会にまで出席してくれた。その誠実は、ひとしお心に沁みた。團十郎との、これこそ一期一会の思い出である。

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